呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット   作:役を解かれぬ者

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第31話 沈黙

 

 

 

千年を繋いだ歪な意志が潰え、羂索は玉座に座ったまま、ただの抜け殻となって石畳を見下ろした。

 腹部を貫く毒剣が、彼を冷徹な秩序の如く玉座に縫い止めている。

 

指先から力が抜け、毒の瓶が滑り落ちてキン、と高い音が広間に鳴り響いた。

 反響は何度も壁を打ち、やがて重い静寂に溶けていく。

 

その瞬間に、広間を支配していた偽りの光が、消えた。

 

静寂の淵で、乙骨は最後の力を絞り出すようにして伏黒に這い寄り、崩れゆく彼の身体を抱き止めた。

 二人の血が境界を失って混じり合う。

 伏黒は乙骨の肩に顔を埋めたまま、青白い唇を微かに震わせた。

 

「俺は……自業自得です。分かっていて、あなたを刺した」

 

「伏黒君」

 

「でも――」

 

伏黒の呼吸が、砂時計の最後の一粒のように細くなる。

 

「俺たちの死が、あなたの罪に、なりませんように……」

 

それは、呪い合うために研ぎ澄まされた人生を、愛するために使い切った最期の旋律だった。

 乙骨は泣く代わりに、腕の力を強める。

 

「……僕の死が、君の罪に、なりませんように」

 

 

ふと、乙骨は虚空を見上げた。微かに光が見えたような気がしたが、そこにはもう、亡霊はいない。

 

その視線を遮るように、真希が駆け寄ってくる。

 血に濡れた二人の傍らに膝をつく彼女を、伏黒は霞む瞳で捉えた。

 

「後は……頼みます」

 

真希の声が、短く割れた。

 

「……任せろ。恵」

 

乙骨の腕の中で、伏黒という存在が魂を失った「重み」へと変わった。

 凍りついたように動かない乙骨の代わりに、真希は伏黒を預かり、石畳へと静かに横たえる。

 

窓の外では、夜明けの光が壊れかけた王宮の輪郭を照らし始めていた。

 広間の外では世界が更新されているが、血の海に沈むこの空間だけは、陽光の届かない死者の領土だった。

 

真希は、次に乙骨を抱き寄せた。

 彼の呼吸は、砂がこぼれるような微かな音を立てている。

 毒はすでに心臓を支配し、喪服の黒をどす黒い赤へと塗り替えていた。

 

不意に、真希の手が、傍に転がる毒の瓶へと伸びた。

 無意識の逃避だった。

 

――この静寂の地獄に、取り残されて何をする。

 

だが、乙骨の指先が、彼女の手首にそっと触れた。

 蝶の羽ばたきのような接触が、真希の動きを縫い止める。

 

「真希さん……。それは、いけません」

 

喉を焼く毒に抗い、乙骨が言葉を紡ぐ。

 

「あなたが死んだら……誰が伝えるんですか」

 

真希は息を止めた。

 手首に触れる指の冷たさが、彼女の魂を現世へと繋ぎ止める杭になる。

 

「……何を」

 

「先生のことを。里香ちゃんの、伏黒君の……僕たちのことを」

 

乙骨の瞳に、最後の一滴の光が集まる。

 

「あなたしか、いないんです」

 

真希の眼鏡が、涙で白く曇った。

 今夜、この広間で流れたどの血よりも、その涙だけが生を証明する温度を持っていた。

 

「私に……この地獄を、死ぬまで語り続けろと言うのか」

 

「……最高の、贈り物でしょう?」

 

乙骨が瞳を細めた。

 「生き残る」という最も重い役を、最も強い人間に引き受けさせる。

 それが、彼の最後の呪いだった。

 

視界が、光に溶けていく。

 鉄錆の匂いは消え、代わりに、いつか里香と摘み集めた花々の香りが満ちた。

 光の向こうに、ただの少女としての里香が立っている。

 

