呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット 作:役を解かれぬ者
細く、止む気配のない雨が、王宮に隣接する聖域の土を均一に濡らしていた。
石造りの墓標が整然と並ぶ中で、七海建人だけが「労働」に従事している。
シャベルが重い土を噛む音が、メトロノームのように規則正しく繰り返される。
一
乙骨が来たのは、七海がシャベルを十七回動かした後だった。
泥の上に、喪服の黒が静止する。七海は手を止めなかった。
不意に、シャベルが土の底で硬い何かに当たり、鈍い音を立てた。
七海は迷いなく土を払い、そこから一つの
幾年の時を経て、新たな死者のために場所を空けるべく、地肉の
七海は雨に打たれる髑髏を、顔の高さまで無造作に掲げた。
そして、立ち尽くす乙骨へ、その空洞の眼窩を向ける。
「これは、かつての道化。私の親友、灰原の骨です」
乙骨の視線が、髑髏の白に吸い寄せられる。
「十年前、若くしてここへ来た。……乙骨君、死に感傷は不要です。いかなる愛も呪いも、最後にはこの程度の質量に収まる」
七海はそれを、脇に置いた。
儀礼ではなく、整理すべき「未処理のタスク」として。
乙骨は、七海の背後――視線の先にある光景を指した。
この雨の中、聖域の最果てで、数人の人影が小さな列を作っている。
それは王宮の格式とは程遠い、あまりに質素で、あまりにひっそりとした拒絶の儀式に見えた。
「……あれは、誰の葬儀ですか?」
乙骨が、声を絞り出した。
七海は再びシャベルを握り、古い土を穴の外へ放ってから、振り返らずに答えた。
「祈本里香さんです」
乙骨の呼吸が、止まった。
見開かれた瞳が、何も映さぬまま虚空に固定される。
雨粒が睫毛を濡らし、眼球を叩いても、瞬きひとつしない。
その名は、今この瞬間に彼が最も恐れていた「世界の終わり」を告げる響きだった。
肺から空気が抜け、内臓がせり上がるような衝撃が、彼の輪郭を泥の中に縫い付けた。
七海のシャベルが、再び別の場所を裂く。
「……飾られる前に散った、五月の薔薇です」
七海の声に感傷はない。
だが、その言葉は埋葬場所が聖域の最も外側――神の慈悲が届かぬ境界であることを示していた。
自ら命を絶った代償として、彼女は東向きに眠ることさえ許されない。
王の強引な命で辛うじて聖土を分け与えられたものの、その墓穴は、境界の泥にまみれていた。
乙骨は、泥を引きずるように走り出した。
七海の制止も、雨の重さも、もう届かなかった。
里香の墓は、区画の最果てにあった。
質素な葬儀を終え、数少ない参列者たちが去った後。
伏黒恵は、埋葬を待ってもらった墓穴の傍らで、ただ一人膝をついていた。
穴の底に置かれた木の棺の中で、里香は白い
その体の上に、参列者たちが手向けた色とりどりの野花が溢れるほど撒かれていた。
雨に打たれ、瑞々しさを失いかけた花弁の色彩が、泥と闇に沈む墓所の中で、そこだけがひどく鮮やかに浮き上がっている。
伏黒は泥にまみれた右手を伸ばし、花の隙間から覗く死装束の白に触れた。
「もう、水はたくさんだろう。……だから涙はいらない」
指先が触れたのは、雨を含んで重たくなった、冷たい布きれ。
かつて伏黒を「誠実」と呼んだ唇は、今は無数の花びらに縁取られ、二度と開かぬ沈黙の中にあった。
その白さをなぞる指先から、伏黒の自制が、湿った土に吸い込まれるように崩れ去っていく。
その時、背後の泥を叩きつけるような、重たい音が響いた。
墓穴の手前、粘りつく土を力任せに踏みしめる足音。
伏黒は、その一歩だけで背後に立つ男が誰であるかを悟った。
里香からゆっくりと手を離し、幽鬼のように立ち上がる。
歩み寄ろうとした乙骨が言葉を発するよりも早く、振り返った伏黒の手がその胸倉を掴み、力任せに引き寄せた。
「どの面下げて、ここへ来た。俺たちを壊した男が!」
雨音を切り裂く拒絶。握りしめた布地の下で、何かが伏黒の指を圧迫した。
乙骨が肌身離さず持っている「指輪」が、掌の感触を通じて自分を拒絶している。
乙骨の顔色が、一瞬で変わった。
死地を歩んできた虚無の瞳に、初めて烈しい光が宿る。
乙骨は伏黒の手首を、骨が軋む力で掴み返した。
「離せ」
鼓膜を直接震わせるような、無機質な響き。
その声を聞いても、伏黒は離さなかった。
むしろ、胸元の重みをむしり取ろうとするかのように、さらに拳に力を込める。
「……言い訳でも、謝罪でも、何か言ってみろ」
伏黒は呪詛を吐き出すように呻き、掴みかかったまま、その顔面に拳を叩き込んだ。
泥を跳ね飛ばし、拳が頬の肉へ深く沈む。
鈍い衝撃に乙骨の頭が揺れたが、彼は痛みさえ意に介さぬ様子で、なおも胸元の指輪を守るように伏黒の腕を締め上げている。
伏黒に胸倉を掴み上げられた姿勢のまま、乙骨の唇が歪に動いた。
「僕は――里香ちゃんを愛していた!」
その絶叫は、掘り返された土壁に反響し、どろりと増幅される。
「誰よりも。……君よりもだ」
一瞬、空気が凍りついた。
伏黒の拳から力が抜け、乙骨の胸元を掴んでいた指が、泥に濡れた喪服の上を虚しく滑り落ちた。
「……黙れ」
伏黒は再び吠えた。その声を、自らの拳で粉砕するために。
泥を蹴り、激昂のまま乙骨へと再び殴りかかった、その瞬間――。
「『動くな』」
その一音が、雨音を、大気の震えを、一瞬で塗り潰した。
異変を察知し、引き返してきた狗巻棘の声。
伏黒の拳が、乙骨の鼻先で不自然に凍りつく。
重力そのものが凝固したように、二人はその場に釘付けられた。
救いのない境界線の底で、二人の重い呼吸だけが、交互に空気をかき乱している。
少し遅れて駆け戻った真希とパンダが、狗巻の隣で足を止めた。
真希の瞳には、棺の中に横たわる花まみれの死体と、その傍らで傷つけ合う二人の姿が映っている。
彼女は忌々しげに顔を背けると、一度だけ強く奥歯を鳴らした。
やがて目に見えぬ縛鎖が解け、泥を引きずるような足音が七海の傍らを通り過ぎた。
乙骨は泥に汚れた胸元を、壊れ物を確かめるように掌で押さえた。
布の下で、冷たい指輪が彼の肌に里香の記憶を刻みつけている。
七海は背を向けたまま、雨音に紛れぬ確かな声を放った。
「死んではいけませんよ、乙骨君。……君は、人として生きなさい」
それが、この世で最も過酷な、呪いとしての遺言だった。
乙骨の足音が遠ざかる。七海は土を掘り、埋める。
雨が降り続いていた。
灰原の髑髏は、脇に置かれたまま、空洞の眼でその無慈悲な空を受け止めている。
それが、今日の仕事だった。