呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット   作:役を解かれぬ者

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第6話 記録と腐敗

 

 

 

卓上に立つ、三本の蝋燭。

 王の私室(ソーラー)の静寂を食むそれらは、夜半を過ぎた頃から、命を削るように一本ずつ燃え尽きていった。

 今は最後の一本だけが、死に際の呼吸にも似た細い炎を揺らしている。

 

溶けた蝋が木目に染み込み、饐えた匂いが古い紙と混ざり合う。

 記録と腐敗の混濁。

 この部屋で下されてきた全ての密約が、その沈殿した匂いの中に積み重なっていた。

 

楽巌寺嘉伸は卓の対面に立ち、羂索の額に刻まれた縫い目から、一度として目を逸らさなかった。

 羂索は、かつて五条悟が躯を預けていた重厚な執務机に身を乗り出し、緩慢な動作で指を組む。

 

両手の指を絡めて卓に置く、武器を持たぬことを誇示するような所作。

 その輪郭は、楽巌寺の記憶にある夏油傑のそれと一致していた。

 指の間で、王権の象徴である印章指輪(シグネット・リング)が、死んだ魚の眼のように鈍く光を()ね返している。

 

楽巌寺の奥歯が、(きし)んだ。

 

目の前の姿が「夏油傑」であると心が揺らぎ、身体がそれを事実として受け入れようとする。

 だが、額の縫い目が放つ異質さと、指輪が刻む「王」としての冷徹な重みが、その錯覚を容赦なく断ち切った。

 

あまりに精密な再現。

 その完成度の高さこそが、かつての青年の尊厳を汚す何よりの冒涜として、老術師の胸を(えぐ)った。

 

 

怪物は、楽巌寺の名を呼ばなかった。

 

親愛を装う必要すら感じていないのか。羂索は指を組んだまま、事務的に、しかし逃げ場のない論理を卓上に並べた。

 

「呪術界は今、唯一無二の支柱を失いました。均衡が崩れ、この国の理が瓦解すれば、真っ先に泥を啜るのは貴方が守ろうとした術師たちだ。秩序という名の防波堤を、今この瞬間に再建しなければならない。……残された術師たちが、無秩序な泥の中で喘ぐ姿は見たくないでしょう?」

 

その言葉の整い方が、何よりも不快だった。

 楽巌寺が長い年月をかけて築いてきた「伝統」と「保護」の思想を、目の前の化け物はその薄汚れた舌で、さも高潔な規律であるかのように語り直してくる。

 反論しようと開いた口からは、言葉にならない乾いた吐息が漏れるだけだった。

 

世界が狂うとき、正気でいることは最大の狂気だ。

 歪んだ線であっても、線のない世界よりは、まだ若者たちが生き延びられる。

 

「……貴様が何者であれ、この国の『型』を壊さぬというなら、(わし)は貴様を王と呼ぼう」

 

羂索は満足げに、組んでいた指を解いた。

 その指輪が、偽りの秩序を承認する封印のように卓を軽く叩く。

 最後の一本の炎が、その不吉な音に震えるように揺れた。

 

 

 

楽巌寺が立ち去った後、王の私室(ソーラー)の重厚な扉が再び開かれた。

 

加茂憲紀は、その聖域に踏み込む一歩ごとに、自身の魂が削り取られていく感覚に陥っていた。

 かつて「最強」が寛いでいたこの空間は、今や簒奪者が吐き出す、甘く粘りつくような毒に満ちている。

 王の私室へ呼び出されることは、廷臣としての栄誉などではなく、逃げ場のない断頭台へ立たされることに等しかった。

 

羂索は、卓に絡めた指を解くことなく、柔らかな笑みを加茂へ向けた。

 

――私は君を信頼している。

 

その慈愛に満ちた言霊が、目に見えぬ鎖となって加茂の四肢を縛り上げる。

 

王の「信頼」を裏切ることは、母の安寧という名の天秤を自ら叩き割ることに他ならない。

 加茂は厚手の袴が石を擦る、砂を噛むような乾いた音を響かせ、簒奪者の足元に膝を屈した。

 

命じられたのは、呪いよりも簡潔な裏切りだった。

――乙骨憂太を監視せよ。

 

……天よ。私は友を売る秤の上に、母の微笑みを載せてしまった。

 

喉の奥で言葉が灰になり、加茂はただ深く、髪が冷たい石畳に触れるまで頭を下げた。

 

「……御意に」

 

 

その背後、私室(ソーラー)の入り口近くで、東堂葵は仁王立ちのまま腕を組んでいた。

 

常に激動の渦中に身を置く「動」の男が、今は不気味なまでの静止を保っている。

 その双眸は眼前の羂索を射抜きながらも、脳裏では戴冠式の情景を冷徹に反芻していた。

 

新王の傍ら。本来ならば、この国を導く(いただき)に立つはずの師・九十九由基が、ただの廷臣としてそこに立っていた。

 彼女が選んだ沈黙と、その裏に潜む巨大な意図。

 呪術師として、そして九十九の弟子として、その真意を尊重すべきだと東堂の直感が告げている。

 

師が動かぬ以上、弟子が先んじて牙を剥くべきではない。

 

羂索から手渡された監視の命令書を一読し、東堂は鼻で笑うことさえせず、意識の矛先を回廊の先――乙骨憂太へと向けた。

 

「……御意」

 

組まれた腕は、微動だにしなかった。

 簒奪者の目前で、その巨躯はただ沈黙し、来るべき「刻」を見据えていた。

 

 

 

夜の回廊を、乙骨は歩いていた。

 

誰ともすれ違うことはない。

 廷臣たちはその気配を察するや、影や石壁の裏へと逃げ去っていく。

 彼を忌絶(きぜつ)する世界が、その歩みに合わせて冷たい空洞を広げていた。

 

石畳の向こうに、微かな温かさが揺れた。

 

五条との思い出が、薄氷を踏むような乙骨の歩みを城壁の上へと(いざな)っていく。

 

孤独な、引き返せない行軍。

 足の裏を浸す石畳の冷たさを、乙骨はもう感じていない。

 

見据える先にあるのは、かつての師であり、今は亡霊と化した「最強」。

 

それは、天の霊気をもたらすのか、地獄の毒気を運ぶのか――。

 

 

 

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