一日一錠、就寝前に服用。睡眠薬ベンゾアントリアチル。主な副作用、夢を見やすくなること。個人差あり。他には腹痛、頭痛、発熱など。用法用量は正しく。
桜が舞っている。美しい桜並木。少年の背丈の倍以上もある位置から、つぼみが見下ろす。咲き誇る桜の花弁が全て鮮明に見えている。少年は写真を撮る。そうだ、と彼はそこでハッとする。僕は、写真を取りたかったのだ。桜の写真。一眼レフを向けて、シャッターを下ろす。実物で見るよりも美しい桜の輝きが、そこに写っている。幸運。そう思った少年は口を緩ませる。上手く撮れた、と自分で思うのは久方ぶりのことだったから。
少年の周囲にいる人々も桜を仰ぎ見ている。ふいに誰かの声が聞こえる。「この桜は、ソメニヨルノと言うんだ」。少年は眉を潜ませる。そんな名前の桜があっただろうか、と。いや、そんな訳が無い。似ているが、違う。必死に少年は思い出す。ああ、そうだ。
「ソメイヨシノ」
自らの声で、少年は目を覚ます。枕元に置かれた錠剤。睡眠薬、ベンゾアントリアチル。数ある睡眠薬の中でも、効力は弱い部類。あまり話題に上がることもない。それでも、少年はその薬を愛用していた。ひとえに、副作用の”夢”による理由で。説明には詳細に書かれていないものの、服用者が見る夢は恐らく当人の望んだものを再現している、と少年は直感していた。検査機器や被検体がいるわけでもないので、検証もないただの体感でしかないが。
ともかく、望んだ夢を見ることができる、という眉唾物の効果が一部で人気になっている。表立って話題になっていないのが不思議なくらいだが、少年は深く気にしなかった。
時間を見ると登校時間だった。憂鬱な気分になりながら、彼は支度を始める。学ランに袖を通して、中学まで歩いて向かう。そのまま真っすぐと教室へ。自分の席まで来たところで、少年は目の前の状況を理解する。机に置かれた花瓶。そこに添えられた一輪の花。少し下に目をやれば、吐瀉物にも見えるグロテスクな液体が撒き散らされていた。それが先日の給食の残飯だと理解するには少しかかった。臭気に顔を歪ませる。朝の予鈴が鳴る。音も歪んでいる気がする。うねった音を聞きながら、少年は席に座る。担任は何も言わない。閉口。これが、少年にとっての日常。足に滴る液体を避けながら、花瓶越しに虚ろな瞳を向けていた。
「トンボ」
体育の授業の傍ら、少年は名前を呼ばれて振り返る。トンボ。空っぽな響きを発したのは、並んだ四人のうちの一人。リーダー格の佐野。少年は睨むわけでもなくじっと端から確認するように見ていった。小柄で目つきがきつい今田。長身で顔が整っている日村。筋肉質な体格の佐野。いつもヘラヘラと笑っている浜川。いつもの四人組。その様子が気に食わなかったのか、佐野が声を上げる。
「きっめぇ! ジロジロみてんじゃねぇよ。さすがトンボだな、おい、おいなぁ。虫の分際で人間様と張り合ってんの?」
けらけらと、周りの三人も同調するように笑っている。”トンボ”。それが少年のあだ名だった。写真趣味だからか、レンズになぞらえて最初は虫の目、次はトンボと段々とあだ名が変わっていった結果だ。まず佐野が腹を殴る。軽く友達にどつくみたいなのに、あまりにも強い力で殴る。咳き込み、少年はその場に崩れ落ち膝をつく。トンボの羽をむしるように、二人が少年の腕を抑え込む。佐野が腹を蹴り上げる。日村も蹴り上げる。「一番キモい顔の写真撮れたやつが勝ちな!」佐野がよく提案することだ。少年の趣味であるカメラが、嫌になるように。彼らはわざわざ少年の写真を撮る。フラッシュを焚いて、カメラを意識させる。殴ると同時に撮る。蹴り上げると同時に撮る。そうやって、刷り込みをしていく。撮影、という行為に嫌悪感を抱くように。
