境界の観測者 ―時計塔の特異点―   作:りー037

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【第九片】購買部の瑕疵と、煙草の香る特異点

【日時】2004年 2月某日 13:00

 

【場所】時計塔・地下第2街区 魔術師用購買部『ガレリア』

 

時計塔の地下深く、迷宮のように入り組んだ回廊の一角に、その巨大な購買部は存在する。

 

古今東西の魔導書、儀式用の香草、錬金術用の稀少金属、果ては曰く付きの呪物まで。ここでは、魔術師たちが己の神秘を深めるためのあらゆる「資源」が取引されている。

 

 

空気に溶け込んだ雑多な魔力の匂いと、薬品のツンとする刺激臭。

 

竜胆茜は、現代魔術科(ノリッジ)の指定教材である安価な羊皮紙とインクを買うため、その雑踏の中にいた。

 

彼のL1《自動修復機構(セーフティ・リセット)》とTier 0《可変存在解像度(モザイク・シフト・マニュアル)》は、周囲の魔力濃度に合わせて完璧にノイズを調整し、彼の存在を「ただの景色」へと沈み込ませている。

 

(……よし。誰も僕を見ていない。このままさっさと会計を済ませて、自室に戻ろう)

 

 

口の中で青リンゴ味のキャンディを転がしながら、茜はレジカウンターへと向かった。

 

 

 

だが、そこには先客がいた。

 

豪奢なドレスに身を包んだ、金色のドリルロール。昨夜、ソーホーの古書店で遭遇したばかりの「地上の星」――ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト。

 

 

(……うわ。最悪だ。なんでこんな所に)

 

 

茜は即座に踵を返そうとしたが、ルヴィアはカウンターの老店主と、何やら熱を帯びた交渉を行っている最中であり、背後の茜には気づいていない。

 

「……店主。この『スタールビー』、確かに純度は素晴らしいですわ。ですが、私の魔術特性の変換効率に耐えうるか、少々疑問が残りますわね」

 

「お目が高い、ルヴィア嬢。ですがご安心を。これは先代の鉱石科の重鎮が採掘した一級品。魔力パスの通り道は、完璧な幾何学模様を描いております」

 

 

ビロードの布の上に置かれた、親指ほどもある真紅の宝石。

 

店主の言う通り、それは素人目にも分かるほど美しい輝きを放っていた。ルヴィアも満更ではないらしく、その瞳には購入の意志が固まりつつある。

 

(……長い。あれじゃあ、いつまで経っても僕の会計の順番が回ってこない)

 

 

茜は半眼のまま、ため息をついた。

 

そして、ぼんやりとその「スタールビー」へ視線を向けた瞬間。

 

彼の起源『解析』と、《構造解析(ストラクチャー・アナライズ)》が、極めて自然に、無自覚に稼働してしまった。

 

 

(……完璧な幾何学模様? 冗談だろう)

 

 

茜の解析が、ルビーの内部構造を原子レベルの「設計図」として視覚化する。

 

確かに表面のカットと魔力伝導率は高い。だが、茜の計算領域は、そのルビーの内部、魔力パスが交差する中心点に、極小の『歪み』をコンマ0秒で発見していた。

 

(……火属性の魔力を通す分には問題ない。だけど、エーデルフェルトの魔術は『流動』と『変換』だ。あのルビーの中心核には、土属性の結晶化の際の『熱処理のムラ』が0.03%残っている。あそこに高出力の変換魔力を流し込めば……三回目の起動で、内部のパスがショートして爆発するな)

 

 

茜は、キャンディをカチリと噛んだ。

 

本物の魔術師たちにとっては「目視不可能な神秘の領域」であっても、すべてを数値と構造で捉える茜にとっては、エクセルの計算式に紛れ込んだ単なる「エラーコード」でしかない。

 

 

「……あー、すみません。そこのルビー、欠陥品(バグ)ですよ」

 

 

静かな購買部において、茜のひどく平坦な、感情の抜け落ちた声が響いた。

 

ルヴィアの肩がビクッと跳ね上がり、老店主が目を丸くする。

 

 

「……あ、貴方……! 昨日の……!」

 

 

ルヴィアが振り返り、そのサファイアの瞳を怒りに染め上げた。昨夜の「不愉快な虚無」が、またしても自分の美学に水を差したのだ。

 

 

店主も顔を真っ赤にして怒鳴る。

 

「無礼な! どこの馬の骨か知らんが、この歴史ある一級品を欠陥品呼ばわりするとは!」

 

「いや、事実です」

 

 

茜はポケットから手を出すこともなく、半眼でルビーを指差した。

 

「右側面から光を当てて、魔力視の波長を赤外域まで落としてみてください。……中心核の座標(X:12, Y:4, Z:8)のあたり。結晶構造に、わずかな熱処理の残留ノイズがあります。エーデルフェルトのような高出力の流動魔術を三回通せば、パスが耐えきれずに内部崩壊(ショート)します。……まあ、暴発しても指が数本飛ぶくらいでしょうけど」

 

「なっ……!?」

 

 

店主が慌ててルーペを取り出し、茜の指定した波長でルビーを覗き込む。

 

 

数秒後、店主の顔から血の気が完全に引き、その場にへたり込んだ。

 

「あ、あり得ない……。そ、そんな微小な傷、通常の鑑定術式では絶対に……。なぜ、見ただけで……」

 

 

ルヴィアは、絶句した。

 

彼女の眼にも見えなかった、宝石の深淵に潜む死の罠。それを、この魔力の欠片も感じさせない気怠げな少年は、ただ一瞥しただけで「計算違いを指摘するような手軽さ」で暴いてみせたのだ。

 

 

「……貴方。またしても、私の前で……」

 

 

ルヴィアの背筋に、昨夜と同じ悪寒が走る。

 

