呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット 作:役を解かれぬ者
緩やかに王宮の裏手を流れる清流は、春の雪解け水を含んで、透明に近い青さを帯びていた。
岸辺の柳が水面に向かってしなだれ、水の流れだけが、静止した世界の中で唯一の鼓動のように動いている。
里香が来たのは、夜明け前だった。
自ら編んだ野花の花冠を載せ、煤けた婚礼のドレスを纏って。解れた裾が岸辺の露を吸い、一歩ごとにその白さを重く沈ませていく。
里香は、凪いだ歌を口ずさんでいた。音程は定まり、旋律は整っている。
それは深い夢の底で微睡んでいるような、何ものにも乱されぬ静かなる調和だった。
足を踏み出せば、水が踝を包み、膝を隠す。
ドレスの裾が水を飲み込み、泥に汚れていた布地は、水を透かして重たい鉛色へと変色していった。繊維の一本一本が、寄せる流れを静かに飲み干していく。
水面が胸まで迫った。里香が深く頭を垂れると、額の花冠が水面に触れ、白と黄の花びらが彼女の意識よりも先に、ひと足早く下流へと旅立っていく。
里香の髪が水面に広がる。花冠は静かに外れ、黒い髪と混ざり合い、透明な水の上で色彩の島を作った。
動いているもの全てが止まって見える、一枚の絵画がそこにあった。
「憂太……」
言葉と共に、泡が溢れた。
「……大好きだよ」
掠れたその声は、世界で最も純粋な呪いとして、川底へ沈んでいった。
愛という名の祈りが、水中に溶けて消える。消えてなお、その想いだけが永遠に水に留まった。
伊地知潔高が宮廷に戻ってきたのは、昼前だった。
謁見の間では羂索が地図を広げ、イングランドでの処刑を免れた乙骨の行方を、警戒を促す口調で伏黒に説いている。
毒を混ぜた地図の上で、復讐の包囲網を検討する――その虚偽の緊迫を切り裂くように、伊地知が入ってきた。
彼の眼鏡の奥の瞳は絶望に濁り、取り返しのつかない終焉を目撃した者特有の、死人のような凪を纏っていた。
「……祈本里香さんが、川で溺れました」
その一言で、謁見の間の空気が凍りついた。
「花に囲まれて微笑む姿はあまりにも……あまりにも美しく。誰も、その世界を崩せなかったと……」
伊地知はそれだけを絞り出すと、崩れ落ちそうな体を支えながら退室した。
重い扉が閉まる音が、巨大な伽藍のような謁見の間に虚しく反響し、消える。
残された沈黙の中で、伏黒の脳裏にかつての光景が蘇る。
春の陽光の下、里香が笑い、五条が目を細める。自分たちがまだ未来を信じていた無垢な日々。
だが、そのまばゆい残像は音もなく自壊し、守るべきだった少女は、その破片の海へと沈んでいった。
伏黒が立ち上がった衝撃に耐えかね、石畳の上を滑った椅子が悲鳴を上げて倒れる。
彼の両手は、血の気が引くほど固く握られていた。
「あいつが戻ってきたら……すぐさま殺してやる」
その声は低く、しかし逆説的な静寂を伴って広間に響いた。
里香に「誠実な恵くん」と呼ばれた記憶が、今、彼を最も苛烈に焼き焦がす。
涙は出なかった。
悲しみが涙に変わる前に、怒りが全ての感情の導火線を焼き切っていた。
羂索が、音もなく伏黒の背後に立った。
「伏黒君。今の君では、彼に勝てない。正面から叫んで死ぬだけでは、里香ちゃんも、楽巌寺先生も浮かばれない……」
伏黒の奥歯が軋んだ。
「だが裁判では……あいつを殺せない」
伏黒は、絞り出すように言った。
自分の指が奴の肉を裂き、その命が指先から零れ落ちる感触こそが、今の彼が求める唯一の答えだった。
「――ならば、決闘裁判だ。私が剣を用意しよう」
羂索の声が、至近で響く。
迷える子を導く父のような、恐ろしいほどの慈愛。
羂索は伏黒の肩にそっと手を置いた。
「誰にも折られず、如何なる防御も貫く、特別な一振りを。……君の正義が、確実に彼の心臓に届くように」
伏黒の視界の端で、羂索の微笑みが優しく揺れた。
その約束は毒のように伏黒の血管に染み渡り、彼の中に残っていた最後の誠実さを、静かに、確実に腐蝕させていった。
燭台の炎が、一本、また一本と、風もないのに消えていく。
彼はただ、朝の光が二度と届かぬ場所へと沈みゆく、影の一部になっていた。