少年は空を仰ぎ見る。舞ってもいない桜を錯覚するように、彼は遠くを見つめる。ああ、今日は、優しい夢が見たいな、なんて。そんなことを思いながら、桜のごとく血を飛ばす。
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一日一錠、就寝前に服用。ベンゾアントリアチル。主な副作用、夢を見やすくなること。用法用量は正しく。
教室に立つ。誰もいない教室。血が、流れている。教室の一部が、真紅に染まっている。彼岸花を咲かせたかのように広がるそのシミを少年は見つめていた。だが、動きはない。無視をして、席に座る。誰もいない。やがて人が入ってくる。ぞろぞろと、でも、音がない。恐ろしいほど静かに、そして無駄のない動きでみんな席に座る。顔が、見えない。太く二重線が引かれているみたいに、顔が塞がれている。予鈴が鳴る。唸るように、歪んだ音が鳴る。低く、湿ったような音。やがて教師が入ってくる。顔が塞がれている。
「始めます」
「はーい!」
教師の呼びかけに、少年だけが素早く軽く答えた。少年から等間隔に咲いている、血染めの彼岸花。数は、四席。今■、佐■、■村、■■。元々は、その四人が座っていた席だ。だけど、彼らがいないことを誰も気にしない。
「一時間目は、『写真』です。遅れないように」
場面がすぐさま転換する。夢にありがちな異常な現象。明晰夢ではない。少年は、異常現象を意に介さずカメラを携える。自慢の一眼レフ。海を撮る。海の中を撮る。遠くにクジラが見える。優雅に泳ぐその姿は、少年にはあまりにも魅力的に見えた。手繰るようにして、その光景を手元へと引っ張ってくる。なかなかやって来ない景色がもどかしく、彼は何度も海水を殴りつけるようにして空間を掴む。どうかして、目の前に先程のクジラを持ってくる。カメラを構えて、シャッターを撮る。ああ、なんて美しい。少年の顔が綻びる。こんな光景は撮ったことがない。もう一度。二度と撮れないかもしれないこの景色を。ためらわず少年はシャッターを下ろす。
「え」
カメラに写っていたのは、人だった。ボロボロの人。泣いている。ふと見ると、少年が握っているものが違う。一眼レフではない。スマホのカメラ。撮影した写真から、フラッシュを焚いていることがわかる。その光で場面が転換した。少年は、視線をスマホから外して前に向けた。
「は?」
今田だ。いじめっ子の一人。傷だらけ。状況から見るに、やったのは少年。ああ、そうか。少年は明晰夢を自覚する。これは、僕が望んだことだ。あの四人の誰もいない世界。その夢を見ている。きっと、あのいじめの写真大会で今田が優勝したからだ。今日は一番、今田が憎たらしかったのだろう。まるで遊びに飽きた子供のように、少年は目の前の光景への興味が失せていた。そのまま、教室へと向かう。そうだ、教室。早く、向かわないと。
「始めます」
唐突に、場面は切り替わった。朝のホームルーム。夢の最初でも見た光景。少年は、目を瞬かせている。”目が覚めた”。色味も至って普通の、明晰夢でもないただの現実。眉間を抑えながら、少年は思い出す。
(僕は、どうやってここまで来たんだ……?)
