額から首元まで汗が伝う。緊張で体が強張(こわば)る。目の前にいる悪霊の圧倒的な霊力に、体が、心が、危険だと叫んでいる。
僕は心を落ち着かせながら、尻もちをついていた体勢から、悪霊の動きに注意しながらゆっくりと起き上がった。
「ようやくお出ましか、悪霊さんよ。他にも色々拠点があったようだが、お前の本拠地はここだろ?」
ゴーストソードを構えたまま、蓮さんは悪霊に問いかけた。
「...邪魔。あんたに話しかけてない」
悪霊は、風を切るように腕を右に薙ぎ払う。
すると、蓮さんの体が横にバランスを崩したかと思うと、突然その場から消えてしまった。
「え、蓮さん!!??」
「ごめんね〜。あの男、嫌いだったから“飛ばし”ちゃったの。もう生きて帰っては来れないと思うよ。怒らないっでっ、ね?」
胸の前で両手を祈るように合わせて、上目遣いでお願い事をする表情で僕を見上げる。
漆黒の瞳は、男を煽るようにわざとらしく潤んでいるようにも見えて、僕は怒りを抑えられない。
「お前...蓮さんに何をした!!!」
「やだぁ、そーんな怒った顔もできるんだね。怖い、怖いねぇ」
口元を片手で隠しながら、悪霊はクスクスと笑っている。『怖い』なんて言葉、口で言っているだけで心にも思っていないだろう。
悪霊は目を閉じ右手を胸に置き「ん〜、ん〜、なるほどね」と何か小さく呟いている。
「この建物にあった私の霊力...だいぶ減らしたみたいだね。霊力が減ったのを感じる。っと、いうことは、私の能力もある程度バレちゃってるのかな?
ふふ、それなら、今頃あの男が、私の霊力がついた崖まで飛ばされて落下してひしゃげているってのも、分かるかなぁ?坊や。ふふふ」
(蓮さんが...殺された?)
それはない。
蓮さんは僕より遥かに優秀なゴーストファイターだ。僕が事務所に入る前から、数々の強い悪霊を倒してきた、この業界の中では有名な人だ。そんな蓮さんが負けるわけがない。
負けるわけがない...負けるわけがない...負けるわけがない...負けるわけがない...負けるわけがない...負けるわけがない...負けるわけがない...負けるわけがない...負けるわけがない...
「ねぇ、やだっやめて?お姉さんの前で、そーんなにそそる顔したらダメよ?ふふ、坊やにとって、あの男は大切な人だったんだね」
悪霊の笑い声も耳に入らないほど、僕の心は取り乱していた。
何も知らない僕にゴーストファイターとしての戦い方を1から教えてくれたのは、蓮さんだ。
ぶっきらぼうで言葉が荒いこともあるけれど、あの人の元で働けたからこそ、今の僕がある。
どんな強い相手にも決して怯まず臆さず、僕の、憧れの存在。
僕は蓮さんなんかより、ずっと臆病で、ちっぽけな弱い存在。
(あぁ...無理かもしれない...)
蓮さんが勝てないなら、無理かもしれない。
蓮さんが負けるなんて想像がつかなかったから、想像しようとしたことさえなかったから、今まで気が付かなかった。
僕の信じていた人(つよさ)が、いなくなってしまった時、自分はこんなにも立ち上がれないものなのか。
自分の弱さと惨めさに、頬から涙がわずかに垂れて、右手の甲にポトリと落ちた。
『大丈夫だ。私のアジトの調査が終わったら、すぐに春野ところへ向かう。それに、君は強い。安心しろ』
(...蓮さん...)
