呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット 作:役を解かれぬ者
楽巌寺の執務室に、夕の光が溜まっていた。
窓から差し込む橙色が、文机の上の書類を斜めに切り裂いている。
その斜陽の中に、旅支度を整えた伏黒恵が立っていた。
フランスへの出立を控え、彼は黒い外套に身を包んでいる。
傍らの床に置かれた革鞄は、中身の重みでわずかに歪み、使い込まれた金具が鈍い光を返していた。
外では迎えの馬車が石畳を叩く音が、一定の間隔で響いている。
楽巌寺は座ったまま、公文書を手にした「息子のような存在」を見ていた。
言いたいことが多すぎると、言葉は喉の奥で滞る。
彼は生涯、そういう人間だった。
「時間はあるか」
「少しなら」
「……座れ」
楽巌寺は文机の引き出しから、一枚の白紙を取り出した。
何も記されていないその空白を、節くれだった指が丁寧に広げ、なぞり、再び折り畳む。
カサリ、と。静寂を裂く乾いた音が響いた。
「フランスでの任務は、平坦ではない。金、名誉、怒り……様々なものがお前に手を伸ばしてくるだろう」
楽巌寺の目が、真っ直ぐに伏黒を見つめた。
「その時に覚えておけ。自分自身に誠実であれ。そうすれば、夜が明ければ日が昇るように、他者にも誠実でいられる」
伏黒は鞄の紐を強く握った。
照れくさく、しかしどこか誇らしい。
普段は小言しか言わない「父親のような存在」が、今だけは祈りを口にしているのが分かった。
「……はい。行ってきます、先生」
短く応じ、伏黒は扉を開けた。
橙色の光が廊下へ長く伸び、静かに消える。
楽巌寺は、机に残された白紙の折り目を、いつまでも眺めていた。
不吉な羽音が、塔の静寂を掻き乱した。
冥冥は高欄に身を預け、虚空を埋め尽くす黒い群れを眺めている。
卓上の羊皮紙には、凍てついた月光のような数値が並んでいた。
他者の命、国家の没落、最強の不在。
それら全ての絶望を、彼女の羽ペンは「金」という冷徹な記号へ書き換えていく。
「……カラスが騒いでいるね。お祝いの準備かな?」
冥冥の問いに、帳簿を整えていた憂憂も口角を上げた。
彼女にとっては、祈りも、悲劇も、等しく取引の対象に過ぎない。
命が形作った価値の、その揺らぎを冷徹に読み切ること。
それこそが、彼女がこの世界に捧げる唯一の誠実さだった。
銀鏡に映る影が、淡く波打った。
与幸吉の視界は、デンマークの暗い洞穴から海を越え、フランスの石畳を濡らす雨を捉えている。
揺らぎが走るたびに、伏黒の輪郭は白く、脆く、背景に溶けて飛んだ。
彼は雨に打たれながら、何かを探して路地裏を彷徨っている。
ようやくたどり着いたのは、一部がひしゃげたまま放置された建物。
そこは、かつて「あの人」が訪れた場所だった。
雨に濡れる壁の亀裂に、伏黒が縋るように指先を這わせていく。
その指先の震えまでをも銀鏡越しに眺めながら、与幸吉は、感情を排した筆致で報告書を記し続ける。
脳裏に浮かぶのは、三輪霞の笑顔。
あの春の陽光のような平穏を守るためだけに、この廃材のような肉体は動いている。
楽巌寺の声が、意識の淵で反響する。
――自分自身に誠実であれ。
与幸吉の機械の指が、最後の一行を刻んだ。
『不穏な動き、見当たらず。潔白とする。』
明らかな虚偽だった。
銀鏡が映し出したフランスの不吉な予兆を、彼は全て識っている。
だが、その真実を書き連ねれば戦火は加速し、彼女さえも地獄へ引きずり込むことになる。
洞穴には、術式が放つ微かな余熱と、静寂だけが残った。