「せんせい…んぅ…せんせぇ…ッ」
暫く会っていなかった教え子が、自分の胸に体をぐりぐりと押し付けている。
真っ暗な部屋の中のベッドで、少女に強く抱き着かれている状況。
男が離れようとしても、栗色の髪の少女はそれ以上の力で抱きしめてくる。
「やだ…やだッ…」
まるで幼子のように駄々をこねて離れるのを否定する。
「あたま…撫でてください」
もはや成す術なしである男は、言われるがまま少女の頭を撫でることにした。
「ぁ…えへ…なでなで、すきです」
一体どれくらいの時間が経過したのだろうか。
頭を撫でられて陶然としている少女は先より強く男を抱きしめ、自分という存在を刻むために体を押し付けた。
こうした状況になった経緯を説明するには、少し時間を巻き戻す必要があった。
__して、昨夜言っていた「瞬光がヤバい」とは何事であるか?
儀玄が部屋に来た次の日。
男と儀玄は朝食を食べつつ、昨夜儀玄が話していたことの詳細を聞くことにした。
男の頭には一瞬、青溟剣のことが過った。
彼女は今、剣棺の調整のために山奥で修行中のはず。
…いや、それなら儀玄はこんな悠長なことはしていない。
「何から説明するか…まず、瞬光はお前が衛非地区を旅立った少し後に定期報告のために帰ってきていたんだ」
未だに剣棺は調整中であるため、瞬光は定期的に適当観に報告しに帰ってくるのは知っている。
実際に男もその場に同席し、剣棺についての改善案をいくつか提案していた。
「それで帰ってきた瞬光がお前を探していたから、『あいつは出て行った』と伝えたわけだ」
__ほぉ。聞く限りヤバい、というのは青溟剣関連ではないのだな?
「違うな。いや、最悪関わりそうではあるが…主な原因はお前だ」
…自分が?
