呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット   作:役を解かれぬ者

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第2話 忠誠

 

 

 

白百合が、腐っていた。

 正確には、腐敗はまだ始まっていない。

 祭壇に積まれた純白の花弁は、今朝摘まれたばかりの瑞々しさを保っている。

 しかし大広間に満ちた芳香は、どこか甘く崩れた(もや)を帯びていた。

 

蜜が、自ら崩壊を望むような、熟れすぎた死の予兆。

 花のせいではない。この王宮のどこかが、根の底から腐り始めていた。

 

 

巨大な円柱の陰に身を潜めたパンダの鼻腔(びこう)が、不吉な予感に震える。

 白百合の甘さ、石灰の乾き、脂の匂い。

 それら幾重もの層を透かし、獣の嗅覚が深淵に沈む淀みを捉えた。

 

生き物が生を手放した瞬間に滲む、抗いようのない死の気配。

 それが広間を薄く、執拗に覆っていた。

 

 

 

祭壇の中央に据えられた(ひつぎ)では、五条が眠っている。

 その安らかな姿と対面した朝、夜蛾は危うくその名を呼びそうになった。

 今も伸ばしかけた指先が、石のように冷え切った頬の感触を思い出し、止まる。

 

彼を包む空気の奥には、晴れた日の石畳が持つ温もりが残っていた。

 日向を(はら)んだ気配が、壁の隙間や床の目地からかすかに滲み出している。

 無下限という術式が、空間に刻んだ残穢。

 死してなお、最強はこの城の骨格に溶けていた。

 

 

 

控え室の窓の硝子(がらす)戸が、外側に広がる夜を吸い込み、鈍く曇った鏡となって室内の欺瞞(ぎまん)を映す。

 羂索は、その黒ずんだ鏡の底に沈む自分の影――夏油傑の形をした虚像を見据えていた。

 

彼は微笑みの角度を、わずかに寄せた。

 

悲しみに沈みながらも、品位を保つ喪主。

 

指先で喉元の筋肉をなぞり、皮膚の裏側の緊張を(ほど)いていく。

 鏡の中に浮かぶのは、伏せられた長い睫毛が頬に落とす影と、湿り気を帯びた瞳の縁。

 完璧に整えられた悲劇の面は、皮肉なほどに人を惹きつける。

 弔いの場にそぐわぬその瑞々しさこそが、簒奪者(さんだつしゃ)が用意した最も残酷な舞台装置だった。

 

 

 

羂索が広間に姿を見せた瞬間、それまで空間を満たしていた微かな体温が、音もなく剥がれ落ちた。

 壁の隙間に残っていた日向の匂いも、床の目地に染み付いた温もりも、跡形もなく消える。

 あとに残ったのは、主を失った石灰の冷たさと、記憶を持たない百合の香りだけだった。

 

羂索の嘆きは、あまりに美しすぎた。

 震える肩、頬を伝う涙、親友の名を呼ぶ、絞り出すような声。

 それらすべてに揺らぎはなく、完成された劇の一幕としてそこに在った。

 

――教え子の死さえも、この男の舞台を飾るための小道具に過ぎない。

 

夜蛾は、法衣の裾を握りしめた。

 

本物の悲しみには、後悔という名の棘がある。

 だが、目の前の男の涙には、棘が一本もなかった。

 完璧な悲しみの中に潜む、絶対的な感情の不在。

 その虚ろを、夜蛾は皮膚で理解していた。

 

 

 

「……夜蛾先生」

 

葬儀の喧騒が遠ざかった祭壇裏の控え室で、囁くような声が夜蛾の脳を貫いた。

 息を吸い、迷い、それでも恩師に(すが)ろうとする、あの(かす)れた残響。

 十年以上、繰り返し聴いてきた音が、現実を置き去りにして夜蛾の誤認を誘う。

 そこに傑がいて、悟はどこかで眠っているだけではないか、と。

 

だが、その脆さを信頼が否定した。

 

傑は、あんな風に迷わない。

 どれほど追い詰められようと、他者に縋る弱さを彼はとうに捨てていた。

 この男が奏でる「儚さ」は、教え子の生き様に対する冒涜(ぼうとく)でしかない。

 

「呪術界は今、最強を失いました。誰もが怯えている。この国の『型』を守れる者が必要です」

 

また、あの声が夜蛾に呼びかける。

 かつての教え子が甘えるような、しかしその奥に刃を潜ませた冷徹な声音。

 

「貴方の力が必要なのです、夜蛾先生」

 

その言葉は、控え室の外で息を潜める生徒たちの首筋に、見えない縄をかけるに等しかった。

 

夜蛾は掌の中心に爪を立てた。

 皮膚に破れ目が走り、鉄の匂いが滲む。

 その温かさだけが、彼を正気の側に繋ぎ止めていた。

 

彼らは、強い。

 たとえ放っておいても、この地獄を自力で生き抜くだけの(すべ)を既に持っている。

 だが、それを生徒たちに強いることは、教師としての敗北だった。

 どれほどの牙を持っていようと、彼らはまだ、大人になるまでの猶予を許された「子供」なのだ。

 

その当然の権利を、簒奪者(さんだつしゃ)の野心によって奪わせるわけにはいかない。

 

足元に落ちていた白絹が、乾いた響きを立てて踏みしだかれた。

 羂索の草履が、最強の象徴を泥とともに石床へ擦りつける。

 かつて親友同士が歩んだ数多の路を否定するような、冷酷な決別の音。

 

夜蛾は、膝を折った。

 誇りや名誉を差し出すことに、迷いはない。

 守るべきは、彼らの「時間」だけだ。

 

「……御意に」

 

喉の奥から絞り出した音は、言葉というより傷口から滲む影に近かった。

 

「……王よ」

 

羂索は満足げに目を細め、立ち去った。

 その微笑みは、似ているからこそ、夏油傑ではなかった。

 

 

 

廊下の遠くで、パンダの低い声がした。

 

「……嫌な予感しかしない。死の臭いだ、これは」

 

隣に立つ狗巻は答えなかった。

 喉の奥に言葉はあったが、この腐敗を声にすれば、それは取り返しのつかない現実になる。

 彼は石壁に額を押し当て、頭蓋から喉元へ伝う石の冷たさで、溢れ出しそうな「真実」を無理やり凍りつかせた。

 

パンダも、もう何も言わなかった。

 二人は石壁の前で、エルシノアの腐敗を身体の中だけに閉じ込め、夜の続きを待った。

 

 

 

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