朧気な記憶。朝起きてから、支度をして、学校まで向かう。その過程が、どうも思い出せないようだ。あるいは、思い出せるが、それが今日のものとは思えない。昨日の夕飯を思い出そうとして二日前の夕飯を思い出してしまうように。少年は、思い返しているその光景が、今朝のものとは確信が持てないようだった。淡々と授業は進んでいく。夢の中で血に塗れていた四人の席も通常通り。ボロボロになっていた今田も普通だ。
「一時間目は国語です。遅れないように」
教師はそれだけ言い残し、ホームルームは終わる。同時に、佐野が少年の前までやってきて、彼を教室から連れ出した。トイレへと連れ出される。いじめが始まる。罵声を浴びせ、殴る、蹴る。いつも通りの写真大会が始まる。一時間目の予鈴が鳴ると、誰か一人だけが教室へと帰っていく。残り三人はその場に残る。また始まる。やがて飽きる。一時間目が終わり、小休憩の時間。ようやく、少年は解放された。腹を抑えながら、その場にうずくまる。胸元に感触があった。軽い。厚紙のような、薄いプラスチックのような。取り出すと、あの薬だった。睡眠薬だ。ベンゾアントリアチル。
二時間目には間に合わない。一段と強く殴られたらしい。少年は、トイレの個室から一歩も動く気配がない。効力が弱い睡眠薬。それが、ちょうどいい。一時間だけ寝よう。少年は、それを口に含んだ。
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一日一錠、ベンゾアントリアチル。夢を見やすくなる。用法用量は正しく。
山を登る。紅葉が美しい秋の山。落葉を横目に、少年は頂上を目指す。不思議と息は上がらない。足も重たくない。まるで平地を歩いているかのように、彼はどんどんと奥へ進んでいく。撮影スポットを探して、高く、見晴らしのいい場所へ。高所の澄んだ空気を吸い、深呼吸。彼が振り返ると、まさに追い求めていたような景色。絶好の撮影スポット。カメラを構える。一枚、撮影する。満足気に、少年は顔を緩ませた。まだまだ、いい場所はある。彼はそう直感して、山を探索する。後は、もっとディティールの細かい写真を。木漏れ日や虫。樹の実などをカメラに収めながら、探索していく。枯れ葉を蹴り飛ばす。そして探す。先程の写真を超える、最高の一枚を。夕暮れ。日が傾いてきた。夕焼けを撮ろう。そう思い、彼がカメラを向けた頃には、すでに日が山の向こうへ行こうとしていた。待ってくれ。小さく叫びながら、少年はシャッターを下ろそうとする。邪魔だ。山が邪魔だ。いつの間にか、少年が見ていた山は、大きな枯れ葉の塊になっていた。遠近法ですげ代わり、真正面に枯れ葉の山が積み重なっている。思いっきり、少年はその山を右手で払った。
「痛っ……」
バサバサ、と音を立てて机の本と小物が落下する。自宅の、自室。窓の外を眺める。暗い。夜だ。反射で窓に映る少年の顔は、どこか少し憔悴していた。思い出す。少年は、またも朧気な記憶を引っ張り出す。あの後、仮眠を取ってから授業に参加した。休み時間に入るたび、いじめはあった。それでも、痛みはあまりなかった。ベンゾアントリアチルに鎮痛作用でもあったのかもしれない。そう結論づける。時刻を見ると深夜の一時。そろそろ寝なければ。少年は、ベッドに腰を下ろした。おもむろに、薬を取り出す。
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一日■錠、ベンゾアントリアチル。夢を見る。用法用量は正しく。
月が大きい。いつもより、ずっと地上に近い位置にある。肉眼でもクレーターを確認できるほどに、近い。月明かりが降り注ぐ。月光浴を楽しみながら、少年は街を歩く。夜目が利く。月明かりが強いからか、昼間とすら思えるほど、周囲は明るかった。それでも、日光とは違う。柔らかい光が空間を満たすようにして、照らしている。行き交う人とすれ違う。顔が塞がれている。太い二重線で、目元と口元が隠されている。その人だかりの中で、二重線のない人間が居た。少年と同じくらいの背丈。今田か、佐野か、日村か、浜川か。ともかく、そのうちの誰かだということだけはよく分かる。少年は踵を返して、彼らを追いかける。どれだけ走っても、追いつけない。追いかけなければいけない。少年はそう直感していた。この世界は、少年の望んだ夢の世界。異物は許されない。
