呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット 作:役を解かれぬ者
扉に、手がかかった。
乙骨は廊下へ踏み出す直前、不自然に足を止めた。
理由は分からない。ただ、松明の光が扉の木目に落とす微細な影の筋から、視線が離れなかった。
視界の端で、垂れ幕が揺れる。
風はない。にもかかわらず、それは生きた重みを持って動いた。
乙骨の体が、思考よりも速く旋回した。
「ねずみ捕り」――劇の仕上げを急ぐように、抜き放たれた刀が迷いなく布地を貫く。
刃はその奥にある柔らかな質量を深々と捉えた。
布が重なり合う音と、人体が石畳を打つ鈍い衝撃音が、同時に響く。
垂れ幕の隙間から、楽巌寺嘉伸が崩れ落ちた。
「……あ」
すぐに九十九が駆け寄ろうとしたが、足がもつれ、石畳の上へ転び伏せる。
震える手で床を突き、立ち上がることを忘れて目の前の光景を凝視した。
乙骨は、足元の影を見下ろしながら、淡々と呟いた。
「なんだ……。あなたでしたか」
驚きも怒りもない。
ただ、そこに存在する物を確認するだけの平坦な声だった。
「悪いことしちゃったな……」
それは、不注意で茶碗を割った時のような、軽すぎる謝罪だった。
「早まったことを……むごたらしい」
九十九が喘ぐように漏らす。
乙骨の視線が、床に這いつくばる彼女へとゆっくり移動した。
瞳の奥の青白い炎が、暗い愉悦を孕んで揺れる。
「むごたらしい……。そうですね、九十九さん。あの王に寄り添うのといい勝負だ」
沈黙の中に沈む楽巌寺の影を見つめ直した乙骨が、独り言のように続けた。
「いや……あんな奴に味方する、あなたの方が悪いです」
だから、僕は間違えた。でも――。
行動が意志を決定し、意志が次の行動を決定する。
「その意味では、この人はいい犠牲になった!」
唐突に、乙骨の喉の奥から笑い声が溢れ出し、静まり返る部屋に響き渡った。
九十九の息が止まる。今、この少年の内側で、何かが噛み合った。
乙骨は一度だけ深く息を吐いた。
吐き出された熱とともに、彼の中から何かが抜け落ちていく。
その表情からは、先ほどの高揚が嘘のように消えていた。
刀を鞘に納めることもなく、乙骨が九十九の方を向いて告げた。
「言いたいことは言わせてもらったので、あとは好きに選んでください。……おやすみなさい、九十九さん」
そう言って彼は屈み込み、楽巌寺の足首を掴んだ。
「大丈夫です。殺した責任はとりますよ」
そのまま彼が歩き出し、重く、湿った摩擦音が廊下に響き始める。
楽巌寺の体が石畳を引き摺られ、乙骨の喪服の裾がその血と廊下の湿り気を吸い上げて真っ黒に汚れていく。
九十九は、遠ざかっていく足音を、ただ聞いていた。
それは、乙骨の中で人間としての「良心」が、重い物音を立てて運び去られていく響きだった。
裏庭の土は、夜露に濡れて重かった。
乙骨はシャベルを手に取り、己の体重をかけて掘り起こす。
石に当たる硬い振動が掌を痺れさせた。
爪の間に土が入り込む。
皮膚の隙間に、死者を埋めた黒い記憶が詰まっていく。
彼は泥にまみれて穴を穿ち、すべてを隠した。
埋葬を終え、再び回廊を歩く。
角を曲がったところで、松明の光が揺れた。
「楽巌寺先生の姿が見当たらないという報告が来た」
加茂の声だった。
乙骨は立ち止まり、泥に汚れた両手を袖の中へ反射的に隠した。
「乙骨君、君は……」
加茂の言葉が凍りつく。
夜露に濡れ、泥にまみれ、瞳だけが異常に澄んだ怪物の姿。
「適切に処理した」
熱のこもらない声が、夜気の中に不吉に霧散した。
謁見の間は、夜明け前の沈黙に支配されていた。
羂索は最初から待ち構えていたように玉座に座し、乙骨は跪くことなくその前に立った。
「楽巌寺先生の姿が見当たらないようだ。……残念なことだが、事故として処理しよう。君が悼む必要はない」
慈悲の形をした免罪。「共犯」という鎖で縛り上げようとする、親切な声。
乙骨は、その微笑みの奥に潜む冷徹な計算を見据えた。
「僕は、犯した罪の順番に正当に罰が下されるなら……どんな罰でも受けるつもりです」
「人殺しの罪は重いよ、乙骨君。本来なら、死罪になる」
羂索が憐れむように目を細める。乙骨はその視線を正面から睨みつけた。
「ええ。死罪になるべきです!」
重い沈黙が流れる。羂索は微笑を崩さず、慈愛に満ちた声で続けた。
「……だが、私は君を咎めはしない」
「人殺しを擁護なさるとは。素晴らしい王だ」
乙骨が鼻で笑う。剥き出しの皮肉に、羂索の眉が僅かに動いた。
「君は……私を恨んでいるのかい?」
「心当たりがあるんですか?」
探るような、挑発的な問い。羂索は「いや?」と軽く受け流し、一つため息をついた。
「では、僕はあなたを恨んでなどいないでしょう」
乙骨の言葉は、会話そのものの拒絶だった。
「……このデンマークには、悟との思い出も多い。君の心も休まらないだろう」
羂索が告げる。
「しばらく友人たちと、イングランドに行くといい。気分転換が必要だ」
「……分かりました」
乙骨は短く応じ、深く頭を下げた。
袖の中で、土の詰まった指先を強く握りしめる。
王宮の目を離れ、異国の地へ。これは猶予ではなく好機だった。
謁見の間の扉が開く。
最初の一筋、石畳に落ちた朝の光。
乙骨の喪服はその光を吸い込み、黒を深めた。
爪の間に詰まった死者の土だけが、光の中でも、なお暗い。