呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット 作:役を解かれぬ者
城壁の石からは、霧が絶え間なく滴っていた。
深夜零時を回る頃。
光を拒絶するように停滞する
壁下の窪み、闇の濃い石陰には、三人分の気配が沈殿していた。
自らの意思とは無関係な拒絶を刻むように、伊地知の肩は細かく震え続けている。
傍らでは、パンダが巨大な身体を石壁に預け、獣特有の重い呼吸を霧の中に吐き出していた。
一言も発さぬまま、その鋭い嗅覚を闇の奥へと尖らせ、二人を背後から守るようにして真希の到来を待つ。
音もなく、真希が現れた。
眼鏡の縁が冷たい闇を弾き、呪力を持たぬ肉体が放つ緊張が、辺りの空気を一気に研ぎ澄ませる。
彼女は剥き出しの刃のような平静さで、身を寄せ合う三人を一瞥した。
「話せ」
一言。それで十分だった。
伊地知が語る、足音のリズム。残酷な蒼。消え際に投げられた、あの視線。
聞き終えた真希は、指先で眼鏡を直した。
思考を沈め、感情を伏せるための、わずかな空白。
「……残穢だ。強すぎる呪力が見せた、残滓の幻覚だろう」
真希の声は、合理的だった。
だが、すかさず狗巻がその腕を掴んだ。
言葉を介さず、袖を掴む手に力がこもる。
その瞳に宿る、真希に託すという静かな祈りが、合理で塗り潰そうとした彼女の言葉をせき止めた。
伊地知が一歩、前へ出た。
額の汗が深夜の寒気に光る。
真希の前に立ち、深く、折れそうなほどに腰を折った。
震える両拳を膝の上で固く握りしめ、顔を上げぬまま言葉を絞り出す。
「真希さん、お願いです。今夜、我々と一緒にもう一度、城壁を見ていただけませんか。呪力を持たない貴方の目なら、あれが幻覚か否か、正しく判別できるはずです」
吐き出された白い息が、霧に溶けて消失していく。
「……もし、あの姿が本物なら。乙骨君をこれ以上、独りにはしておけない。あんな暗がりの中に、置いてはおけないんです」
頭を下げたままの、その無防備な背中の震えだけが、この夜の唯一の現実だった。
再び、真希は眼鏡に触れた。
フレームの位置を正す一秒の間に、彼女は引き受けた。
「……わかった。付き合ってやる。だが今夜も寒い。一時の鐘が鳴るまでだ」
加害者、あるいは運命の観測者になることを、彼女は今、選んだ。
真希が乙骨の居室を叩いたのは、即位の儀を目前に控え、エルシノアが不自然な静寂に包まれていた
厚いカーテンが引き絞られた室内には、光も、暖炉の火もなかった。
窓際の椅子に深く沈み込む乙骨は、葬儀から幾日経とうと、あの黒い喪服を脱いではいない。
凍土と化した部屋の空気が、肌を刺した。
何日もそこに座り続けた結果、石床までもが主人の内側に宿る「死者の体温」を吸い込み、冷え切っていた。
「城壁で、亡霊を見た」
部屋の中央に立ち、澱んだ空気を断ち切るように真希は言った。
足音のリズム。そして残酷な蒼。
深夜の鐘が鳴るまでの極寒の中で、自分たちが観測した「事実」だけを突きつける。
「幻覚じゃない。消える直前、悟は一度だけ横を向いた。お前のいる方角を見て、それから霧に溶けた」
沈黙。それから乙骨が、真希を見た。
その瞬間を、真希は生涯忘れないだろうと直感した。
乙骨の中で、疑惑が確信へと変容していく。
ただの空洞だった瞳の底から、青白い炎が点火した。
それは希望などではない。
喪失という名の「死」が、復讐という名の「生」へと結晶する、冷たく鋭利な変貌だった。
呪力が、溢れた。
どろりとした闇が輪郭から滲み出し、部屋を侵食していく。
空気が
乙骨の傍ら、里香が丁寧に押した押し花の本が、怯えるように細かく震える。
棚の茶器が滑り、縁でかすかな音を立てた。
愛の残骸たちが、主人の変貌に悲鳴を上げている。
乙骨は立ち上がった。
喪服の黒が闇に溶け、輪郭を失っていく。
壊れていく、と真希は思った。
「……今夜。……城壁に、行きます」
真希は頷くしかなかった。
乙骨の背中を見送った今、自らが引き金を引いたことを静かに自覚する。
骨の奥で、何かが鳴った。耳ではなく、骨格の深い場所で運命が軋む音。
もう、引き返せない夜が始まる。
真希は目を閉じた。
城下に鳴り響く祝祭の鐘が、死を悼む
やがて、目を開けた。
指先で眼鏡の位置を直し、白く濁った朝の霧を、ただ静かに見据える。
夜明けの光すら呑み込んで、世界はただ白く、どこまでも静まり返っていた。