呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット 作:役を解かれぬ者
卓上に立つ、三本の蝋燭。
今は最後の一本だけが、死に際の呼吸にも似た細い炎を揺らしている。
溶けた蝋が木目に染み込み、饐えた匂いが古い紙と混ざり合う。
記録と腐敗の混濁。
この部屋で下されてきた全ての密約が、その沈殿した匂いの中に積み重なっていた。
楽巌寺嘉伸は卓の対面に立ち、羂索の額に刻まれた縫い目から、一度として目を逸らさなかった。
羂索は、かつて五条悟が躯を預けていた重厚な執務机に身を乗り出し、緩慢な動作で指を組む。
両手の指を絡めて卓に置く、武器を持たぬことを誇示するような所作。
その輪郭は、楽巌寺の記憶にある夏油傑のそれと一致していた。
指の間で、王権の象徴である
楽巌寺の奥歯が、
目の前の姿が「夏油傑」であると心が揺らぎ、身体がそれを事実として受け入れようとする。
だが、額の縫い目が放つ異質さと、指輪が刻む「王」としての冷徹な重みが、その錯覚を容赦なく断ち切った。
あまりに精密な再現。
その完成度の高さこそが、かつての青年の尊厳を汚す何よりの冒涜として、老術師の胸を
怪物は、楽巌寺の名を呼ばなかった。
親愛を装う必要すら感じていないのか。羂索は指を組んだまま、事務的に、しかし逃げ場のない論理を卓上に並べた。
「呪術界は今、唯一無二の支柱を失いました。均衡が崩れ、この国の理が瓦解すれば、真っ先に泥を啜るのは貴方が守ろうとした術師たちだ。秩序という名の防波堤を、今この瞬間に再建しなければならない。……残された術師たちが、無秩序な泥の中で喘ぐ姿は見たくないでしょう?」
その言葉の整い方が、何よりも不快だった。
楽巌寺が長い年月をかけて築いてきた「伝統」と「保護」の思想を、目の前の化け物はその薄汚れた舌で、さも高潔な規律であるかのように語り直してくる。
反論しようと開いた口からは、言葉にならない乾いた吐息が漏れるだけだった。
世界が狂うとき、正気でいることは最大の狂気だ。
歪んだ線であっても、線のない世界よりは、まだ若者たちが生き延びられる。
「……貴様が何者であれ、この国の『型』を壊さぬというなら、
羂索は満足げに、組んでいた指を解いた。
その指輪が、偽りの秩序を承認する封印のように卓を軽く叩く。
最後の一本の炎が、その不吉な音に震えるように揺れた。
楽巌寺が立ち去った後、
加茂憲紀は、その聖域に踏み込む一歩ごとに、自身の魂が削り取られていく感覚に陥っていた。
かつて「最強」が寛いでいたこの空間は、今や簒奪者が吐き出す、甘く粘りつくような毒に満ちている。
王の私室へ呼び出されることは、廷臣としての栄誉などではなく、逃げ場のない断頭台へ立たされることに等しかった。
羂索は、卓に絡めた指を解くことなく、柔らかな笑みを加茂へ向けた。
――私は君を信頼している。
その慈愛に満ちた言霊が、目に見えぬ鎖となって加茂の四肢を縛り上げる。
王の「信頼」を裏切ることは、母の安寧という名の天秤を自ら叩き割ることに他ならない。
加茂は厚手の袴が石を擦る、砂を噛むような乾いた音を響かせ、簒奪者の足元に膝を屈した。
命じられたのは、呪いよりも簡潔な裏切りだった。
――乙骨憂太を監視せよ。
……天よ。私は友を売る秤の上に、母の微笑みを載せてしまった。
喉の奥で言葉が灰になり、加茂はただ深く、髪が冷たい石畳に触れるまで頭を下げた。
「……御意に」
その背後、
常に激動の渦中に身を置く「動」の男が、今は不気味なまでの静止を保っている。
その双眸は眼前の羂索を射抜きながらも、脳裏では戴冠式の情景を冷徹に反芻していた。
新王の傍ら。本来ならば、この国を導く
彼女が選んだ沈黙と、その裏に潜む巨大な意図。
呪術師として、そして九十九の弟子として、その真意を尊重すべきだと東堂の直感が告げている。
師が動かぬ以上、弟子が先んじて牙を剥くべきではない。
羂索から手渡された監視の命令書を一読し、東堂は鼻で笑うことさえせず、意識の矛先を回廊の先――乙骨憂太へと向けた。
「……御意」
組まれた腕は、微動だにしなかった。
簒奪者の目前で、その巨躯はただ沈黙し、来るべき「刻」を見据えていた。
夜の回廊を、乙骨は歩いていた。
誰ともすれ違うことはない。
廷臣たちはその気配を察するや、影や石壁の裏へと逃げ去っていく。
彼を
石畳の向こうに、微かな温かさが揺れた。
五条との思い出が、薄氷を踏むような乙骨の歩みを城壁の上へと
孤独な、引き返せない行軍。
足の裏を浸す石畳の冷たさを、乙骨はもう感じていない。
見据える先にあるのは、かつての師であり、今は亡霊と化した「最強」。
それは、天の霊気をもたらすのか、地獄の毒気を運ぶのか――。