呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット 作:役を解かれぬ者
夕日が、王宮を赤く染めていた。
城壁に染み込んだ過去の血が浮き出るような、どす黒い赤。
窓から差し込む光が石壁を橙に焼き、日没までの短い猶予を告げている。
死の直前の輝きが、王宮のすべてを塗り潰していた。
冥冥はその赤を、「王の私室」という名の特等席から眺めていた。
かつて五条悟が気まぐれに海を眺め、皿に盛られた砂糖菓子をつまんでいた席。
「終わりの色は、いつも美しい」
独り言ちる声に、湿り気はない。
彼女にとって、この国はもはや「逃げ場のない悲劇」という名の不良債権に過ぎなかった。
五条が愛用していた長机の上には、数枚の羊皮紙が投げ出されている。
そこに記された情報の重みを検分するように、羂索が深く腰を下ろした。
「正確だ」
羂索が小さく頷く。
その視線は、紙上の文字ではなく、すでに崩壊を始めたこの国の設計図を見つめているようだった。
「カラスの目は、死の匂いには敏感ですから。値段も、それ相応に」
差し出された重い金貨の袋を受け取り、冥冥は立ち上がった。
絹のドレスが夕日の赤を弾いて翻る。
「おやすみ、デンマーク」
廊下では憂憂が、財宝の詰まった箱を恭しく抱えて待っていた。
彼が動くたび、箱の中で金属性の乾いた音が鳴る。
それは、この城へ捧げられる、軽やかな弔鐘だった。
日下部篤也は、冷えた石柱に背をもたせかけていた。
ただの暇潰しを装いながら、廊下の向こうから近づいてくる黒い足音を、重い心持ちで数えていた。
通り過ぎてくれれば、それでいい。
そう願いながらも、その影が日下部の視界を掠めようとした瞬間、喉の奥から乾いた声が漏れた。
「……帰ってきたか」
足音が止まる。
その少年からは、墓場の土の匂いがした。
濡れた粘土と、腐葉土の湿り気。
乙骨の喪服から漂うその匂いの下に、空気が焦げ付くような呪力の残臭が潜んでいた。
日下部は深く溜息を吐き、腕を組んだ。
喪服の裾に残った泥の痕を、痛みを堪えるような目で見つめる。
――イングランドで、そのまま消えりゃ良かったんだ。
そうすれば、あるいは別の空の下で、いつか人間らしい呼吸を取り戻せたかもしれない。
その可能性を自ら捨てて戻ってきた「教え子」に対し、日下部は身を焼くような哀れみを感じていた。
「あんまり熱くなるな。この王宮じゃ、熱くなった奴から順に灰になる」
乙骨は答えなかった。
その瞳には、日下部の哀れみさえも拒絶する、完成された闇が宿っている。
「……俺みたいに適当な理由をつけて、どっかへ逃げるのも手だぞ。割に合わねえだろ、こんな命の使い方は」
その言葉は、乙骨の喪服の表面を虚しく滑り落ちた。
乙骨は再び歩き始める。
その背中が廊下の闇に溶けゆくのを、日下部は目を細めて見送った。
本当に、割に合わない。
柱に背を預け直す。
廊下には、ただ空気が焦げたような不快な臭いと、日下部が飲み込んだ「届かぬ悔恨」だけが、いつまでも停滞していた。
伊地知潔高の部屋は、王宮の最果てにあった。
夕日の届かぬ小さな部屋で、燭台の一灯だけが、伊地知の顔を白く照らしている。
彼は羊皮紙に向かい、今日という日を記録していた。
感情を殺し、事実のみを刻もうとする筆先が、微かに震える。
力を込めれば込めるほど、インクは羊皮紙を醜く侵食し、記録された「事実」を読めない汚点へと変えていった。
五条さん――。
その名は、声にならない悲鳴となって部屋の暗がりに積み重なった。
あの人が歩いた石畳も、笑った広間も、ここには残っている。
だが、その中心には底知れぬ巨大な「穴」が空いていた。
伊地知は筆を持ったまま、彫像のように動かなくなった。
短くなった蝋燭の炎が、最後の力を振り絞るように爆ぜては縮む。
彼は新しい蝋を継ごうとはしなかった。
この光が消える時、自分の役目もまた終わるのだと、静かな予感の中に身を浸していた。
羊皮紙の上の染みが、ゆっくりと、王宮の夜に乾いてゆく。