呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット 作:役を解かれぬ者
船が北海を裂き、イングランドへ向かう。
デンマークを呑み込んだ霧は、甲板に冷たい飛沫の残滓を散らしていた。
乙骨は手摺りを掴み、暗い海面を見つめたまま、背後の気配へ短く告げた。
「友を売るのも、任務のうちなんだね」
加茂憲紀は視線を落とし、東堂葵は腕を組んだまま、荒れる海を凝視して動かない。
ゆっくりと振り返った乙骨の瞳には、色がなかった。
沈黙が流れた。
波音だけが空白を洗う。耐えきれず、先に言葉を漏らしたのは加茂だった。
「……国と友なら、誰もが国をとる」
「でも君も、気付いているんだろう?」
加茂は言葉を詰まらせた。
寄せては返す波間に、守るべき家族の影が明滅する。
亡霊を追う狂人に過ぎない友。そのために、母を、家系を、守るべき全てを賭けることはできない。
喉まで出かかった弁明を、加茂は鉄の味とともに飲み込んだ。
ただ、震えを殺して顔を背ける。
その沈黙を、東堂の太い声が断ち切った。
「個の死など些事だ」
東堂が、鋼のような瞳で乙骨を射抜く。
「呪術師である限り、俺は王の盾となる」
乙骨の中で、何かが音を立てて剥がれ落ちた。
彼らは知った上で、なお、あの王を選んだ。
手が、手摺りから離れる。
「僕は、君たちのことを友人と思っていたよ……」
二人の間を通り抜け、乙骨が船室へと歩き出す。
爪の間に詰まった死者の土が、潮風にさらされて乾き、硬質な殻となっていくのを、彼は冷徹に感じていた。
船が、軋んでいた。
天井の鈎から吊るされたランタンが揺れ、橙色の円が不規則な影を浮かんでは消している。
加茂憲紀は、自らの寝台に座り、鞄を見つめていた。
向かいの寝台では、乙骨が規則正しい寝息を立てている。
表向き、彼らに与えられた任務は「乙骨の療養への同行」。
だが、鞄の底には、王から直接手渡されたもう一つの真実がある。
彼は震える指で鞄を開け、一通の密書を取り出した。
印章の下に、「乙骨憂太」の名と、冷酷な「処刑」を命じる言葉が綴られている。
――イングランド到着後、現地の官吏へ渡せ。
それが加茂家存続を条件に王が命じた、真の「護送」という名の幕引きであった。
加茂は逃げるように密書を仕舞い、甲板へと去った。
足音が遠ざかり、静寂が戻る。
その瞬間、乙骨の目が開いた。
音もなく起き上がった乙骨は、加茂の鞄から迷いなく密書を取り出す。
指先が、羂索の私印を撫でた。
「忠実なる友、イングランドの王よ。……我がデンマークの剣によって刻まれた傷痕を今なお畏怖し……」
羂索が綴ったであろう、身の毛もよだつほど傲慢な支配の言葉。
「……ふっ」
乙骨の口端から、乾いた笑いが零れた。
この男は、かつて五条悟が「最強」として守り抜いた国の威光を、今、卑劣な暗殺の道具として弄んでいる。
その滑稽なまでの尊大さが、乙骨の胸に冷たい空虚をもたらした。
乙骨は懐から、一つの小さな印章を取り出した。
かつて五条が「そのうち憂太が使うようになるから」と手渡してきたもの。
当時はその意味が分からなかったが、今、掌にあるそれは、正真正銘の「王の代理人」を示す呪印だった。
乙骨は寝台の脇に座り、羽ペンにインクを含ませた。
ナイフの先で、羂索の綴った「我が弟子である乙骨憂太」の文字を薄く削り取る。
剥がれ落ちる羊皮紙の粉は、まるで死者の皮膚の欠片のようだった。
「……
呟きとともに、乙骨の瞳から一切の感情が消えた。
筆跡、インクの濃淡、文字の傾き。
羂索の癖を脳内で精密に再生し、心を無にして白紙の上をなぞる。
羽ペンが走るカリ、という音だけが、船室の軋みの中で硬質に響いた。
「『この書状を携えし者たち』……いかなる猶予も無用。直ちにその首を
書き終えた文字は、羂索自身の筆跡と寸分違わぬ冷酷さを湛えていた。
乙骨は五条から託された印章を押し当て、熱した蝋で封を閉じる。
密書を丁寧に加茂の鞄へ戻すと、再び寝台へと身体を沈めた。
イングランドの港は、すべてを拒絶するような灰色だった。
朝霧が岸壁を包み込み、石壁も、船の影も、すべてが曖昧に滲んでいる。
その不確かな世界の中で、加茂が差し出した処刑状の文字だけが、残酷なまでに鮮明だった。
詰所の官吏の顔色が変わり、加茂と東堂の名が呼ばれる。
「加茂家のために、私は友も、魂も捨てた。だが……その結末がこれか」
加茂の声は割れ、霧の中に消えていく母の幻影を追う力さえ残っていなかった。
対照的に、東堂は両脇を固められながら、低く垂れ込めた空を見上げた。
「これが、俺の引き寄せた結末か」
不敵な高笑いが、詰所の壁に跳ね返り、霧を切り裂いた。
乙骨は、その喧騒から離れた路地の陰にいた。
自分の手を見つめる。
友の名を死の宣告へと書き換えた手が、驚くほど静かにそこにあった。
――傷ついた。
震えていないことに。
「……僕はすべてを捨てても成し遂げる。そう決めたんだ」
誰に聞かせるでもない低い声。
彼はまだ微かに痛みを訴える魂の残滓に言い聞かせるように、一歩を踏み出す。
喪服の黒が霧を侵食しながら、灰色の深淵へと消えていった。