境界の観測者 ―時計塔の特異点―   作:りー037

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【第十片】死神の揺らぎと、無名の休日、あるいは死者の再起動

【日時】2004年 2月某日 12:30

 

【場所】時計塔・学生食堂『ラピス・ラズリ』

 

時計塔の喧騒が最も集中する時間帯。石造りの広大な食堂には、数百人の魔術師の卵たちが放つ、雑多な魔力の波形と食欲の匂いが渦巻いていた。

 

大理石の床を叩く無数の足音、銀食器が触れ合う金属音、そして、秘匿されるべき神秘について平然と議論を交わす傲慢な若者たちの声。

 

竜胆茜は、その喧騒の最果て、誰の視界にも入らない柱の影を縫うようにして歩いていた。

 

口の中でレモン味のキャンディを転がし、カチリと音を鳴らす。

 

 

彼は《可変存在解像度(モザイク・シフト・マニュアル)》を微調整し、自身の歩行リズムを周囲の雑踏の「平均値」へと完全に同調させていた。

 

誰とも視線が合わず、誰の肩にも触れない。彼は今、この空間において『動く壁』と同義の存在だった。

 

だが、出口へと向かう通路の角で、その「完璧な背景」に、一瞬の亀裂が走った。

 

 

 

「――っ!?」

 

 

 

前方から歩いてきた、灰色の外套を深く被った小柄な少女――グレイ。

 

彼女が抱えている鳥籠のような魔術礼装の中から、押し殺したような、しかし極めて鋭利な『笑い声』が響いたのだ。

 

 

「ヒヒ、ヒヒヒヒッ! なんだぁ、今の不気味な感覚は! おいグレイ、今、目の前を『空白』が通り過ぎたぞ! 誰の目にも見えねえ、冷え切ったナニかがよぉ!」

 

 

 

鳥籠に封じられた人工人格――死神の鎌『アッド』。

 

その本能的な霊的探知能力が、茜が展開している「過剰な隠蔽」を、異常なノイズとして嗅ぎ取った。

 

グレイは慌ててアッドの入った籠を抱え込み、困ったように眉を下げた。

 

「……静かにして、アッド。失礼ですよ。……あ、あの、すみませ……」

 

 

グレイが謝罪しようと、その翡翠色の瞳を茜へと向けようとした、その刹那。

 

 

 

「…………」

 

 

茜の脳内――第1階層《事象適応(オール・アダプテーション)》が、一切の思考を挟まずに『反射』として起動した。

 

 

彼は立ち止まらない。謝らない。視線も合わせない。

 

彼は一歩を踏み出す瞬間に、自身の筋肉の収縮、呼吸の深さ、さらには周囲の空気振動すらも再計算(リビルド)した。

 

 

 

グレイの瞳が茜を捉える直前。

 

茜は、彼女の死角へと滑り込むような、流体的な歩法へと切り替えた。

 

それは、彼がかつて吸収した膨大な武術の粋を集めた、自身の存在を『完全に通行人の平均的挙動』として再定義する絶技。

 

 

「え……?」

 

 

グレイの視界には、一瞬前までそこにいたはずの「何か」が、最初から存在しなかったかのように、ただの雑踏の風景へと溶け込んでいた。

 

「おいグレイ! どこ見てやがる、逃げやがったぞバグ野郎! まるで世界そのものを誤魔化してやがった……!」

 

「……え、アッド? 誰もいない……? 気のせい……?」

 

「気のせいなもんかよ! 全く、あのロードの教室は変なやつばかり集まりやがる……」

 

茜は背後で喚くアッドの声を、一切の感情を交えずに聞き流し、食堂を後にした。

 

 

 

彼の心臓は、1ミリの加速も、1ミリの乱れもなかった。

 

(……危なかった。あの『死神の鎌』の感覚器は、論理的な隠蔽を本能で突破してくる。……本物の神秘は、本当に厄介だ。僕みたいな小細工が通用しない領域、つくづく嫌になる)

