呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット 作:役を解かれぬ者
試合が再開された。
乙骨は、視界の隅で壁際に立つ九十九を追っていた。
自分に代わって「死」を飲み込んだ事実が、彼の平穏を激しく乱している。
一方で伏黒には、九十九の姿すら届いていなかった。
脇腹の傷口から広がる異常な熱が視界を狭め、標的である乙骨の輪郭だけを鮮明に浮き上がらせている。
数合の交錯。乙骨の剣が、伏黒の追撃を危ういところで弾く。
その時、広間の石畳に鈍い音が響いた。
九十九由基の膝が折れ、重力に従ってその身体が崩れ落ちる。
「九十九さん!」
乙骨の声が、静止した空気を叩き割った。
視線が伏黒から剥がれ、崩れ落ちる九十九へと吸い寄せられた、一瞬の意識の途切れ。
伏黒の肉体は、その標的の弛緩を逃さない。
思考を介さず、泥濘の底から跳ね上がった一閃が、無防備な乙骨の胸を深く、深く捉えた。
「
直哉が鋭い制止とともに二人へ一歩近づくと、白い手袋を嵌めた手を高く掲げる。
「勝負あり! 神の審判は下った。勝者は伏黒恵! 敗れし者に神の救いなし。正義はなされた!」
直哉の冷徹な口上が、乙骨を「敗北した罪人」として世界に固定する。
乙骨は、自分を貫いた剣の重みに耐えながら、正面に立つ伏黒の瞳を真っ向から見返した。
死の淵にあっても、その眼差しには一切の怨嗟はなく、ただ伏黒という個人を静かに捉えている。
「伏黒君……この剣……」
乙骨の口端から、鮮血が溢れた。
心臓へと這い上がる、焼けるような熱。
乙骨は、自分を刺した刃の「毒」を、そして足元に転がった自らの剣の切っ先が放つ、青白い不自然な光沢を瞬時に悟った。
その時、裂けた喪服の隙間から、何かがこぼれ落ちた。
一点の、純粋な銀の輝き。
鎖に繋がれたまま滑り出た里香の指輪が、血に濡れた空間を白く射抜いた。
伏黒の視界から、粘ついた暗雲が晴れていく。
その光は、里香が笑っていた温かな午後の陽光を、ローズマリーの清涼な香りを、一瞬のうちに連れてきた。
毒に焼かれ、復讐に腐りかけていた視界が、その銀色の残像によって白く洗い流される。
伏黒の視線が、床に落ちた乙骨の剣へ向けられた。
その無機質な鋼の先で、己の剣と同じ、どす黒く変色した「死の徴候」が揺れている。
「……卑劣な企みが、我が身に返ってきた」
自身の掌に伝わる、友を突き刺した重たい感触が、伏黒を地獄へと引き戻す。
力の抜けた手が、剣から離れた。
乙骨は、胸に剣が突き刺さったまま、よろりと足を動かした。
一歩踏み出すごとに、胸の剣が内臓をさらに深く抉る。それでも乙骨は止まらなかった。
死の感触を強引に振り払い、ただ数歩先に横たわる九十九を見据えて歩みを進めた。
乙骨が九十九のもとへと足を引き摺る道、王の威光に跪く周囲の者たちは「神に裁かれた不義の者」を忌避するように、一斉に身を引いて道を開けた。
その空白の中に、乙骨の喘鳴だけが響く。
膝が折れ、乙骨は九十九の身体に重なるようにして崩れ落ちた。
紫に変色した彼女の肩を、震える腕で抱きかかえる。
自分を貫いた剣の柄が、亡骸を護るための杭のように、虚空に向かって鋭く突き立っていた。
羂索は観覧席に座ったまま、その崩壊の演目を見つめていた。
形式上の「神の正義」と、目の前に転がる「愛と悲劇」。
その残酷な乖離に、彼の微笑みはかつてないほど深く、醜く歪んでいた。
静かに地に落ちた乙骨の剣だけが、鋭い銀色の輝きを放ち、そこに仕込まれたもう一つの「死」を告発していた。