乙骨は、震える手で自らの胸元を探った。

 裂けた喪服の隙間から、血に汚れた鎖を引きずり出す。

 その先に繋がれた、一点の曇りもない銀の指輪。

 

彼は鎖を千切り、指輪を掌に包んだ。

 復讐に燃えた術師の手が、その瞬間、ただ恋人を想うだけの少年の手に戻る。

 乙骨は、ゆっくりと、愛おしげに、その指輪を自らの薬指へとはめ込んだ。

 

あの日、交わした「ずっと一緒」という約束が、死を越えて彼を導いていた。

 怖くは、なかった。彼女が待っている場所へ行けるなら。

 

乙骨の唇が、微かに動いた。真希は耳を寄せ、その震えを拾い上げる。

 

「里香ちゃん……今、行くよ」

 

乙骨の瞳から、殺意の炎が消え、透明な輝きが宿る。

 

「……あとは」

 

微かな吐息が、止まった。

 

「――沈黙」

 

指先から力が抜け、乙骨憂太の目は、静かに閉じられた。

 

 

 

――語り続けろ。この地獄を。

 

真希は乙骨を、伏黒の隣に横たえた。

 喪服と黒衣、二つの遺骸を夜明けの冷光が無慈悲に照らし出す。

 

立ち上がって、広間の出口を見据える。

 胸を圧する言葉の質量は、あまりに重い。

 だが、彼女はその重みこそが、自分が生きていく理由になると悟っていた。

 

一歩、踏み出した。

 硬い足音が、静寂の広間に響き渡る。

 それは語り部として生きる、禪院真希の最初の一歩だった。

 

 

 







最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

本作は、ウィリアム・シェイクスピアの『ハムレット』を骨組みに、呪術師たちの「愛と業」を再構成したものです。
物語の幕が下りた余白として、今回の「配役」と、幾つかのこだわりを記しておきます。

■配役表
乙骨 憂太:【ハムレット】デンマーク王子

五条 悟:【先王の亡霊】毒殺された先代の王。ハムレットの父

羂索:【クローディアス】デンマーク新王。ハムレットの叔父

九十九 由基:【ガートルード】デンマーク王妃。ハムレットの母

祈本 里香:【オフィーリア】ポローニアスの娘

伏黒 恵:【レアティーズ】ポローニアスの息子

楽巌寺 嘉伸:【ポローニアス】デンマーク宰相

禪院 真希:【ホレイショー】ハムレットの親友

加茂 憲紀 / 東堂 葵:【ローゼンクランツ/ギルデンスターン】ハムレットの学友

虎杖 悠仁:【フォーティンブラス】ノルウェー王子。次代を担う者

■舞台裏の話
「生きるべきか、死ぬべきか(To be, or not to be)」
あまりに有名なこの自問を、本作では「呪いとして生きるか、人間として死ぬか」という乙骨の葛藤に置き換えました。

「尼寺へ行け」
本作では、乙骨が里香へ放った「僕の愛は嘘だった」という拒絶に再構築しました。それは彼女をこの地獄から遠ざけるための、彼なりの祈りでもありました。

「あとは、沈黙」
ハムレットの最期の言葉です。この一言を乙骨に託すために、この三十一話があったのかもしれません。

■結びに代えて
皆さんは『ハムレット』と聞いて、どんな話を想像したでしょうか。
1600年代初頭に書かれたこの戯曲には、美しい詩と、痛烈な皮肉や怒りが織り込まれています。
この話を機に、原作に興味を持っていただけたなら嬉しいです。

エルシノアの城壁から、最強は去りました。
長い復讐劇も、これで終わりです。

いつか、この広間の血の匂いが消える日まで。
この物語を、どこかで覚えていていただければ幸いです。

それでは。
あとは、沈黙。

『呪術悲劇ハムレット』完

―― 役を解かれぬ者 記す
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