神秘の探求を、歴史の重みを、ただの『エラー探し』のように解体するこの男の眼。それはルヴィアの誇りを酷く傷つけると同時に、底知れぬ恐怖を抱かせた。

 

 

「……ですから、欠陥品です。買わないなら、どいてください。僕の会計が進まないので」

 

 

茜は、ルヴィアの怒りも恐怖も完全に無視し、カウンターに5ポンドの安い羊皮紙の束とインク瓶を置いた。

 

 

「あ、これ、領収書は『現代魔術科・竜胆』でお願いします」

 

 

淡々と会計を済ませ、茜は「これでようやく静かな生活に戻れる」と安堵しながら、硬直するルヴィアを置き去りにして店を出た。

 

(……あーあ。また余計なことを言った。だから僕は駄目なんだ。空気も読めないし、魔術師としての誇りもない。あんな計算機みたいなバグ技、普通は隠しておくべきなのに)

 

 

 

茜は深く自己嫌悪に陥っていた。

 

自身は「空気が読めないだけの底辺」だと。ルヴィアに恐怖を与えたことなど微塵も気づかないまま。

 

 

 

 

 

 

【日時】同日 14:30

 

【場所】ロンドン市街 裏通りのカフェ『アンティーク・ルーク』

 

時計塔の重苦しい空気から逃れ、茜は市街地のカフェの隅の席に座っていた。

 

 

濃いブラックコーヒーに、角砂糖を三つ。

 

甘さと苦さが脳の疲労を和らげてくれる。

 

(……静かだ。やっぱり、外の世界はいい。時計塔みたいに、どこを見ても面倒な『構造』が転がっているわけじゃない)

 

茜は窓の外のロンドンの霧を眺めながら、L5層の《干渉痕消去》をアイドリング状態にし、意識を休ませようとした。

 

 

 

だが。

 

 

カラン、と。

 

カフェのドアベルが鳴った瞬間。

 

茜の《仮想領域(ディテクター・フィールド)》と《因果ログ解析》が、警告音すら出せずに『フリーズ』した。

 

 

(――な、なんだこれは!?)

 

 

茜は思わず目を見開いた。

 

入ってきたのは、赤いレザージャケットを羽織り、眼鏡をかけた一人の女性。

 

口元には煙草(ピース)が咥えられており、その紫煙が空気に溶け込んでいく。

 

 

ただ歩いて、席に座っただけ。

 

魔力など一切放出していない。結界も張っていない。

 

だが、茜の『解析』という起源が、彼女という存在を「スキャン」した瞬間、そのあまりの情報の異質さと質量に、L4《環境並列演算網》が処理落ちを起こしたのだ。

 

(……人間じゃない。いや、人間だ。だが、身体の構造が……パーツが……因果が……! 何だこの矛盾は!? 『生きている』という結果だけが先行していて、『なぜ生きているか』のプロセスが完全に別のものにすり替わっている……!)

 

 

 

蒼崎橙子。

 

時計塔において最高位の称号である『冠位(グランド)』に限りなく近く、そして封印指定を受けた、人形使役の最高峰。

 

彼女は、自身の肉体を完璧な「人形」として複製し、死の概念すらも書き換える文字通りの怪物。

 

茜の回路は、彼女の「完成された矛盾」を前にして、初めて恐怖に近い警告を発した。

 

(……これが、本物の魔術師。いや、本物の『怪物』……)

 

 

茜は、コーヒーカップを持つ手をテーブルの下に隠し、《完全躯体制御》で震えを強制的に止めた。

 

ルヴィアやフラットといった天才たちは、まだ「計算の延長線上」にいた。だが、この赤いコートの女性は違う。彼女は、世界のルールそのものを自分の都合のいいように書き換えて、それを「日常」として生きている。

 

(……僕の計算なんて、ただの子供の砂遊びだ。彼女のような本物を前にしたら、僕のバグ技なんて一秒で解体されてしまう)

 

 

茜が息を潜めていると、ふいに橙子が眼鏡を取り出し、着用する。

 

途端に、彼女から漂っていた冷徹な殺気と威圧感が、霧散するように消え去る。性格のスイッチ。

 

 

 

彼女は紫煙を吐き出しながら、ふと、斜め後ろに座る茜へと視線を向けた。

 

 

「……ねえ、そこの坊や」

 

 

「…………はい」

 

 

茜は平坦な声を保ちながら答える。脳内では、最悪の事態を想定した逃走経路が数万通り計算されていたが、どれも成功率は1%未満だった。

 

「さっきから、妙に『静かすぎる』波形がチカチカしてて、煙草の味が落ちるんだけど。……あんた、自分がどこにいるか、本当に分かってる?」

 

 

橙子の言葉は、気だるげでありながら、茜の本質(隠蔽)を完全に看破していた。

 

フラットのような直感ではない。ルヴィアのような悪寒でもない。

 

 

ただ、「完成された異常者」としての視点から、茜という存在の「不自然な空白」を正確に認識している。

 

 

「……すみません。ただの背景ですので、お気になさらず」

 

 

茜は静かに立ち上がり、コーヒー代をテーブルに置いて、逃げるようにカフェを飛び出した。

 

冷たいロンドンの霧の中を早足で歩きながら、茜は自嘲する。

 

 

フラット、エルメロイⅡ世、ルヴィア、そして今度の規格外の怪物。

 

 

「……本当に、僕は何をやってるんだろう。ただ静かに生きたいだけなのに、どうしてこう、計算が狂い続けるんだ」

 

 

キャンディを噛み砕く。

 

彼がどれほど自分を卑下し、背景に徹しようとも、彼の持つ「特異点」としての引力は、もはや時計塔の深淵を巻き込み始めていた。

 

 

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