呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット 作:役を解かれぬ者
楽巌寺の執務室には、朝の
窓から差し込む細い陽光の
外の世界に満ちる腐敗を拒絶し、化石のような
楽巌寺は文机の前に座り、部屋の中央に立つ里香を見ていた。
幼い頃から変わらぬその行儀の良い立ち姿が、「父親代わり」として見守ってきた楽巌寺には痛かった。
「乙骨の語る愛の誓いなどは――」
楽巌寺が唇を割った。
「血気盛んな若者が放つ火花と同じだ。今は大きく見えても、時が経てば色褪せる。お前はその火花に目を焼かれているに過ぎん」
「いいえ先生。憂太の瞳には、誠実さが宿っているわ」
「自分を安売りするな。奴には、自ら選ぶ自由などない。……乙骨との接触を、当面禁ずる」
里香の肩が、微かに動いた。
――今だって、憂太は会いに来てくれない。
熱いものが込み上げ、瞳が潤む。
溢れるのを堪える姿は、ひどく可憐で、目を逸らせないほどに美しかった。
「承知いたしました」
抵抗しないことが、悲しみの深さを示していた。
楽巌寺は里香を見て――目を逸らした。
「……お前の幸せを、願っている」
彼の声が、初めて揺れた。
それが楽巌寺の精一杯の、不器用な愛情だった。
話を終えた里香が外へ出ると、目の前に伏黒恵がいた。
里香の顔をのぞき込んだ彼は、その潤んだ瞳を認めた瞬間、わずかに肩を跳ねさせる。
「……姉さん?」
普段の冷静な面持ちが、一気に崩れた。
涙を拭おうとしたのか、それとも背を叩こうとしたのか、迷うように泳いだ手が
平静を装おうとしているものの、その目元には年相応の動揺が滲んでいる。
「……何かあれば、俺に言ってください」
気まずそうに視線を彷徨わせながら、それでも彼は、精一杯の思いをその言葉に込めた。
慰めも同情も挟まない、まっすぐな一言。
幼い頃から姉のように慕ってきた相手への、伏黒なりの不器用な忠義だった。
里香の指が伏黒の頬に触れると、彼はいつもの癖で、少しだけ膝を折り、頭を下げる。
里香がその額に触れやすいように。
震える彼女の指先が、自分の顔を包み込むのをじっと待った。
「ありがとう、恵君」
里香は、差し出されたその額にそっと唇を押し当てた。
柔らかな熱が肌に伝わり、彼女が纏う花の残り香が鼻腔をくすぐる。
伏黒は、その聖なる重みを受け止めた。
離れた里香の唇が、頼りなく弧を描く。
完璧ではないその微笑みが、今の彼女に許された精一杯だった。
里香と別れて回廊を進む伏黒は、角を曲がった瞬間、足を止めた。
視線の先では、冷え切った回廊の壁に背を預けて、乙骨憂太が立っている。
その瞳を認めた瞬間、伏黒の背筋に悪寒が走った。
昨日までの光は跡形もなく消え失せ、感情が燃え尽きた後の、灰のような虚無だけが、そこにある。
伏黒の視線が、無意識に乙骨の左手へと落ちた。
いつもそこにあったはずの「光」が失われている。
その空白に、伏黒は息を詰め、震える唇を開き――。
「伏黒君。里香ちゃんに、伝えてほしいことがある」
乙骨が先に、平坦な声を放った。
「……『君への愛は、嘘だった』」
石壁が、鳴った。
乙骨の足元から奔った霜が、目地に沿って白い結晶の産声を上げる。
制御を失った呪力が、喉の奥で殺した悲鳴を代わりに吐き出していた。
「『もう二度と、僕に近づくな』と……。そう伝えてほしい」
伏黒の拳が、乙骨の顔の寸前で空気を掴んだ。
だが、殴られることへの反応すら消え、無機質な仮面のように静止したその瞳が、伏黒の拳を空中に縫い止める。
「今の言葉……ここが王宮でなければ、殺してましたよ」
伏黒は拳を引いた。
指先まで伝わってくる怒りと、それ以上に深い戸惑いが胸を刺した。
「……指輪はどうした?」
乙骨は、視線すら合わせなかった。
「……もう捨てたよ」
嘘だった。
乙骨は、喪服の下で吊るした指輪を、布地越しに
指輪を外した瞬間の、あの恐ろしいほどの「軽さ」。
その隙間を埋めるように、食い込む銀の感触を確かめる。
これは、彼が「人間」であった証。
伏黒に悟られぬよう、乙骨は自らの肉体にその痛みを深く刻みつけた。
里香の部屋に、色のない光が差し込んでいた。
その光の中へ伏黒が入り、短く告げる。
――君への愛は、嘘だった、と。
里香の腕から、力が抜けた。
胸に抱えていた本が滑り落ち、石床に叩きつけられる。
その時、耳を刺したのは、本が立てる鈍い衝突音ではなかった。
開いた
里香が季節を閉じ込め、慈しんできた思い出が、救いようのない塵へと還っていく。
それを合図に、里香の視界から、色彩が剥がれ落ちていった。
世界は輪郭だけを残し、血の通わない、白々とした静止画へ成り果てる。
「あの人には、もう会わないでください」
伏黒は絞り出すように言った。
「俺は……あなたの幸せだけを、願っています」
美しいその祈りは、皮肉にも、かつて聞いた呪いと同じ形をしていた。
「恵君も、楽巌寺先生も……」
里香の声は、静かだった。
「私の幸せを願うと言いながら、どうして私の心を傷つけるの?」
伏黒は、答えられなかった。
「幸せ」という名の刃が、目の前の大切な女性を切り裂いていく。
その矛盾を、色のない光の中で受け止めるしかなかった。