 

茜はキャンディの棒を軽く噛み砕き、深い自己嫌悪と共に、現代魔術科の教室へと戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 

【日時】2004年 2月某日 14:30

 

【場所】ロンドン市街 ハイド・パーク

 

 

時計塔という「神秘の檻」から這い出し、茜が辿り着いたのは、冬の湿った空気に包まれた広大な公園だった。

 

霧雨が芝生を濡らし、遠くで犬を連れて散歩する老人や、ベンチで新聞を広げるビジネスマンの姿が霞んで見える。ここには、魔術回路の駆動音も、血統の重圧も、他者の内面を暴こうとする魔眼の鋭視もない。

 

 

茜は、並木道のベンチに深く腰を下ろし、冷たくなったコーヒーのカップを両手で包み込んだ。

 

口の中には、新しく剥いたハッカ味のキャンディ。ツンとした清涼感が、魔力の使いすぎで熱を持った脳を物理的に冷却していく。

 

(……静かだ。これが、僕の求めていた『正常なエントロピー』だ)

 

 

彼は《可変存在解像度(モザイク・シフト・マニュアル)》の出力を極限まで落とし、ただの「背景」としての平穏を享受していた。

 

隣のベンチに座る一般人は、茜を「どこにでもいる、少し元気のない学生」としか認識していない。この徹底した無個性こそが、茜にとっての唯一の武装だった。

 

 

(エルメロイ教室。フラット。アッド。……どいつもこいつも、僕というバグに干渉しすぎだ。僕はただの観測者(システムログ)でいたいだけなのに)

 

 

自分の起源『解析』が暴く世界の構造から目を逸らし、ただの通行人Aとして時間を溶かす。

 

それは、自分という「空っぽの器」を維持するための、欠かせないメンテナンス作業だった。

 

 

 

だが。

 

不意に、上着のポケットの中で安っぽい振動音が響いた。

 

 

(――……ん?)

 

 

茜は気怠げに手を伸ばし、使い古された折りたたみ式の携帯電話を取り出した。

 

液晶画面に表示されているのは、昨日アルバイトの連絡用としてサミュエルに教えた、使い捨ての電話番号への着信ログ。そして、一通の短いショートメッセージ(SMS)だった。

 

 

 

『至急、店に戻ってきてくれ。とんでもないものを見つけてしまった。君にしか頼めない。――サミュエル』

 

 

 

(……依頼は完了したはずだ。報酬も振り込まれていた。……なのに、どうして?)

 

 

茜のL3レイヤー《確定未来の選別》が、嫌な予感を弾き出す。

 

無視して立ち去るルートの成功率は高い。だが、その場合、サミュエルを通じて自分の「異常な解読速度」の噂が広まり、結果的に時計塔の深淵に目をつけられる確率は87%まで跳ね上がる。

 

 

(……因果の後始末。それを怠れば、もっと大きなノイズになる。……行くしかないか)

 

 

茜は深くため息をつき、空になったカップをゴミ箱へ捨てると、霧の中に消えるように歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

【日時】同日 16:00

 

【場所】ソーホー地区 古書店『霧と書』

 

 

再び訪れた古書店は、昨日よりもさらに暗く、沈鬱な空気に支配されていた。

 

カラン、というドアベルの音が、やけに重々しく響く。

 

 

「……サミュエルさん。わざわざ電話までして、追加の依頼というのは?」

 

 

茜が平坦な声で問いかけると、カウンターの奥でサミュエルが、まるで幽霊でも見るような怯えた瞳で茜を迎え入れた。その手は、昨日茜が整理したはずの「あの魔導書」を握りしめ、小刻みに震えている。

 

「……竜胆、君。……君は、この本に『何』を見たのだ」

 

「……何、とは?」

 

「君が解読したインデックス……。あれに従って、私が裏表紙の二重底にある術式を照合したところ……とんでもないものが、浮き上がってきた。これは、単なる歴史の記録ではない」

