ターフが揺らめく。
歓声に応じるかのように、空気を震わす。
中山競馬場、芝コース。
8頭立ての2歳新馬。
先頭には、一頭の黒鹿毛馬。
「……よしっ、いけっ! よしっ……!」
場内のターフを駆ける8頭を見下ろし、思わず拳を握りしめる。
手のひらは湿っぽく感じるし、胸の奥は熱でも秘めているようだ。
8頭――いや、その先頭。
勝利を、栄光を、未来を。
背に跨る騎手は当然のように、涼しい顔で。
馬主席に座る俺は、興奮を抑えきれていない。
愛馬が後続に2馬身という決定的な差を以て、その力を知らしめる。
騎手は淡々と馬の首元を軽く叩くだけ。
よくやった、とでも告げるように。
「いやぁ、やはり強い。強いですね、この馬は」
勝者としてウィナーズサークルに降り立つなり、開口一番、騎手が微笑する。
その笑みは他馬には少し酷だったかな、と言いたげな顔で、本番のレースでも飄々としている。
「
この馬を預かる厩舎の主、調教師は満足そうに頷く。
こんな勝ち方でも確かに課題はあるし、なによりこの馬にとってはスタート地点だ。将来を見据えるように、というのは大正解だ。
「ありがとうございます!
「ですね。それは間違いないし、これからも乗せてもらえるのなら、嬉しいですよ」
「……やっぱり抜かりないですね」
「はははっ。騎手として良馬が巡ってきたなら、それが生命線になりますからねぇ」
うん、と騎手が頷く。
「化けるかもしれない? いいえ、
「…………おい、それは……」
「すみません。ですけど、また乗せてほしいです。都合空けとくんで」
「ほうほう、なるほど。
「おい野広、今は…………すみません、野広が急に……」
「いえいえ、自分的には嬉しいですよ。こういうお墨付きをいただけたんで」
「はあ……」
調教師が頭を抱える一方で、騎手は笑みを深める。
「まあいいじゃないですか。自分としても馬主になって初めて勝てましたし。今日は祝勝ですよ!」
「……そう、ですね。この勝利を祝って、今日は乾杯ですね」
◇ ◇ ◇
1963年、8月1週。
真夏の刺してくるような暑さを後頭部に浴びながら、放牧場を走り回る幼駒たちを眺める。
こんな猛暑の真っ只中でも走っている仔馬がいるのだから、その体力にはつくづく感心する。
「お疲れさまです
目を細め、穏やかに微笑むのは、この『
きっぱり整えられた髪には白髪が混じるが、それでもまだまだ身体を動かし、元気そうにされている。
この牧場を引き継いでからも、ずっと牧場長を務めてくれている最古参の一角だ。
最近の悩みはクセが強すぎる娘さんのクセが悪化してきていることらしい。
「自分も若ければあんなに走れていたと思うと、なんというかまあ、しんみりしちゃいますね……」
「冗談は止してくださいよ、まだ元気じゃないですか」
「いやいや、この老骨にはけっこう堪えてますから。もう歳というか、世代が移り変わっていくんですよ、馬もですけど、人もね」
とは言っているが、俺からすればまだまだ働けそうにしか見えない。
だが、無理をさせてしまっている部分はあるかもしれない。
「できればウチの娘にも本格的に牧場に関わってほしいのですが、あれはいかんせん、高校卒業間際というのに、拘りが強すぎるというか、なんというか……」
「いやいや! まあ俺としても関わってほしいのは本音ですけどね……」
「すみません新さん、あれがこっちに来てくたらいいんですがね……」
はっきりいって、この北東牧場はかなり人手が必要だ。
牧場スタッフが牧場長含めて5人、一方で繁殖牝馬の頭数が9頭。
出産シーズンになると、毎回毎回大慌てだ。
そんなわけでどうしようもなくなった一時は流石に、まだ高校生な牧場長の娘さんの手も貸してもらったことがある。
手際は非常に速かった。うん、速かった。
「すみません、父が亡くなって、人もいなくなってしまって……父であれば、どうしようとしたんでしょうね……」
