呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット 作:役を解かれぬ者
どこからか、歌が聞こえた。
幼子が口ずさむような、拙い婚礼の旋律。
音程の定まらないその震えは石壁に反響し、王宮の静寂を汚していく。
「もう帰らないの、あの人は? そうなの、死んでしまったの」
現れた里香は、痛ましくも裸足のままだった。
ドレスの裾は無惨に解けて糸を引き、石畳の目地に擦れる。
汚れを知らぬはずの白は一歩ごとに泥で煤け、彼女が通り過ぎた後には、ただ冷たい湿り気と、重く引き摺られた布の跡が残されていた。
「お前もお行き、死の床へ。あの人は二度と戻らない……」
里香がふと足を止め、虚空を仰いで笑う。その視線の先には誰もいない。
ただ、暗い天井が口を開けているだけだ。
「嘆いてみても甲斐はない。神さまどうかお恵みを」
その歌声に込められた無垢な毒に射抜かれ、伏黒恵は廊下の柱の陰で凍りついていた。
堪らず、彼女の行く手を遮るように、その幕間へと踏み出す。
「……まだ、俺が残っています」
焦点の合わぬ里香の瞳がゆっくりと伏黒を捉え、その口元に純粋な微笑みが浮かぶ。
里香は伏黒の顔を両手で優しく包み込んだ。氷のように冷たく、同時に焼けるような熱を持った掌。
彼女は伏黒の額に、静かに唇を寄せた。
唇が離れる。
里香の手が虚空から見えない何かを摘み取り、伏黒の掌に押し付けた。
「これはローズマリー」
存在しないはずの重みが、伏黒の掌にのしかかる。
そこに花などないと分かっていても、彼の神経は「棘」が刺さる幻痛を訴えていた。
「私を忘れないで。……誠実な恵くん」
今夜だけは止めておくはずだった涙が、一筋、伏黒の頬を伝い、石床へ落ちた。
里香はもう、伏黒を見てはいなかった。
廊下の角を曲がろうとした彼女の前に、九十九由基が立っていた。
あらゆる「呪い」からの脱却を説く特級術師の威厳は、空虚な少女を前に形を失う。
呪いのない世界を夢想しながら、目の前の最も純粋な呪いである「狂気」をただ傍観している己の臆病さが、鉛のような自責となって胸を突く。
自分はこの少女に、一体何を語る資格があるというのか。
里香の手が、より苦い何かを摘み取るように、慎重に動いた。
「これはヘンルーダ。……後悔の花」
九十九の掌の上に、見えない花が置かれる。
心の奥底に隠し続けてきた過去の重みに、彼女の指先が微かに震えた。
「半分こしましょう?」
理想を語るための口は、鉄の味を噛み締めたまま、一言も返せなかった。
少女の目に、無数の死を継ぎ接ぎした供花が映った。
その美しい花へ向けて、里香の手が、今度は豊かな何かを掌に載せる形を作った。
「これはフェンネル。強さと繁栄の花」
里香は、最高に美しく笑ってみせた。
微笑を保ったままそれを受け取った羂索の鼻腔を、目に見えぬ腐敗の甘い香りが突く。
「差し上げます。……王様」
可憐な少女の言葉が、千年生きた男の仮面の下を、鋭利な刃となって抉った。
里香は再び歩き出し、燭台の光が届かぬ暗がりへと向かっていく。
最後に一度だけ振り返り、空洞の笑みを浮かべた。
「みなさん、どうぞお幸せに……」
婚礼の旋律が遠ざかり、解けたドレスの裾が角を曲がって、消えた。
彼女の指先が虚空に手向けた見えない花々の香りが、清らかに、王宮の闇をどこまでも白く塗り潰していった。