呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット   作:役を解かれぬ者

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第23話 荒野の邂逅

 

 

 

デンマークの国境に近い荒野の砂礫が、遠方より迫る質量に震え、細かな波紋を描いている。

 地鳴りは靴底から脛、膝を経て、乙骨の肋骨を一定のリズムで揺さぶった。

 

舞い上がった砂を、乾いた風が喉の奥まで運び、舌の上で砂礫がざらつく。

 嚥下すれば、水の介在せぬ乾きだけが食道に張り付いた。

 

地平の彼方に、軍勢が見えた。

 数えきれぬ人の波が砂煙の中に溶け、ノルウェーの紋章を刻んだ旗印が幾重にも翻る。

 軍靴が大地を穿つ音は、もはや個別の響きを失い、巨大な大地の心拍となって荒野を支配していた。

 

 

やがて地鳴りが、個別の軍靴が砂を噛む音へと(ほぐ)れていく。

 数千の質量が乙骨の目前で巨大な壁のように静止した、その時だった。

 先頭に立つ一人が、陽炎を切り裂くように真っ直ぐ歩み寄ってくる。

 

その少年――虎杖悠仁は眩かった。天から降り注ぐ、無慈悲なまでの無垢。

 数千の生死を背負いながら、ただ笑ってそこに在る。

 乙骨は、その剥き出しの輝きに対して、己の暗い魂を守る(すべ)を、何ひとつ持っていなかった。

 

虎杖は、両者が一歩踏み込めば刃が届く、沈黙の刺さる距離で足を止めた。

 そして、乙骨の瞳を正面から射抜いた瞬間に、軽く手を挙げた。

 

「よ」

 

その一音の軽さに、乙骨の纏う喪服の黒が、急激に色褪せて見えた。

 虎杖は少しだけ首を傾げ、地平の先を指差して屈託なく告げる。

 

「俺さ、今からポーランドのただ同然の土地を、名誉のためだけに攻略しに行くんだ。……あんたは?」

 

問いは、あまりに透明だった。

 数千の命を、一文の得にもならない泥炭地のために投げ打つという狂気。

 それがこの少年の中では、朝の挨拶と同じ熱量で語られている。

 

復讐の設計、師の死という重石。

 それらを象徴する黒の衣を纏った乙骨は、この無垢な狂気を前に、一言も返せなかった。

 

虎杖が、さらに歩み寄る。

 

「なんか、大変そうだな」

 

それは心配ではなく、ただの観察だった。

 

「……何のために、戦うんですか」

 

乙骨の問いは、砂を噛むように重く、湿っていた。

 だが虎杖は、それを聞き終えるなり再び笑った。

 乙骨が全霊を懸けて積み上げてきた「存在理由」という問いを、吹き抜ける風のように軽々と追い越していく。

 

「理由なんてねーよ。俺は、俺の場所で、やるべきことをやるだけだ」

 

大義も、復讐も、自己証明すらない。

 ただの部品として機能することに、一切の羞恥を持たぬ者の声だった。

 

 

ゆっくりと追いついてきた秤金次が、砂塵を割って前に出た。

 乙骨の全身を、家畜の値を踏むような冷徹な眼差しで一瞥する。

 

「あんた、(ツラ)が重いぜ」

 

 秤は、鼻で笑って言い放った。

 

「……背負わなければ、進めないんです」

 

乙骨の返答は、乾いた砂に染み込む血のように重かった。

 理屈、義務、罪悪感。それらを足場にしなければ、自分は立つことすらできない。

 

「この荒野では、カードが配られた瞬間に『当たり』だと叫べる奴だけが生き残る。御託(ごたく)を並べてる間に、(ツキ)が逃げちまうぞ」

 

純粋な熱量の発露。それに触れた瞬間、乙骨の内側で、高く積み上げられてきた論理の壁が乾いた音を立てて削れ落ちた。

 

虎杖が軍勢へと戻り、秤が肩越しに手を振りながら去っていく。

 後に残されたのは、遠ざかる地鳴りと、乙骨憂太という空虚な影だけだった。

 乙骨は、自らの手を見つめた。

 

何故、自分は彼らのようになれないのか。

 復讐という免罪符を積み上げ、滑稽な自意識に縋らねば一歩も進めぬ、光になれない残骸。

 

――だが、それでいい。

 

迷いが、根底から消えた。

 乙骨の呪力から、僅かに残っていた「人間」の熱が剥がれ落ちる。

 

二人の後ろを歩いていた星綺羅羅が、足を止め、振り返った。

 荒野に独り立つ、あの黒い影。

 光に触れることで、彼は自らの輪郭を冷静に把握し、それを選び取った。

 死地へ向かう者の覚悟ではなく、乙骨憂太そのものが「死地」となるような――。

 

「綺羅羅、どうした?」

 

前を行く秤の声に、綺羅羅は視線を戻した。

 

「……なんでもないよ。金ちゃん」

 

だが、網膜には焼き付いて離れない。

 歩く死地となった少年が、デンマークへ戻った先に振りまくであろう、星も見えぬほど深い、夜の訪れの予感が。

 

軍靴の地鳴りが、いつまでも背後を追いかけていた。

 

 

 

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