呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット   作:役を解かれぬ者

21 / 31
第21話 見えない花

 

 

 

どこからか、歌が聞こえた。

 幼子が口ずさむような、拙い婚礼の旋律。

 音程の定まらないその震えは石壁に反響し、王宮の静寂を汚していく。

 

「もう帰らないの、あの人は? そうなの、死んでしまったの」

 

現れた里香は、痛ましくも裸足のままだった。

 ドレスの裾は無惨に解けて糸を引き、石畳の目地に擦れる。

 汚れを知らぬはずの白は一歩ごとに泥で煤け、彼女が通り過ぎた後には、ただ冷たい湿り気と、重く引き摺られた布の跡が残されていた。

 

「お前もお行き、死の床へ。あの人は二度と戻らない……」

 

里香がふと足を止め、虚空を仰いで笑う。その視線の先には誰もいない。

 ただ、暗い天井が口を開けているだけだ。

 

「嘆いてみても甲斐はない。神さまどうかお恵みを」

 

その歌声に込められた無垢な毒に射抜かれ、伏黒恵は廊下の柱の陰で凍りついていた。

 堪らず、彼女の行く手を遮るように、その幕間へと踏み出す。

 

「……まだ、俺が残っています」

 

焦点の合わぬ里香の瞳がゆっくりと伏黒を捉え、その口元に純粋な微笑みが浮かぶ。

 里香は伏黒の顔を両手で優しく包み込んだ。氷のように冷たく、同時に焼けるような熱を持った掌。

 彼女は伏黒の額に、静かに唇を寄せた。

 

唇が離れる。

 里香の手が虚空から見えない何かを摘み取り、伏黒の掌に押し付けた。

 

「これはローズマリー」

 

存在しないはずの重みが、伏黒の掌にのしかかる。

 そこに花などないと分かっていても、彼の神経は「棘」が刺さる幻痛を訴えていた。

 

「私を忘れないで。……誠実な恵くん」

 

今夜だけは止めておくはずだった涙が、一筋、伏黒の頬を伝い、石床へ落ちた。

 里香はもう、伏黒を見てはいなかった。

 

 

 

廊下の角を曲がろうとした彼女の前に、九十九由基が立っていた。

 あらゆる「呪い」からの脱却を説く特級術師の威厳は、空虚な少女を前に形を失う。

 

呪いのない世界を夢想しながら、目の前の最も純粋な呪いである「狂気」をただ傍観している己の臆病さが、鉛のような自責となって胸を突く。

 自分はこの少女に、一体何を語る資格があるというのか。

 

里香の手が、より苦い何かを摘み取るように、慎重に動いた。

 

「これはヘンルーダ。……後悔の花」

 

九十九の掌の上に、見えない花が置かれる。

 心の奥底に隠し続けてきた過去の重みに、彼女の指先が微かに震えた。

 

「半分こしましょう?」

 

理想を語るための口は、鉄の味を噛み締めたまま、一言も返せなかった。

 

 

 

少女の目に、無数の死を継ぎ接ぎした供花が映った。

 その美しい花へ向けて、里香の手が、今度は豊かな何かを掌に載せる形を作った。

 

「これはフェンネル。強さと繁栄の花」

 

里香は、最高に美しく笑ってみせた。

 

微笑を保ったままそれを受け取った羂索の鼻腔を、目に見えぬ腐敗の甘い香りが突く。

 

「差し上げます。……王様」

 

可憐な少女の言葉が、千年生きた男の仮面の下を、鋭利な刃となって抉った。

 

 

 

里香は再び歩き出し、燭台の光が届かぬ暗がりへと向かっていく。

 最後に一度だけ振り返り、空洞の笑みを浮かべた。

 

「みなさん、どうぞお幸せに……」

 

婚礼の旋律が遠ざかり、解けたドレスの裾が角を曲がって、消えた。

 彼女の指先が虚空に手向けた見えない花々の香りが、清らかに、王宮の闇をどこまでも白く塗り潰していった。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。