呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット 作:役を解かれぬ者
昼下がりに、禪院直哉は現れた。
禪院家の次期当主という、この国で最も「血」を重んじる家の象徴として、彼は最上級の絹を纏っていた。
歩くたびに、上質な絹同士が冷たく擦れ合う忍びやかな音が、廊下の静寂を薄く削り取っていく。
直哉は、廊下の真ん中に立つ真希のすぐ横を通り過ぎた。
そして数歩進んだところで、わざとらしく、心底驚いたという風に足を止めて振り返る。
「……あれ? おったん?」
直哉は真希の腰元――そこに吊られた無骨な鉄の質量を、汚物でも見つけたかのように一瞥した。
「呪力も無ければ気配も無いから、ただの置物かと思たわ」
真希は直哉の演技を無視し、その奥にある「家柄」という名の呪いだけを射抜く。
「耳障りだ、要件を言え」
直哉の目が細くなり、笑みが、別の種類の関心へ変わる。
彼は懐から羊皮紙を取り出し、ゆっくりと広げた。
「王の御名において、乙骨憂太殿と伏黒恵殿の御前試合を、本日夜に執り行う運びとなりました」
声の質が、変わっていた。
私的な嘲笑から、公式の使者としての切り替え。
その滑らかさが、宮廷に深く回る毒の正体だった。
「楽巌寺宰相殺害の疑いに対する、聖なる儀にて真実を問う。両名は日没後、王宮広間に参集のこと。なお、試合の条件は――」
直哉が、一拍置いた。
「先に、三本を制した者を、正義とする」
読み終えた羊皮紙が巻き直されると、廊下に重い沈黙が降りた。
奥の廊下では、乙骨は逃げも隠れもせずに聞いていた。
喪服の黒が、廊下の暗がりと溶け合っている。
直哉が、乙骨を見た。
指先で優雅に羊皮紙を弄び、いかにも親切な上位者が確認を求めているような、完璧な笑みを浮かべている。
「乙骨憂太殿も、お聞きになりましたね?」
その声音はどこまでも清涼で、耳障りの良いものだった。
だが、そこに込められたのは明らかな優越感の誇示だ。
乙骨は直哉を見て、その隙のない装束と、「聖なる儀」という装飾を施された殺し合いの舞台を、一語ずつ咀嚼するように確認した。
「その決闘裁判、受けるよ」
声には温度がなかった。
怒りも、恐怖も、諦めもない。
ただ、既に決まっていた事実を確認するだけの、答えが先にある者の声だった。
「……準備は、できているから」
直哉の笑みが、一瞬だけ止まった。
乙骨の放つ気配に気圧されたのを、すぐに微笑み、取り繕う。
「ご賢明で」
それだけ言って、直哉は踵を返す。
絹の装束が廊下に翻り、足音が遠ざかっていった。
廊下に、乙骨と真希だけが残された。
真希は乙骨を見て、「準備はできている」という言葉の意味を測ろうとした。
それが試合への準備でないことは明白だ。
「憂太」
真希は声をかけたが、それ以上は続けられなかった。
遠ざかる乙骨の背中を見つめ、真希はひどく掠れた声で、独り言ちた。
「『見ている』というのは……楽なように思えて、胸が締め付けられる」
王の勅許の下で行われる決闘は、神の審判を仰ぐ法廷そのものだ。
観客は石像のごとき静粛を義務付けられ、助言や介入という「不浄」は神への反逆とみなされる。
もし自分が、あるいは誰かが乙骨のために場を乱せば、その瞬間に乙骨の敗北と有罪が確定し、自分たちもろとも処刑台へ送られるだろう。
羂索は、その「正義」という名の檻で、彼らをじっと観察している。
豪華な装飾の廊下で、燭台の炎が風もないのに揺れていた。
夜まで、まだ時間がある。
その時間の冷たさだけが、廊下をじわりと満たしていた。