 

 

サミュエルが震える指で示したのは、魔導書の裏表紙の裏側――そこには、昨日までは存在しなかったはずの、淡く青い魔力のラインが浮かび上がっていた。

 

 

茜の《魔力視(マナ・サイト)》が、その「構造」を即座に走査する。

 

(……昨日の解読は完璧だったはず。……いや、違う。僕がインデックスを整理したことによって、断絶していた情報の『因果』が繋がり、休眠していた術式が再起動(ブート)したのか)

 

 

茜は無言でサミュエルから魔導書をひったくるように受け取ると、その青いラインの深層へと起源『解析(アナライズ)』を潜り込ませた。

 

 

 

 

――直後。

 

 

茜の脳内に、暴力的なまでの『情報の奔流』が流れ込んできた。

 

(……なんだ、これは。……遺言? ……いや、これは『爆弾』だ)

 

 

それは、150年前、時計塔の現体制を根底から覆そうとして敗北した、ある派閥のリーダーが遺した『暗号化された遺言』だった。

 

 

そこには、名門派閥が神秘の秘匿という大義名分の裏で、いかにして不都合な魔術師たちを処理し、霊脈を独占してきたかの、克明な証拠と論理回路が記されていた。

 

(《因果接続補完(カウザル・ブリッジ)》、強制起動。……情報の欠落を、僕の魔力で強引に埋める)

 

 

茜の回路が唸りを上げる。

 

彼が解凍し始めたその『遺言』は、ただの文章ではない。

 

時計塔そのものの構造を書き換えようとした「概念的なウィルス」だ。

 

 

 

「……サミュエルさん。……これ、見なかったことにできますか?」

 

 

茜は、顔色を変えずに問いかけた。だが、彼の背中には冷たい汗が伝っている。

 

彼の脳内――L4《環境並列演算網(レイライン・ボットネット)》が、この情報の「解凍」によって生じた、世界への決定的な干渉を計算し尽くしていた。

 

 

この『遺言』は、ただの古びた術式ではない。150年前、特許登録すら拒まれ、歴史から抹消されたはずの「禁忌の登録商標」に近い。

 

茜がインデックスを整理し、因果の結び目を解いた瞬間、その術式は「現行の魔術」として再定義され、このロンドンの大気に、微かな、しかし決定的な『波紋』を広げてしまったのだ。

 

 

(……しまったな。この感覚、法政科の監視網を叩いた………。特許管理用の地球環境モデルが、未登録、あるいは『封印済み』の術式起動を検知したはずだ)

 

 

茜の『解析』は、時計塔の管理システムそのものの構造すらも読み解いていた。

 

法政科。魔術師たちの権利を管理し、同時にその『法』を守るための執行機関。彼らが運用する世界モデルは、テクスチャの上に刻まれた微細な魔力行使すらも、逃さず記録する。

 

「……む、無理だ。……君がインデックスを完成させた瞬間に、この呪いは発動していた。……法政科が、黙っているはずがない。……私は、もう逃げられん。……君も、だ」

 

 

サミュエルが力なく椅子に崩れ落ちる。

 

(……全く。本当に、ろくなことがない。……僕はただの背景でいたかったのに。……どうして、法政科の監視に引っかかるような情報の中心に、いつも僕が配置されるんだ)

 

 

茜はキャンディの棒を噛み砕き、その破片を口の中で転がした。

 

彼の脳内では、《確定未来の選別》が狂ったように警告を発している。

 

法政科から派遣された「実効部隊(掃除屋)」が、特許侵害、あるいは機密保持を名目にこの古書店を包囲するまで、残り時間は演算上、あと180秒。

 

 

 

「……掃除、しないとな。……僕の平穏を邪魔するバグは、全部」

 

茜の半眼の奥で、赤い光が静かに、そして鋭く、その輝きを増した。

 

 

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