僕が恐怖で震えていた時、蓮さんが僕の震える右手にそっと手を重ねてくれたことを、ふと思い出した。
あれは、蓮さんらしくない行動だった。
僕が怯えていると、蓮さんはいつも「おい!ビビるな!シャキッとしろ!!」と喝を入れてくる。
僕が仕事で上手くいって、「今日は完璧でした!」と報告した日も、「お前の戦い方はまだまだ詰めが甘いんだよ!」と仕事はこなしたのになぜか説教タイムが始まったこともあった。
そんな蓮さんが、初めて、僕の強さを、嫌味の一つも言わずに、真っ直ぐに認めてくれた。
僕が信頼している蓮さんが、信じてくれた僕の強さを、僕も信じたい。
(まだ、戦える)
あの悪霊は、蓮さんのことで僕が完全に戦意喪失したと勘違いしているだろう。不適な笑みを浮かべながら楽しそうに僕を眺めている。
僕は相手の隙を作るために、わざと弱々しく話を続けた。
「れ、蓮さんが、そ、そんなわけ、ないだろ。こないだの子供といい、この廊下の先からかすかに聞こえる子供の声といい...やっぱり、子供を誘拐しているの...?」
悪霊は僕の問いを聞くと、わざとらしく右手を耳に添えて、耳を澄ますようなそぶりを見せる。
「あ〜、ほんとだぁ。子供の声が聞こえる。じゃあ、もしかしたら、お姉さんは悪いわるーい誘拐犯かもしれないね?」
「...なんで、なんで子供を誘拐するんだ...!」
「えー?それは、子供の霊力が一番エネルギーに満ち溢れているからでしょ。
人間から霊力を吸い取るなら、力が弱くて捕まえやすい上に、エネルギーにも満ち溢れている子供の霊力が一番でしょ?ほらぁ、こういうの“効率が良い”って言うんだっけ?」
「...!!!!」
榎本君の言っていた通りだ。
榎本君はこの悪霊には『人間の霊力が混ざっている』と言っていたが、本当に子供から霊力を吸い取っているようだ。
生き物にとって、霊力は生命の源でもある。
人間から全ての霊力を吸い取れば、吸い取られた人間は死んでしまうだろう。
悪霊は階段の淵に足を組みながら座り、頬杖をついて微笑みを浮かべている。
「もうバレてるなら仕方ないよねぇ。
私の能力は霊力を引っ張り取り出す力。
最初の方は、ごくわずかな霊力しか引っ張り出すことができなかったの。
最初は植物にあるわずかな霊力を引っ張ったり、小さなか弱い動物の霊力を引っ張って自分の霊力と混ぜたりしてね。
知ってるでしょ?可愛い可愛いゴーストファイターさん。能力の強さは霊力の量に応じる。
私が引っ張り出した霊力は私の霊力と混ざり合い、より一層強くなっていったわ。
そのおかげでね」
そう言葉を切ると、悪霊は僕に向かってデコピンのような仕草をする。
「なっ!!??」
すると突如、僕の体は奥まで飛ばされて再び体勢を崩してしまった。よく見ると、足元にわずかながら霊力が付着している。まだ破壊できず残っていた霊力があったようだ。
「ふふふ。こんなふうにね、あなたの霊力をあなたの体ごと引っ張っていろんな場所に飛ばすこともできるようになったんだよ!すごいよねぇ」
笑いながら、悪霊は僕にゆっくりと近寄っていく。
「...子供の...子供たちの霊力を全て吸い取ったら...
死ぬことは...知らないのか...?」
「ん?もちろん、知ってるよ?」
「...すべて吸い取る前に、親元に返す気だった...とか?」
「...坊やさぁ、よくお人よしだって言われない?」
悪霊は僕の目の前まで来て、しゃがんで僕の頭を気持ち悪いほど優しく撫で始めた。
「あぁ、いい子だね。あの男もいなくなって、一人ぼっちなっちゃって。勝てるわけない敵が目の前にいるのに、子供たちを助けるために必死になって立ちあがろうとして、えらいね、いい子いい子。
坊や、きっとあの男に洗脳させられてるのね。
こんな状況になっても逃げないで戦おうとしてるのも、どうせあの男が、そう教えたんでしょ?
可哀想に可哀想に、でもね、お姉さん、気持ち分かるよ?
弱い生き物は強い生き物に従って生きていくしかないもんねぇ。だからずっとあの男の考えに、行動に、自分の気持ちは押し殺して従順にしてたんだよね?
ああ、なんていい子。本当に弱くて惨めでいい子だね」
悪霊は僕の頭を撫で、そのまま下に流れるように頬から首筋までを優しく撫で回す。
「ねえ、坊や。死にたくないよね?ずっーーと私のおもちゃとして生きるなら、殺さないであげる」
(...そんなこと、受け入れられるわけない...!!)
僕は悪霊に気づかれないように、音を立てずゆっくりとゴーストシューターを取り出そうとする。
が、すぐさま腕を掴まれ、ゴーストシューターを奪われてしまった。
「あぁ〜可哀想に。大切な拳銃が取れちゃったねぇ?どうしようねぇ、もうなーんにもできないよねっ?
どうしてこんな酷い目に遭うか分かる?
弱いなら自分のことだけ考えて生きていれば良かったんだよ?子供を守ろうとか、他人のために生きなければこーんな酷い目に遭うことはなかったのにねぇ。ほーんと坊や、馬鹿で面白い!!」
僕から奪ったゴーストシューターを片手に持ちながら、悪霊は高らかに大笑いしている。
...笑っている。そう、この悪霊はいつも笑っている。
隙だらけのように見えて、いつも隙がない。
でも今は、僕の武器を奪い、完全に油断して大笑いしている。
(...今だ...!!!!!)
僕の榎本君が発明した『失敗作』を悪霊に突きつけた。