「一時間目は『写真』です。遅れないように」
教師の声がどこからともなく聞こえてくる。唸るようなチャイム。場面が転換する。土手の上。秋頃の川辺が見える。黄金色の草が生い茂る場所。そうだ、写真を撮りたかったんだ。先程例の四人がいたことも忘れて、少年はカメラを構えた。写真を撮る。トンボが飛んでいる。無数のトンボが、草木の間を縫うようにして飛んでいる。その様子も撮る。気づけば、少年は川辺に降り立っていた。砂利を踏みながら、今度は土手の方へ向かってカメラを構える。トンボを採取している子どもたちがいた。二人の子供が無邪気に羽をむしって遊んでいる。
少年の顔色が変わる。レンズを覗くときの優しい目ではない。無だ。ひたすらに、何もない。その子どもたちに向かって、空っぽな視線を浴びせていた。少年は、静かにカメラを向けた。そしておもむろに、シャッターを下ろす。
「ああ」
少年の目には、スマホの画面越しにその光景が映る。人が写っている。二人。日■と■■。身体が濡れているようだった。また、この光景だ。少年はおもしろがって、もう一枚撮影する。全身が濡れて、少したりとも動かない日■。同じく全身が濡れているが、関節がありえない方向へ曲がって硬直している■■。少年は、これを夢だと認識している。階層のようなものだろうか。彼はそう考察する。夜の土手にいたときの夢が、より深い夢。今が浅い夢。服用者の望みの強さでも変わるのかもしれない。そんなことをぶつくさとつぶやきながら、少年はさらに写真を撮る。
「あ」
少年が声を発すると、何もないところで彼は転んだ。景色が大きく回転すると同時に、また”目が覚める”。暗くなってきた空を見上げる。誰かが少年の腹を踏みつける。筋肉質な脚。無反応に、少年は彼を睨みつける。佐野。周りに今田、日村、浜川。彼ら三人とも、カメラを向けている。少年に向かって、笑いながら。
「おい、トンボ」
「なに」
少年は空虚な声で応える。それが癪に障ったのか、佐野はもう一度強く踏みつける。
「スマホ、よこせ」
「それは、困る」
何が困るのか、大して考えもせず少年は言っていた。ただ、困るとだけ。それでも抵抗は虚しく、彼のスマホは佐野に渡った。ロックがかかっている。佐野は少年の顔にその画面を向けて、無理やりロックを解除する。中身を見ようとしたところで、少年が取り返そうと腕を伸ばす。空を切り、佐野の蹴りが彼の腹に直撃する。怯まず、少年は佐野の腕を掴む。振り払うより早く、佐野はスマホを落としてから踏みつけ、画面を割った。それから、大振りで少年を殴り飛ばす。気味の悪いものを見るかのように、侮蔑の視線を送りながらその場を去った。うずくまる少年は、這いずりながらスマホを回収する。電源を押しても開かない。そっと、ポケットにしまう。
「帰ろう……」
自分に言い聞かせるようにするが、少年は立ち上がれない。寝そべったまま、スマホの隣に入っていたものを取り出す。ベンゾアントリアチル。効力は弱い。眠りこけることはない。ほんの少し眠るだけ。昇り始めた月に錠剤を重ねるようにして、そのひと粒を掲げる。夜を飲むようにして、服用する。
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一日■錠。用法用量は正しく。過度な服用による健康上の問題はありません。
少年は自室に立つ。窓から外を見ると、月が見える。相変わらず、大きな月。降り注ぐ月明かりが、地上を照らす。まるで、水底に差す陽光のように。少年は外に出る。弾むようにして、コンクリートの上を進んでいく。相変わらず、人々には二重線が貼られている。顔が塞がれ、表情の一つも見えない。それでも、少年には”何か”がわかるようだった。目は見えないのに、時折視線を交わして会釈をする。なにもないただの街。現実とほとんど変わりのない、普通の街。
「一時間目は『写真』です。遅れないように」
また、教師の声。周囲をみてもその姿を確認することはできない。ほぼ同時に、唸るようなチャイム。しかし、場面は転換しない。そのままの場所で、少年は立ち尽くす。そこで、ようやく気がつく。一眼レフがない。自慢のカメラ。
「……どこに置いたんだっけな」
