呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット   作:役を解かれぬ者

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第8話 色のない光

 

 

 

楽巌寺の執務室には、朝の(ちり)が舞っていた。

 窓から差し込む細い陽光の(おり)の中で、それは呼吸を止めたように漂い、やがて音もなく積もっていく。

 外の世界に満ちる腐敗を拒絶し、化石のような静謐(せいひつ)を守り続ける、停滞した空間だった。

 

楽巌寺は文机の前に座り、部屋の中央に立つ里香を見ていた。

 幼い頃から変わらぬその行儀の良い立ち姿が、「父親代わり」として見守ってきた楽巌寺には痛かった。

 

「乙骨の語る愛の誓いなどは――」

 

楽巌寺が唇を割った。

 

「血気盛んな若者が放つ火花と同じだ。今は大きく見えても、時が経てば色褪せる。お前はその火花に目を焼かれているに過ぎん」

 

「いいえ先生。憂太の瞳には、誠実さが宿っているわ」

 

「自分を安売りするな。奴には、自ら選ぶ自由などない。……乙骨との接触を、当面禁ずる」

 

里香の肩が、微かに動いた。

 

――今だって、憂太は会いに来てくれない。

 

熱いものが込み上げ、瞳が潤む。

 溢れるのを堪える姿は、ひどく可憐で、目を逸らせないほどに美しかった。

 

「承知いたしました」

 

抵抗しないことが、悲しみの深さを示していた。

 楽巌寺は里香を見て――目を逸らした。

 

「……お前の幸せを、願っている」

 

彼の声が、初めて揺れた。

 それが楽巌寺の精一杯の、不器用な愛情だった。

 

 

 

話を終えた里香が外へ出ると、目の前に伏黒恵がいた。

 里香の顔をのぞき込んだ彼は、その潤んだ瞳を認めた瞬間、わずかに肩を跳ねさせる。

 

「……姉さん?」

 

普段の冷静な面持ちが、一気に崩れた。

 涙を拭おうとしたのか、それとも背を叩こうとしたのか、迷うように泳いだ手が(くう)をかいた。

 平静を装おうとしているものの、その目元には年相応の動揺が滲んでいる。

 

「……何かあれば、俺に言ってください」

 

気まずそうに視線を彷徨わせながら、それでも彼は、精一杯の思いをその言葉に込めた。

 

慰めも同情も挟まない、まっすぐな一言。

 幼い頃から姉のように慕ってきた相手への、伏黒なりの不器用な忠義だった。

 

里香の指が伏黒の頬に触れると、彼はいつもの癖で、少しだけ膝を折り、頭を下げる。

 里香がその額に触れやすいように。

 

震える彼女の指先が、自分の顔を包み込むのをじっと待った。

 

「ありがとう、恵君」

 

里香は、差し出されたその額にそっと唇を押し当てた。

 柔らかな熱が肌に伝わり、彼女が纏う花の残り香が鼻腔をくすぐる。

 伏黒は、その聖なる重みを受け止めた。

 

離れた里香の唇が、頼りなく弧を描く。

 完璧ではないその微笑みが、今の彼女に許された精一杯だった。

 

 

 

里香と別れて回廊を進む伏黒は、角を曲がった瞬間、足を止めた。

 

視線の先では、冷え切った回廊の壁に背を預けて、乙骨憂太が立っている。

 その瞳を認めた瞬間、伏黒の背筋に悪寒が走った。

 昨日までの光は跡形もなく消え失せ、感情が燃え尽きた後の、灰のような虚無だけが、そこにある。

 

伏黒の視線が、無意識に乙骨の左手へと落ちた。

 

いつもそこにあったはずの「光」が失われている。

 その空白に、伏黒は息を詰め、震える唇を開き――。

 

「伏黒君。里香ちゃんに、伝えてほしいことがある」

 

乙骨が先に、平坦な声を放った。

 

「……『君への愛は、嘘だった』」

 

石壁が、鳴った。

 乙骨の足元から奔った霜が、目地に沿って白い結晶の産声を上げる。

 制御を失った呪力が、喉の奥で殺した悲鳴を代わりに吐き出していた。

 

「『もう二度と、僕に近づくな』と……。そう伝えてほしい」

 

伏黒の拳が、乙骨の顔の寸前で空気を掴んだ。

 だが、殴られることへの反応すら消え、無機質な仮面のように静止したその瞳が、伏黒の拳を空中に縫い止める。

 

「今の言葉……ここが王宮でなければ、殺してましたよ」

 

伏黒は拳を引いた。

 指先まで伝わってくる怒りと、それ以上に深い戸惑いが胸を刺した。

 

「……指輪はどうした?」

 

乙骨は、視線すら合わせなかった。

 

「……もう捨てたよ」

 

嘘だった。

 乙骨は、喪服の下で吊るした指輪を、布地越しに(てのひら)の中で強く握りしめた。

 

指輪を外した瞬間の、あの恐ろしいほどの「軽さ」。

 その隙間を埋めるように、食い込む銀の感触を確かめる。

 

これは、彼が「人間」であった証。

 

伏黒に悟られぬよう、乙骨は自らの肉体にその痛みを深く刻みつけた。

 

 

 

里香の部屋に、色のない光が差し込んでいた。

 その光の中へ伏黒が入り、短く告げる。

 

――君への愛は、嘘だった、と。

 

里香の腕から、力が抜けた。

 胸に抱えていた本が滑り落ち、石床に叩きつけられる。

 

その時、耳を刺したのは、本が立てる鈍い衝突音ではなかった。

 開いた(ページ)の隙間から溢れ出した押し花が、石床に触れた瞬間、パキリと乾いた音を立てて割れていた。

 里香が季節を閉じ込め、慈しんできた思い出が、救いようのない塵へと還っていく。

 

それを合図に、里香の視界から、色彩が剥がれ落ちていった。

 世界は輪郭だけを残し、血の通わない、白々とした静止画へ成り果てる。

 

「あの人には、もう会わないでください」

 

伏黒は絞り出すように言った。

 

「俺は……あなたの幸せだけを、願っています」

 

美しいその祈りは、皮肉にも、かつて聞いた呪いと同じ形をしていた。

 

「恵君も、楽巌寺先生も……」

 

里香の声は、静かだった。

 

「私の幸せを願うと言いながら、どうして私の心を傷つけるの?」

 

伏黒は、答えられなかった。

 「幸せ」という名の刃が、目の前の大切な女性を切り裂いていく。

 その矛盾を、色のない光の中で受け止めるしかなかった。

 

 

 

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