呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット 作:役を解かれぬ者
白百合が、腐っていた。
正確には、腐敗はまだ始まっていない。
祭壇に積まれた純白の花弁は、今朝摘まれたばかりの瑞々しさを保っている。
しかし大広間に満ちた芳香は、どこか甘く崩れた
蜜が、自ら崩壊を望むような、熟れすぎた死の予兆。
花のせいではない。この王宮のどこかが、根の底から腐り始めていた。
巨大な円柱の陰に身を潜めたパンダの
白百合の甘さ、石灰の乾き、脂の匂い。
それら幾重もの層を透かし、獣の嗅覚が深淵に沈む淀みを捉えた。
生き物が生を手放した瞬間に滲む、抗いようのない死の気配。
それが広間を薄く、執拗に覆っていた。
祭壇の中央に据えられた
その安らかな姿と対面した朝、夜蛾は危うくその名を呼びそうになった。
今も伸ばしかけた指先が、石のように冷え切った頬の感触を思い出し、止まる。
彼を包む空気の奥には、晴れた日の石畳が持つ温もりが残っていた。
日向を
無下限という術式が、空間に刻んだ残穢。
死してなお、最強はこの城の骨格に溶けていた。
控え室の窓の
羂索は、その黒ずんだ鏡の底に沈む自分の影――夏油傑の形をした虚像を見据えていた。
彼は微笑みの角度を、わずかに寄せた。
悲しみに沈みながらも、品位を保つ喪主。
指先で喉元の筋肉をなぞり、皮膚の裏側の緊張を
鏡の中に浮かぶのは、伏せられた長い睫毛が頬に落とす影と、湿り気を帯びた瞳の縁。
完璧に整えられた悲劇の面は、皮肉なほどに人を惹きつける。
弔いの場にそぐわぬその瑞々しさこそが、
羂索が広間に姿を見せた瞬間、それまで空間を満たしていた微かな体温が、音もなく剥がれ落ちた。
壁の隙間に残っていた日向の匂いも、床の目地に染み付いた温もりも、跡形もなく消える。
あとに残ったのは、主を失った石灰の冷たさと、記憶を持たない百合の香りだけだった。
羂索の嘆きは、あまりに美しすぎた。
震える肩、頬を伝う涙、親友の名を呼ぶ、絞り出すような声。
それらすべてに揺らぎはなく、完成された劇の一幕としてそこに在った。
――教え子の死さえも、この男の舞台を飾るための小道具に過ぎない。
夜蛾は、法衣の裾を握りしめた。
本物の悲しみには、後悔という名の棘がある。
だが、目の前の男の涙には、棘が一本もなかった。
完璧な悲しみの中に潜む、絶対的な感情の不在。
その虚ろを、夜蛾は皮膚で理解していた。
「……夜蛾先生」
葬儀の喧騒が遠ざかった祭壇裏の控え室で、囁くような声が夜蛾の脳を貫いた。
息を吸い、迷い、それでも恩師に
十年以上、繰り返し聴いてきた音が、現実を置き去りにして夜蛾の誤認を誘う。
そこに傑がいて、悟はどこかで眠っているだけではないか、と。
だが、その脆さを信頼が否定した。
傑は、あんな風に迷わない。
どれほど追い詰められようと、他者に縋る弱さを彼はとうに捨てていた。
この男が奏でる「儚さ」は、教え子の生き様に対する
「呪術界は今、最強を失いました。誰もが怯えている。この国の『型』を守れる者が必要です」
また、あの声が夜蛾に呼びかける。
かつての教え子が甘えるような、しかしその奥に刃を潜ませた冷徹な声音。
「貴方の力が必要なのです、夜蛾先生」
その言葉は、控え室の外で息を潜める生徒たちの首筋に、見えない縄をかけるに等しかった。
夜蛾は掌の中心に爪を立てた。
皮膚に破れ目が走り、鉄の匂いが滲む。
その温かさだけが、彼を正気の側に繋ぎ止めていた。
彼らは、強い。
たとえ放っておいても、この地獄を自力で生き抜くだけの
だが、それを生徒たちに強いることは、教師としての敗北だった。
どれほどの牙を持っていようと、彼らはまだ、大人になるまでの猶予を許された「子供」なのだ。
その当然の権利を、
足元に落ちていた白絹が、乾いた響きを立てて踏みしだかれた。
羂索の草履が、最強の象徴を泥とともに石床へ擦りつける。
かつて親友同士が歩んだ数多の路を否定するような、冷酷な決別の音。
夜蛾は、膝を折った。
誇りや名誉を差し出すことに、迷いはない。
守るべきは、彼らの「時間」だけだ。
「……御意に」
喉の奥から絞り出した音は、言葉というより傷口から滲む影に近かった。
「……王よ」
羂索は満足げに目を細め、立ち去った。
その微笑みは、似ているからこそ、夏油傑ではなかった。
廊下の遠くで、パンダの低い声がした。
「……嫌な予感しかしない。死の臭いだ、これは」
隣に立つ狗巻は答えなかった。
喉の奥に言葉はあったが、この腐敗を声にすれば、それは取り返しのつかない現実になる。
彼は石壁に額を押し当て、頭蓋から喉元へ伝う石の冷たさで、溢れ出しそうな「真実」を無理やり凍りつかせた。
パンダも、もう何も言わなかった。
二人は石壁の前で、エルシノアの腐敗を身体の中だけに閉じ込め、夜の続きを待った。