1 プロローグ
【日時】2004年 2月某日 14:00
【場所】英国・ロンドン 時計塔本部 全体基礎科(トランベリオ)大図書館
鉛色の空から絶え間なく降り注ぐ冷たい雨粒が、何百年もの歴史を刻む分厚いステンドグラスを執拗に叩き続けている。館内に漂うのは、古びた羊皮紙の匂いと、雨に濡れた外套が発する湿ったウールの匂い。そして、魔術師たちが無意識に漏らす、微弱だが濃密な魔力の残滓だった。
その静寂と喧騒が入り混じる空間の片隅、窓際の目立たない席で、竜胆茜は一人、本を開いていた。
黒髪をゆるく遊ばせ、黒いゆったりとしたTシャツに身を包んだ彼は、中性的な顔立ちと半眼の黒い瞳のせいで、どこか気怠げな印象を与える。口元には甘い香りのする棒付きキャンディが無造作に咥えられており、両耳で光る黒いピアスが、時計塔という厳格な場において彼を「少しばかり不真面目な凡庸な生徒」として彩っていた。
「…………」
ページを捲る指先の動きは、極めて静かだ。
周囲の生徒たちは、彼をただの背景、あるいは風景の一部として認識し、視線を滑らせていく。
それも当然である。茜の脳内に構築された仮想魔術刻印――疑似魔術基盤(フェイク・ファウンデーション)の最深層、Tier 0《可変存在解像度(モザイク・シフト・マニュアル)》。
潜伏90%、接続9%、実行1%。この乱数スイッチングが常時稼働し、彼という存在を世界から見た「自然なノイズ」として誤認させ続けているのだから。
(……このページの記述、魔力伝導の基礎理論におけるエネルギーロスの計算式。意図的な欠落が3箇所。……いや、違う。この時代の魔術理論の限界か。……まあ、僕には関係のないことだ)
『解析(アナライズ)』。
彼の半眼の瞳は、世界を単なる光景としてではなく、万物の「構造」と「因果」の集合体として捉えている。
脳内ではL4層《環境並列演算網(レイライン・ボットネット)》が静かに稼働し、ロンドンの地下を走る霊脈の微小な揺らぎを計算資源として間借りしながら、図書館中のあらゆる事象を演算し続けていた。
しかし、その圧倒的な演算能力の果てに導き出されるのは、彼自身の極端に低い自己評価だけだった。
(僕みたいな数合わせが、こんな歴史ある場所にいること自体が間違っている。ただの観測者だ。それ以上でも以下でもない)
キャンディの棒を軽く噛み、自嘲気味に息を吐く。
彼にとって、自分は常に「背景」であり、主役を張るような人間ではない。誰かのために泥を被ることはあっても、賞賛を受けるような器ではないと、心の底から思っていた。
「――そこに座っているのは、ただの幻影のつもりか? ミスター・リンドウ」
不意に、安物の葉巻の匂いが鼻腔を突いた。
茜がゆっくりと視線を上げると、そこには不機嫌そうに眉間を寄せた長髪の男が立っていた。
黒いコートを羽織り、常に胃痛を抱えているかのような渋面を作る男。ロード・エルメロイⅡ世。
「……何か御用でしょうか、エルメロイ教室のロード。僕はただの全体基礎科の一生徒ですが」
茜の返答は、感情の起伏を一切感じさせない、静かでフラットなものだった。
「その『ただの生徒』という仮面が、いつまで通用すると思っている?」
エルメロイⅡ世は葉巻を携帯灰皿に押し付けると、茜の向かいの席にどさりと腰を下ろした。その鋭い眼光が、茜の飄々とした外見を射抜く。
「君が時計塔に来てから、まもなく学科選択の期限を迎える。全体基礎科に留まることは許されない。それは規定で決まっていることだ。……だが、君の提出した成績表とレポートには、酷く奇妙な点がある」
男の言葉に、茜は微かに目を細めた。
「奇妙、ですか。僕は全てのテストにおいて、赤点ギリギリの可もなく不可もない点数を取っているはずですが」
「それだよ。それが異常なのだ」
エルメロイⅡ世は、懐から数枚の羊皮紙の束を取り出し、机の上に放り投げた。
「実技、筆記、魔力測定。全てにおいて『極めて自然な下位の成績』。まるで事前にすべての評価基準と他者の成績を完全に把握し、自らの点数を『目立たない最下層』に寸分違わず着地させているかのようだ。魔術とは不確定要素の連続だ。これほどまでに美しい『底辺の安定感』を叩き出すのは、逆説的に言えば、君がすべての事象を完全にコントロール下においている証明に他ならない」
(……『確率偽装(プロバビリティ・マスキング)』の出力調整をミスしたか。不自然さを消すためのブレが、逆に統計学的な異常値として彼に検出された。……やはり、僕の演算は完璧じゃない。大したことないな、僕なんて)
茜は内心で己の「失敗」を分析しながらも、表情の筋肉をピクリとも動かさず、ただ静かに相手を見つめ返す。
「買い被りです。僕は本当に、魔術の才能がないだけの凡庸な人間ですよ。だから、こうして目立たないようにしているんです」
「……凡庸、ね」
エルメロイⅡ世は深くため息をつき、腹の底を探るような目つきで茜を見た。
(なんだ、この不気味な感覚は……)
エルメロイⅡ世は、目の前に座る中性的な青年を観察しながら、背筋に冷たい汗が伝うのを感じていた。
魔力回路の質、魔力放出量、どれをとっても底辺の生徒にしか見えない。だというのに、彼の本能が、かつて第四次聖杯戦争で相対した英霊たちと対峙した時に似た、得体の知れない「深淵」を警告しているのだ。
まるで、全てを吸い込むブラックホール。
表面は何も見えない暗闇だが、その奥には世界の法則すらも捻じ曲げる特異点が潜んでいるような感覚。
「……まぁいい。私は君を問い詰めに来たわけではない。ただ、君のような『意図的に世界の解像度を下げている者』を放っておくほど、時計塔の派閥争いは甘くないぞ、と言いに来ただけだ。特に貴族主義(バルトメロイ)の連中が君の『美しい底辺』に違和感を抱くのも時間の問題だろう」
エルメロイⅡ世は立ち上がり、コートの裾を翻した。
「自分の身の振り方は、自分で考えることだ。……もし、まともな居場所が欲しくなった時は、私の教室の門を叩くといい。君のその隠し持った、世界を書き換えるような眼を、無駄にはしない環境を用意しよう」
それだけを言い残し、男は足音と共に図書館の奥へと消えていった。
「…………」
残された茜は、再び無言で魔術書に視線を落とす。
キャンディの棒を指で弄りながら、彼のL3レイヤー《確定未来の選別(ルート・セレクション)》が静かに起動し、数秒先の未来分岐をスキャンし始める。
(エルメロイⅡ世。彼の洞察力は僕の隠蔽を部分的に突破した。面倒だ。実に面倒だ。僕はただ、平穏に端っこで生きていたいだけなのに)
しかし、彼の奥底に眠る静かな善性は、男の「世界を書き換える眼を無駄にしない環境」という言葉に、ほんのわずかながら反応を示していた。
(僕にそんな価値はない。……でも、もし僕のこの異常な能力が、誰かのための『背景』として役に立つのなら……)
窓の外では、ロンドンの冷たい雨が、変わらず降り続いていた。