呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット   作:役を解かれぬ者

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第3話 亡霊

 

 

 

風も、虫も、遠い街の気配も、霧に呑まれて久しい。

静寂というよりは、音そのものが根絶やしにされたような、不気味な空白があった。

 

 

見回りの当番であるパンダは、隣に立つ狗巻の呼吸すら、遠いものとして聞き取っていた。

 術師として感覚を研ぎ澄ませても、霧がそれをことごとく鈍らせる。

 王宮の底から立ち上るはずの呪力の脈が、指先から滑り落ちて掴めなかった。

 

 

石畳を叩く、硬い靴音が響いた。

 

一歩、また一歩。揺らがず、急がず。

 あの歩みだ。名前を呼ぶより先に、その響きを魂が知っていた。

 

巡回の折、王はいつもこの調子で歩いた。

 踵から落とし、爪先で押し出す。独特の響き。

 他の誰とも違う、唯一の音。

 

だが、反響が立ち上がらない。

 石壁に触れる前に、霧が音を呑み込んでいくようだ。

 余韻を奪われた、剥き出しの気配。

 それは世界への返答を自ら捨てた、五条悟の音だった。

 

足元から順に、石畳が白く侵食されていく。

 一歩ごとに、石の目地を割って霜が噴き出した。

 弾ける結晶が細い音を立て、蜘蛛の巣のように地を這う。

 

咄嗟に呪力を練り、パンダが松明をかざした。

 だが、揺らぐ炎から(だいだい)が音もなく抜け落ちる。

 熱を奪われ、白く、青く、色彩は死をなぞるように剥がれ落ちていった。

 

 

角を曲がり、ひどく乱れた足取りで伊地知が姿を現した。

 見回りから戻ったその顔は白く、まるで触れてはならない神域を覗き見てしまった者のように、瞳だけが異様に浮き上がっている。

 

伊地知の背後で、白く、濃密な霧を裂いて、音もなく影が形を成した。

 長身。白髪。透けるほどに薄い輪郭は、石灰を溶かした肌を闇の底で淡く浮き上がらせている。あるべき目隠しは、どこにもない。

 

底のない氷層に閉じ込められた、どこまでも残酷な(あお)だった。

 

石畳に、伊地知の膝が落ちた。凍りついた石の冷たさが、布越しに刺さる。

 広く静かな喪失が、そこに凝り固まっていた。

 その残酷な蒼が、現世という劇に迷い込んだ異物のように、ただ淡く光っている。

 

――僕のことなんて忘れて。

 

幻聴のような意志が、霧に溶けて耳を打つ。

 あまりに静かな、拒絶。

 それは祈りに似ていた。

 

伊地知の記憶が、霧の中で明滅した。

 書類を散らした乙骨に「鈍くさい」と笑いながら、誰よりも先にしゃがみ込んだ王の姿。

 礼を言われる前に立ち去る、あの背中。

 与えるとき、彼はいつも横を向いていた。

 

凍てついた石畳に素手をついた伊地知の指先から、鉄の匂いが滲む。

 鋭利な結晶が皮膚を裂くその痛みだけが、今、唯一の現実だった。

 

亡霊が、動いた。

 白い輪郭が薄れ始める。

 消える直前、亡霊の視線が、伊地知からわずかに逸れた。

 

一瞬だけ、横を向いた。

 

乙骨憂太がいるであろう、北の方角へ。

 頼んだぞ、と言えない代わりに投げられた、かつての照れ隠しのような視線。

 その不器用な所作が、伊地知にすべてを確信させた。

 

亡霊の消え去ったあとには、どこにも繋がらずに終わっている足跡の霜だけが残されていた。

 

霧が薄れ、松明の炎が橙を取り戻していく。

 だが、戻ってきたその熱は、骨を凍らせるような先ほどまでの静謐(せいひつ)には、とうに届かなかった。

 

――時が、節からはずれてしまった。

 

伊地知は、滲んだ鉄の匂いを握りしめた。

 外れた節を繋ぎ止める術は持たない。

 それでも、この冷たさを伝えることはできる。

 

隣に立つ狗巻が、静かに視線を上げた。

 言葉を排したその瞳が、射抜くような鋭さで伊地知の覚悟を捉えている。

 ただ見据えることで、彼は生者としての肯定をそこに刻んでいた。

 

「……真希さんに、伝えましょう」

 

伊地知は、自分に言い聞かせるように震える声で言った。

 呪力という幻想に惑わされず、この亡霊の正体を正しく受け止められる者へ。

 

凡人が凡人のまま、外れた世界で踏み出すための、最初の言葉だった。

 

 

 

 

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