男の反応を見た儀玄は、一つため息をついてまた説明を再開した。
「それを聞いた瞬光の様子が明らかにおかしくてな…何を聞いても上の空だし、帰った後も何をしているか」
「それでも、数日は適当観に顔は出していたんだ。しかし、一昨日から顔も出さなくなった」
「今は適当観の近くにある家に居るはずだが…釈淵によると部屋から出てこない、と」
成程。
自分が居ない間に随分な状況になっているらしい。
とはいえ、あの瞬光が部屋から出ないとは…一刻も早く様子を直接確認する必要がある。
手早く朝食を食べ終え、外出用の準備をする。
準備と言っても、男に必要なのは常に装備している鎧とまあまあの業物である剣くらいなものだが。
男が鍵を閉めて玄関を出れば、儀玄はもう既に外で札を持って待っていた。
「術法で送ってやる。私がこっちで少し用があるから後で行くが、もしもの時は頼んだぞ」
男は無言で頷き、やがてくる包み込まれるような感覚に身を任せることにした。
しばらく何かドロッとした液体状のものに流されるような感覚が続いた後、やがてそれがさっぱりとなくなるのを男は感じた。
眼を開けてみると、既にそこは適当観の中だった。
一か月程度ではたいして変わりもしないが、適当観に居た福福には挨拶しておいた。
儀玄から聞いていた住所に行くと、葉釈淵が建物の前で待っていた。
「お久しぶりです、先生」
彼は深々とお辞儀すると、ふたたび男の眼を見据えた。
男も同様に釈淵の眼を見つめていた。
__少し休め。寝ていないだろ。
「しかし…」
上手く隠れてはいるが、その目の奥には焦燥と心配が確かに潜んでいる。
彼は何かを言おうとしたが、口をつぐんで再び頭を下げた。
「…いえ、申し訳ありません。少し休みます」
「兄として…本当に不甲斐ないばかりですが、妹をよろしくお願いします」
__なに、我如きの手であれば幾らでも貸す。むしろ頭を下げるのはこちらの方だ。
男は釈淵の肩に手を置き、優しく抱き留めた。
彼を自身の部屋へと送ると、男は彼に教えてもらった瞬光の部屋の扉の前へと辿り着いた。
さて、応じてくれるだろうか。
コンコン
__瞬光、我だ。
………
ガチャ
思いのほか、重苦しく見えたドアはそんな音共に容易く開け放たれた。
しかし、一つ予想外なことがあったとすれば…
「いらっしゃい。先生?」
出てきた教え子が、白くなっていたことだろうか。
男と少女は、部屋にある小さなテーブルと椅子に座り対面していた。
部屋は真っ暗。女の子らしい部屋ではあるものの、少しだけ荒れた形跡がある。
__それで、誰だ?
男は目の前の白い教え子に単刀直入に聞くことにした。
教え子と言っているが、彼女は男が知っている葉瞬光ではないことは確かである。
しかし、別の人格というのも違うような気もする。
「アタシはあの子の一部。あの子が認めようとしないもう一つの「私」。それでいい?」
__おおよそは。立て続けで申し訳ないが、今君が表に出ている理由は?
彼女の言う「瞬光の一部」という説明には納得がいく。
完全な別人格というには、目の前の瞬光が「瞬光らしく」あったからだ。
「あの子が今弱ってるからアタシが表に出てあげてるの。あの子ったら、みんなの前では無理して取り繕ってるくせに、一人になったらずっと泣いてたんだから」
「『先生に嫌われちゃった』『私がダメだから先生は私を捨てた』…なんて。ずっと自分のことを責めてるものだから、暫くアタシが表に出てあの子を休ませてるってわけ」
__それは…
「でも、もうそろそろ代わってもいいかしらね。だってあの子の愛する先生が来たんだから」
白い瞬光は席を立ち、男の耳元でそっと囁いた。
「あの子のこと、お願いね?愛しのセ・ン・セ・イ?」
そう言うと、瞬光の体はふっと力が抜けたように倒れこんだ。
男は咄嗟に瞬光を受け止め、両手で抱える。
見る見るうちに瞬光の姿は白色からもとの栗色の髪の毛に戻っていき、やがて完全に元の姿となった。
「…んっ、私…何してたんだっけ…」
元に戻った瞬光が、目を擦りながらその赤い瞳を開けた。
やがて自分のことを抱き留めているのが男だと分かると、その目を大きく見開いた。
「せ、先生!?」
__起きたか。体調は「ごめんなさい!」
男の事を認識するや否や、瞬光は男に縋り付くようにその身を預けた。
「ご…ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい…」
呪詛のように謝罪の言葉を述べ続ける瞬光。
__瞬光、落ち着け。
「ごめんなさい、ごめんなさ…けほッ、けほっ」
目の前の瞬光は明らかに異常だ。その瞳は男のことを見ているようで、見ていない。
__瞬光!
男は瞬光の肩を掴み、じっと自分に目を向けさせた。
「ぁ…」
別の何かを見つめていた瞬光の眼が、自分のことを見始めた。
「せ、せんっ、先生…」
やがて、瞬光の眼からぽろぽろと涙が流れ始めた。
「先生っ!せんせぇっ!」
再び瞬光は男にしがみついた。
先の弱弱しい縋り付くようなものではなく、力強くこちらを離さんとする抱き着きだった。
「私、先生に嫌われちゃったと思って…約束破って先生がッ…」
「どうしたら、先生に嫌われませんか?なんでも直しますから、嫌わないで…」
瞬光は男の体に顔を押し付け、嗚咽を漏らして言った。
男は瞬光を落ち着かせるべく、背中を優しくなでつつ彼女を諭すことにした。
__我がお前を嫌うことなどあるものか。なにがあっても、我はお前の味方だ。
「でも…先生、適当観の先生を辞めたって…師匠が」
__事実ではあるが…
男がそう言った瞬間、ようやく落ち着いていた瞬光が急激に打ちひしがれたような顔になる。
「や、やっぱり私が嫌いに…」
__ち、違う!アレは儀玄と我の間に誤解があったのだ。我は今度から雲嶽山の一員として活動することになった。
「え…?」
「まだ、先生といっしょに修行できるんですか?」
__ああ。定期的に指導することになっているから、下手すると今までよりも、な。
瞬光はしばらく固まっていたが、情報を処理し終えたのか、ふにゃっと力が抜けたように男に寄りかかった。
「…よかった。私、先生に嫌われたのかと」
__勘違いさせて申し訳ない。何かできることはあるか?我にできることなら、なんでもしよう。
瞬光の耳が、ピクっと跳ねた。
「…なんでも?本当になんでもですか?」
__できる範囲で、だが。
…といういきさつで、男は瞬光にベッドで抱かれている。
抱かれている、というのは抱き着かれているという意味で、決して彼が教え子に手を出したというわけではない。
それにしても、この状態になってからの瞬光は非常に甘えているというか、なんというか新鮮である。
男の時間感覚が正しければ、およそ3時間ほどこの状態でいる。
さすがにそろそろ離して欲しいと瞬光に言ってみれば、彼女は頬を膨らませてもっと強く抱きしめる。
「ダメです…せんせいはずっと私とこのままぎゅーするんです…」
……
男はこの後、夕方になって様子を見に来た儀玄と釈淵に救出されるまで離してもらえなかったという。
おわり