呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット 作:役を解かれぬ者
風も、虫も、遠い街の気配も、霧に呑まれて久しい。
静寂というよりは、音そのものが根絶やしにされたような、不気味な空白があった。
見回りの当番であるパンダは、隣に立つ狗巻の呼吸すら、遠いものとして聞き取っていた。
術師として感覚を研ぎ澄ませても、霧がそれをことごとく鈍らせる。
王宮の底から立ち上るはずの呪力の脈が、指先から滑り落ちて掴めなかった。
石畳を叩く、硬い靴音が響いた。
一歩、また一歩。揺らがず、急がず。
あの歩みだ。名前を呼ぶより先に、その響きを魂が知っていた。
巡回の折、王はいつもこの調子で歩いた。
踵から落とし、爪先で押し出す。独特の響き。
他の誰とも違う、唯一の音。
だが、反響が立ち上がらない。
石壁に触れる前に、霧が音を呑み込んでいくようだ。
余韻を奪われた、剥き出しの気配。
それは世界への返答を自ら捨てた、五条悟の音だった。
足元から順に、石畳が白く侵食されていく。
一歩ごとに、石の目地を割って霜が噴き出した。
弾ける結晶が細い音を立て、蜘蛛の巣のように地を這う。
咄嗟に呪力を練り、パンダが松明をかざした。
だが、揺らぐ炎から
熱を奪われ、白く、青く、色彩は死をなぞるように剥がれ落ちていった。
角を曲がり、ひどく乱れた足取りで伊地知が姿を現した。
見回りから戻ったその顔は白く、まるで触れてはならない神域を覗き見てしまった者のように、瞳だけが異様に浮き上がっている。
伊地知の背後で、白く、濃密な霧を裂いて、音もなく影が形を成した。
長身。白髪。透けるほどに薄い輪郭は、石灰を溶かした肌を闇の底で淡く浮き上がらせている。あるべき目隠しは、どこにもない。
底のない氷層に閉じ込められた、どこまでも残酷な
石畳に、伊地知の膝が落ちた。凍りついた石の冷たさが、布越しに刺さる。
広く静かな喪失が、そこに凝り固まっていた。
その残酷な蒼が、現世という劇に迷い込んだ異物のように、ただ淡く光っている。
――僕のことなんて忘れて。
幻聴のような意志が、霧に溶けて耳を打つ。
あまりに静かな、拒絶。
それは祈りに似ていた。
伊地知の記憶が、霧の中で明滅した。
書類を散らした乙骨に「鈍くさい」と笑いながら、誰よりも先にしゃがみ込んだ王の姿。
礼を言われる前に立ち去る、あの背中。
与えるとき、彼はいつも横を向いていた。
凍てついた石畳に素手をついた伊地知の指先から、鉄の匂いが滲む。
鋭利な結晶が皮膚を裂くその痛みだけが、今、唯一の現実だった。
亡霊が、動いた。
白い輪郭が薄れ始める。
消える直前、亡霊の視線が、伊地知からわずかに逸れた。
一瞬だけ、横を向いた。
乙骨憂太がいるであろう、北の方角へ。
頼んだぞ、と言えない代わりに投げられた、かつての照れ隠しのような視線。
その不器用な所作が、伊地知にすべてを確信させた。
亡霊の消え去ったあとには、どこにも繋がらずに終わっている足跡の霜だけが残されていた。
霧が薄れ、松明の炎が橙を取り戻していく。
だが、戻ってきたその熱は、骨を凍らせるような先ほどまでの
――時が、節からはずれてしまった。
伊地知は、滲んだ鉄の匂いを握りしめた。
外れた節を繋ぎ止める術は持たない。
それでも、この冷たさを伝えることはできる。
隣に立つ狗巻が、静かに視線を上げた。
言葉を排したその瞳が、射抜くような鋭さで伊地知の覚悟を捉えている。
ただ見据えることで、彼は生者としての肯定をそこに刻んでいた。
「……真希さんに、伝えましょう」
伊地知は、自分に言い聞かせるように震える声で言った。
呪力という幻想に惑わされず、この亡霊の正体を正しく受け止められる者へ。
凡人が凡人のまま、外れた世界で踏み出すための、最初の言葉だった。