呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット 作:役を解かれぬ者
王宮の庭園には、季節外れの冷たい霧が立ち込めていた。
その色のない世界を、祈本里香が彷徨っている。
手にした野花を千切り、虚空に撒き散らしながら、彼女はかすれた声で歌を紡いだ。
「偽りの恋、まことの恋。その人を見分ける目印は?」
「里香、その歌は……」
生垣の陰から、パンダが痛ましげに声をかける。
「なあに? お願い、黙って聴いて。……あの人はもういない、あの人はもう会えない。緑に覆われ、足もとに立つ墓の石」
里香が投げ落とした花を、狗巻棘がそっと拾い上げた。
里香の視線は定まらず、愛した男が父代わりの老術師を手にかけたという、耐え難い現実を拒絶するように泳いでいる。
「飾った花はかぐわしく、墓までついて行きはせぬ。恋の涙に泣きぬれて」
「里香、楽巌寺先生のことは……」
真希がせめてもの慰めを口にしようとしたが、里香はそれを遮るように声を上げた。
「お願い。その言葉は口に出さないでおきましょう。……でもね、冷たい土の中で眠っている人のことを思うと、どうしても泣けてしまう。……恵君にも知らせるわ」
里香の瞳に、ふと異質な光が宿る。
「おやすみなさい。優しいみんな……」
彼女は風に煽られる薄衣のように、唐突に走り去った。
パンダがその背を追いかけようとした瞬間、正門の方角から地響きのような不穏な呪力が押し寄せる。
「里香は俺と棘で追いかける! 真希は門のほうへ行ってくれ!」
パンダの叫びに、真希は頷き、影の噴き出す正門へと駆け出した。
早朝の王宮の正門が、蹴破られたような衝撃で開く。
蝶番が悲鳴を上げ、剥がれた鉄錆が石畳に散った。
伏黒恵が踏み出すたび、石畳の目地から呪力が影となって滲み出し、泥のように脈動する。
伏黒の瞳は充血し、瞳孔の奥で消えない炎が燃えていた。
フランスの地に届いた、楽巌寺嘉伸の訃報。
それを読んだ瞬間から、彼は一睡もしていない。
眠ればこの怒りが、復讐の潤滑油であるこの熱が、冷めてしまうことを恐れていた。
謁見の間を目前にした廊下で、真希がその行く手を阻んだ。
「落ち着け、恵」
「落ち着いてなんかいられません。忠義も、臣下の誓いも、悪魔にくれてやる。良心も神の恩寵も、奈落の底に棄てた」
伏黒の声は低く、ひび割れていた。
彼から溢れ出す影が、真希の足元までを侵食していく。
「……いたな。悪辣な国王」
伏黒の視線が、謁見の間の重い扉を開いて姿を現した羂索を射抜く。
「どうしたんだい、伏黒君。何故そんなに怒っているのか……」
慈父のような穏やかな声。
羂索は、伏黒を抑え込もうとする真希に一瞥をくれた。
「放してやってくれ。君は下がっていい」
真希は不快そうに顔を歪めたが、主命に逆らう術を持たず、しぶしぶその場を立ち去った。
廊下には羂索と、影に呑まれつつある伏黒だけが残される。
「ほら、言ってごらん」
「父はどこだ」
伏黒の声が、冷たい壁に跳ね返る。
初めて口にした「父」という言葉。
その響きに自らの魂が微かに震え、足元の影がより黒く濁った。
「死んだ」
短すぎる羂索の回答が、伏黒の脳を焼く。
「どうして死んだ。地獄堕ちは覚悟の上だ。ただ、父の復讐だけは、徹底的にやってやる」
羂索はすぐには答えず、心底から同情しているかのように眉をひそめ、かつての夏油傑が教え子に向けたであろう痛ましそうな眼差しで伏黒をじっと見つめた。
そして、深く傷ついた伏黒を気遣うように、躊躇いがちな仕草で言葉を紡ぐ。
「悲しいことだ。楽巌寺先生は、立派な方だった。そして……君の尊敬した先輩は、狂気に落ちてしまったんだ」
「……奴はどこにいる」
「乙骨君は、イングランド到着後に処刑されたよ。楽巌寺先生を手にかけた、その罪でね。……君には伝えておこう」
伏黒の顔から、一気に血の気が引いた。
復讐という生きる目的さえも、羂索の「処刑」という処置によって奪い去られた瞬間だった。
重苦しい沈黙が、廊下を支配する。
その直後。柱の向こうから伊地知潔高が滑り込んできた。
震える両手に握られた手紙には、潮風と海水の滲んだ跡があった。
「至急報です。差出人の名は……『乙骨憂太』です」
伊地知の喉が、引き攣った音を立てる。
伏黒の瞳が鋭く細まり、羂索の視線が伊地知の手元を射抜いた。
「読み上げてくれ」
羂索の静かな、しかし拒絶を許さぬ声が廊下に響く。
伊地知は、自分と羂索の間に漂う殺気に押し潰されそうになりながら、覚悟を決めたように手紙を広げた。
「『一筆申し上げます。このたび着のみ着のままにて、ご領地に上陸したことをご報告申し上げます。
静寂。
羂索の頬の筋肉が、わずかに波打った。
それは怒りというより、精緻な舞台装置の歯車に砂が混じったような、生理的な不協和。
盤上から掃き出したはずの「死体」が、自らの足で境界線を越え、戻ってきたのだ。
対照的に、伏黒の顔には、この世のものとは思えぬ「希望」が宿った。
「……生きているのか」
笑った伏黒の充血した瞳が、乾いた歓喜で爛々と輝く。
奪われるはずだった獲物を取り戻した、獣の貌。
その笑い声は、王宮の寒々しい石畳を這う影のように暗く、不気味に響いた。
壁の高い位置、暗がりに沈む通気孔。
その鉄格子の隙間に、一匹の歪な形をした昆虫が張り付いていた。複眼を模した水晶体が、微かな駆動音と共に焦点を合わせる。
ノイズ混じりの映像が、羂索の仮面の下にある不快と、伏黒の壊れた歓喜を、静かに記録していた。
与幸吉は、デンマークの暗い洞穴で、その映像を見つめていた。
――楽巌寺先生。誠実に生きようとする正気こそが、狂気なのですね。
通気孔に潜んでいた呪骸が、関節を軋ませて影の中へと退いた。
主を失った王宮を包む夜明け前の空気は、かつてないほど深く、冷たかった。