呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット   作:役を解かれぬ者

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第4話 点火

 

 

 

城壁の石からは、霧が絶え間なく滴っていた。

 

深夜零時を回る頃。

 光を拒絶するように停滞する(もや)は、不自然な白さを帯びて世界の輪郭を塗り潰していく。

 壁下の窪み、闇の濃い石陰には、三人分の気配が沈殿していた。

 

自らの意思とは無関係な拒絶を刻むように、伊地知の肩は細かく震え続けている。

 傍らでは、パンダが巨大な身体を石壁に預け、獣特有の重い呼吸を霧の中に吐き出していた。

 一言も発さぬまま、その鋭い嗅覚を闇の奥へと尖らせ、二人を背後から守るようにして真希の到来を待つ。

 

 

音もなく、真希が現れた。

 眼鏡の縁が冷たい闇を弾き、呪力を持たぬ肉体が放つ緊張が、辺りの空気を一気に研ぎ澄ませる。

 彼女は剥き出しの刃のような平静さで、身を寄せ合う三人を一瞥した。

 

「話せ」

 

一言。それで十分だった。

 

伊地知が語る、足音のリズム。残酷な蒼。消え際に投げられた、あの視線。

 聞き終えた真希は、指先で眼鏡を直した。

 思考を沈め、感情を伏せるための、わずかな空白。

 

「……残穢だ。強すぎる呪力が見せた、残滓の幻覚だろう」

 

真希の声は、合理的だった。

 だが、すかさず狗巻がその腕を掴んだ。

 言葉を介さず、袖を掴む手に力がこもる。

 その瞳に宿る、真希に託すという静かな祈りが、合理で塗り潰そうとした彼女の言葉をせき止めた。

 

 

伊地知が一歩、前へ出た。

 額の汗が深夜の寒気に光る。

 真希の前に立ち、深く、折れそうなほどに腰を折った。

 震える両拳を膝の上で固く握りしめ、顔を上げぬまま言葉を絞り出す。

 

「真希さん、お願いです。今夜、我々と一緒にもう一度、城壁を見ていただけませんか。呪力を持たない貴方の目なら、あれが幻覚か否か、正しく判別できるはずです」

 

吐き出された白い息が、霧に溶けて消失していく。

 

「……もし、あの姿が本物なら。乙骨君をこれ以上、独りにはしておけない。あんな暗がりの中に、置いてはおけないんです」

 

頭を下げたままの、その無防備な背中の震えだけが、この夜の唯一の現実だった。

 

再び、真希は眼鏡に触れた。

 フレームの位置を正す一秒の間に、彼女は引き受けた。

 

「……わかった。付き合ってやる。だが今夜も寒い。一時の鐘が鳴るまでだ」

 

加害者、あるいは運命の観測者になることを、彼女は今、選んだ。

 

 

 

真希が乙骨の居室を叩いたのは、即位の儀を目前に控え、エルシノアが不自然な静寂に包まれていた(とき)だった。

 

厚いカーテンが引き絞られた室内には、光も、暖炉の火もなかった。

 窓際の椅子に深く沈み込む乙骨は、葬儀から幾日経とうと、あの黒い喪服を脱いではいない。

 

凍土と化した部屋の空気が、肌を刺した。

 何日もそこに座り続けた結果、石床までもが主人の内側に宿る「死者の体温」を吸い込み、冷え切っていた。

 

「城壁で、亡霊を見た」

 

部屋の中央に立ち、澱んだ空気を断ち切るように真希は言った。

 足音のリズム。そして残酷な蒼。

 深夜の鐘が鳴るまでの極寒の中で、自分たちが観測した「事実」だけを突きつける。

 

「幻覚じゃない。消える直前、悟は一度だけ横を向いた。お前のいる方角を見て、それから霧に溶けた」

 

沈黙。それから乙骨が、真希を見た。

 その瞬間を、真希は生涯忘れないだろうと直感した。

 

乙骨の中で、疑惑が確信へと変容していく。

 ただの空洞だった瞳の底から、青白い炎が点火した。

 それは希望などではない。

 喪失という名の「死」が、復讐という名の「生」へと結晶する、冷たく鋭利な変貌だった。

 

呪力が、溢れた。

 どろりとした闇が輪郭から滲み出し、部屋を侵食していく。

 空気が(きし)んだ。

 

乙骨の傍ら、里香が丁寧に押した押し花の本が、怯えるように細かく震える。

 棚の茶器が滑り、縁でかすかな音を立てた。

 愛の残骸たちが、主人の変貌に悲鳴を上げている。

 

乙骨は立ち上がった。

 喪服の黒が闇に溶け、輪郭を失っていく。

 

壊れていく、と真希は思った。

 

「……今夜。……城壁に、行きます」

 

真希は頷くしかなかった。

 乙骨の背中を見送った今、自らが引き金を引いたことを静かに自覚する。

 骨の奥で、何かが鳴った。耳ではなく、骨格の深い場所で運命が軋む音。

 もう、引き返せない夜が始まる。

 

真希は目を閉じた。

 城下に鳴り響く祝祭の鐘が、死を悼む弔鐘(ちょうしょう)のように低く、重く響く。

 

やがて、目を開けた。

 指先で眼鏡の位置を直し、白く濁った朝の霧を、ただ静かに見据える。

 

夜明けの光すら呑み込んで、世界はただ白く、どこまでも静まり返っていた。

 

 

 

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