呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット 作:役を解かれぬ者
広間に、人間という中身の詰まった器が崩れ落ちる生々しい音が響く。
伏黒恵の意識は、己の指先が犯した過ちを、数秒遅れて認識していた。
視線の先で、乙骨憂太が崩れ落ちている。
胸に毒剣を突き立てたまま、九十九由基の亡骸を抱えるようにして。
喪服の黒が、溢れ出す鮮血を吸って、じっとりと重く変色していた。
観覧席から、羂索が降りてきた。歩調は緩やかで、優雅ですらある。
彼は動かなくなった二人と、絶望に縫い止められた伏黒を、慈悲深い神のような微笑で見下ろした。
伏黒はその微笑を網膜に焼き付け、口を開く。
「九十九さんは――」
伏黒の掠れた声が、静寂を裂いた。
「毒殺された!」
羂索は驚かなかった。鬱陶しい羽虫でも追い払うように、緩やかに首を巡らせるだけだ。
掌握したこの国の理は、揺るがない。
彼にとって伏黒恵の叫びは、もはや舞台の幕間に流れる雑音に過ぎなかった。
「王が……その男こそが、真の謀反人!」
保守派の術師たちは、忌避と嘲笑の混じった視線で伏黒を射抜く。
しかし、その叫びは、広間に満ちる停滞した空気を動かした。
真希が、一歩を踏み出す。
境界線を踏み越える、微かな足音。それに続いたのは、祈りのような抜刀音だった。
真希が鞘を払う銀色の響き。
それに呼応するように、パンダが、狗巻が、幾人かの術師たちが死地へ踏み込む覚悟とともに、それぞれの得物を構えた。
逃げ場のない夜が、広場を塗り潰していく。
正義の蜂起ではない。共倒れを覚悟した者たちによる、戻れぬ断罪の意思だった。
「逆賊を捕らえろ!」
直哉が顔を歪めて叫び、広間は一瞬にして怒号と剣鳴の渦に沈む。
だが、その混乱を鼻で笑うよりも早く、背後の空気が重く爆ぜた。
膝をつく乙骨から、どろりと溢れ出す圧倒的な殺気。
羂索の全神経が、防衛本能によって一点へ釘付けにされる。
死の淵から這い上がらんとする「怪物」の気配。
その巨大な影に隠れて、伏黒の手が血の海を這う。
指先が触れたのは、冷たい鉄の感触。
乙骨が「温情」として投げ与えられ、舞台に遺したあの安物の鋼だ。
伏黒はそれを掴み、立ち上がった。
毒が思考を泥に変え、折れた骨が肉を突き破るような激痛を訴える。
それでも、泥の中に縫い付けられたはずの魂が、死に体を引き摺り上げる。
伏黒は地を蹴った。
もつれる足で、自らの生を切り刻んで撒き散らすような、無惨な足跡を石畳に刻みながら。
羂索の眼には、眼前の乙骨が放つ気迫の渦しか映っていない。
雑音を切り捨て、真の脅威を見据えた一瞬。
背後に、意志を宿した刃が迫っていることに気づいた時には、もう遅かった。
伏黒が振るった、不格好な一撃。
安物の鋼が、執念を乗せて羂索の肩を深く断ち割った。
羂索の顔から、微笑が剥がれ落ちた。
千年の策謀を費やした支配が、背景と断じた少年の僅か一寸の鉄に裂かれる。
計算外の意志に突き立てられた、純粋な困惑がそこにあった。
伏黒の膝が、再び折れる。
毒が神経を焼き切り、指先から剣の感触が消えていく。
入れ替わるように、乙骨が動いた。
九十九を丁寧に床へ横たえる所作には、死を目前にした者とは思えぬ静謐さが宿っていた。
立ち上がった乙骨は、己の胸から突き出た毒刃を、強く掴んだ。
一拍の沈黙。一気に刃を抜く。
肉と手が裂ける音が重なり、鮮血が噴き出した。
乙骨は呻きさえ漏らさず、命が漏れ出す激痛を、すべて一歩を刻むための熱量に変えた。
羂索は、玉座の影に退いていた。
伏黒に裂かれた肩。そして窒息せんばかりの乙骨の殺気。
次の一手を巡らせようとしても、眼前の少年が放つ「死」そのものの気配に、思考が塗り潰されていく。
歩みを進める乙骨に、石畳を踏む感覚は、もうない。
脳髄に焼き付いた殺意だけが、機能不全に陥った四肢を強引に動かしていた。
玉座に背が当たった羂索に逃げ場はなく、微笑を作ろうとする唇が、醜く歪んだ。
乙骨は、床に転がっていた毒杯を拾い上げた。
九十九が飲み干した、呪いの器。
その重みを指先に感じながら、引き抜いたばかりの毒剣を、迷いなく羂索の腹へと深く突き立てた。
「これが……」
言葉が、石壁に重く反響した。
「先生の……踏みにじられた皆の分の、毒だ」
澱の溜まった杯が、羂索の口へ押し当てられる。
「飲み干せ」
夏油傑の肉体が、拒絶に激しく痙攣する。
喉へと流れ込む、死の滴。指が肘掛けを虚しく掻いたが、乙骨は退かない。
崩れ落ちていく男の瞳を、至近距離で見据え続けた。
やがて力が抜け、杯が手から滑り落ちた。
「……見事だ、乙骨憂太」
その声は、かつて五条悟が親友と呼んだ男のものだった。
「人間の……情念というものを思い知ったよ」