思い出せない。いや、正しくは深く考えようとしていなかった。すぐにどうにか見つけ出せるという浅はかな自信か、あるいはもう見つからないだろうという諦念か。どちらにせよ、少年はあまり深く考えず、街を歩き始める。顔の塞がれた人々。やはりその中で、一人だけその線が貼られていない人がいた。佐野。たった一人だけ。夢の異物。相変わらず、少年は後を追いかける。どこかへ向かっている。いや、学校だ。すぐに少年は気がつく。通学路は様々だが、方角的にあるものと言えば中学校ただ一つ。細い路地。いつの間にか、誰もいなくなっていた。近くの小川の音だけが虚しく響いている。
「一時間目は『■■』です。遅れないように」
唐突に、チャイムが鳴る。唸る。音が重なる。警鐘かのように鳴り響く。あまりにもうるさい。少年は、音を振り払うように手を振った。あちらこちらに、まるでめちゃくちゃなダンスを踊るかのように。そして、誰もいなくなる。音に気を取られている間に、佐野は姿を消す。
「どこに行ったんだ……」
だが、やはり深くは執着しない。夢だからか、少年は呆けるようにしてその場に立ち尽くす。何もなくなった空間から聞こえてくる、耳鳴り。不快なその甲高い音は音量を増していき、それから、”目を覚ます”。
ベッドの上。すでに、家に帰った後。また、朧気な記憶を引っ張り出す。佐野に殴られ、うずくまり、仮眠のために薬を飲んだ。それから、起きて、ふらふらと家に帰り、疲れ果てて眠りについた。少年は、再度睡眠薬を取り出す。深夜に目覚めて、やることなどない。朝まで寝てしまおう。人思いに、手のひらに載せた錠剤を飲む。
□□□
一日■錠。用法用量は正しく。過度な服用による健康上の問題はありません。通常の睡眠薬と同様の副作用が挙げられます。せん妄、記憶障害、眠気、ふらつき、依存など。
月明かりが照らす。外に出る。玄関先にいる、何人かの顔が塞がれた人。塞ぐにようにして、出られそうにもない。少年は、諦めて部屋へ戻ろうとする。そこで、そのうちの一人が彼の手を掴んだ。顔が塞がれているから、例の四人ではない事がわかる。それなら、これは誰なのか。少年は頭を回転させる。けれど、結局はどうでもいいという結論に落ち着いて思考を止めた。そのまま腕を引かれ、どこかへ。
「一時間目は『■■■■』です。遅れないように」
聞き取れない部分が、いつもよりも長い。そして、やはりチャイムが鳴る。”目が覚める”。目の前には、教師。思い返す。朝起きて、外にでたら教師がいたのだ、と。いじめの件について何かを聞きたいようだった。いまさら、教師ぶるのか。半ば呆れながら、少年はそのままついて行ったのを記憶している。
「なんですか、先生」
連れてこられた小さな部屋で、少年は無愛想に返す。めげず、教師は質問を飛ばす。けれど、少年にはどうも届いていないようだった。適当に相槌を打って、聞き流しているだけ。それがよほどストレスなのか、教師の語気も段々と強くなっていく。耐えかねて、少年は小さく手を上げる。
「少し、お手洗いに行ってきます」
それだけ行って、少年はその場を去る。あのような場所にはいられない。個室へと入り、薬を取り出し、口へと含む。トイレの流れる音がする。意識が水の渦に巻き込まれるように、落ちていく。
□□□
一日■錠。
予鈴が鳴る。大きく、だが歪んでいない。すっと耳に入ってくるその音を聞きながら、少年は深く椅子に腰掛ける。教室を見渡しても、誰もいない。それが、心地良い。誰かが入ってくる。教師。あらゆる惨事を無視してきた、あの教師。
「一時間目は……」
「ありません」
少年が、教師の言葉を遮る。これまで見たことがないほどにこやかに、彼は続ける。
「あなたの授業は不要だ。僕の夢には、いらない」
「……『■■』の時間です」
「断ります。”それ”は、僕にはいらない」
その言葉を最後に、教師は沈黙の末消失した。ぱっ、とろうそくの火が消えるかのように。少年は、外を眺める。桜が舞っている。美しい桜並木。つぼみ。鮮明に見える花弁。少年はカメラを構えない。ただ、食い入るようにその桜を見つめる。この桜は、どんな名前だったかな。少年は、少しばかり考える。
「ソメニヨルノ」
ああ、そう言えばそうだ。そんな名前だった。窓を開き、一人納得しながら、舞い散る桜をつまみ上げる。
あるサークルへ寄稿した小説です。テーマは蛸壺。タコは、進んでその壺に自ら入り、出られなくなります。怖いですね。出不精の私にも似ています。いつか、私も引き揚げられるのかもしれません。