「自分を卑下しないでくださいよ新さん。確かに私はお父さんの代から働かせてもらってますが、今の代でもやり甲斐を感じていますから。みんなそうですよ、この牧場は」
父の偉大さというか、競馬界での顔の広さを胸が締まるほど思い知った。
日本競馬で名を轟かせていた父親が亡くなってから、この牧場の状況は芳しくない。
この牧場は実をいうと、最初は3つ年上の兄が引き継ぐ予定だった。
が、2年前に父が亡くなると一転、資金だけ引き抜き、俺に牧場だけ押しつけてきた。
馬に興味がないのはわかっていたし、そうなるかもしれないとは想像していたが、まさかここまでしてくるとは。兄には血も涙もないようだ。
当初は種牡馬も3頭ほどいた大牧場だったが、資金難に次ぐ資金難により縮小させてしまった。
土地や馬を売ったりしてなんとか食いつないできたのが、この現状だ。
結果、最古参以外離れてしまい、一気に弱小の域に全身を浸してしまった。
唯一の救いは、付近の牧場に格安で種牡馬をつけさせてもらっていることぐらいか。本当にありがたい。
なんでも父には恩があるということらしいが、これをありがたく利用しない手はなかった。
……将来的に大種牡馬になるだろう馬もその伝手で格安でつけさせてもらえるとなったときは、流石に驚きすぎたが。
「……ん、そういえば、あの牧場にまた来ないかとお誘いがあったな……」
「そんな話があったんですか。……あそこ、野心家ですからね。お気をつけて」
「ちょっと行ってきます。種牡馬のほうでもできたらまた交渉しようかなと」
電話でアポを取り、例の牧場へ。
北海道新冠町。例の牧場はそこで世界進出を目指しているオーナーが経営しているのだが、これがまた大きい。
のちにパーソロンという大種牡馬を輸入する、といえばわかるだろうか。というか、それは翌年なのだが。
そう、例の牧場というのは
うん、正直びっくりした。
近くにこんな大牧場があるのもそうだし、父がそことも伝手があったのだから。
「お待ちしてました、東さん」
「お待たせしました、と言っておきましょうか。……失礼。ともかく、今日はお願いします、
この物腰柔らかく挨拶してきたのが、シンボリ総帥の岸和田さん。
こうしていると穏やかそうに見えるが、激情家かつ野心家で有名だ。
「さて、行きましょうか」
岸和田さんに連れられ、牧場の放牧地に赴くと、1頭ポツリと佇む幼駒が。
まだ当歳馬だ。が、他にもそれらがいるのに、その1頭は1頭だけでいる。
「さて東さん、いきなりではありますが、ここでひとつ、お話したいことがありまして」
「それは? いったい……?」
「
「なっ……!?」
岸和田さんはさらに笑みを深め、続ける。
「1頭、だけではありますが。その1頭、馬主として走らせてみませんか?」
「え、いいんですか!?」
「はい、もちろん。血統表もこ――」
俺は即座にぽつんと佇む黒鹿毛を指差す。
「あれって、大丈夫ですかね……?」
「……え。あ、ああ、はい。大丈夫ですが。血統表を――」
「じゃああの黒鹿毛の当歳馬、買わせていただけませんか? お値段は?」
「……500万円。この金額で」
「ってか、いいんですか? この金額で……」
「え、ええ、もちろん」
「わかりました。買います」
500万円ならば、まだなんとかなる。
しかもその金額で、あのいかにも走りそうな黒鹿毛を買えるのなら。
迷うという選択肢などない。
というか、実をいうと血統もすでに知っているし、その馬のポテンシャルもある程度わかるのだが。
こうして、俺は黒鹿毛の当歳馬を購入し、牧場に連れ帰ることとなった。
ロイヤルチャレンヂャーを父に持つ忍耐強いその馬は、こちらへの輸送の際も動じていなかった。
スイートインの63。
新冠で産まれたその当歳馬の未来を、
だからこそ、だからこそ。
この
幸い、シンボリの名も限定的に使うことを許してもらったし。