【日時】2004年 2月某日 16:12
【場所】ソーホー地区 古書店『霧と書』
「……180秒、か。予想より少し早いな」
竜胆茜は、安物の携帯電話の時計を一度だけ確認し、それを無造作にポケットへ放り込んだ。
彼の脳内演算領域――L3レイヤー <<確定未来の選別(ルート・セレクション)>> は、古書店の周囲半径200メートルに展開されつつある「包囲網」の構造を、熱源と魔力波形のドットとして正確に描き出している。
法政科の動きは、時計塔のどの派閥よりも冷徹で、かつ電撃的だ。
彼らは「神秘の隠匿」という大義名分のもと、法的な手続き(物理的な抹殺)を、まるで事務作業のように淡々と遂行する。
「サミュエルさん、カウンターの奥に。……できれば、耳を塞いで丸まっていてください。これから起きることは、僕の『計算ミス』による不快なノイズですから」
「……あ、竜胆君……。君、一人でどうするつもりだ……? 相手は法政科の執行者なんだぞ……!」
「問題ありません。……」
茜は平坦な声で言い、床に転がっていた一本の古い羽ペンを拾い上げた。
彼にとって、世界に存在するあらゆる物質は、魔術を記述するための「媒介(インターフェース)」に過ぎない。
「起動せよ。Tier 0・<<可変存在解像度(モザイク・シフト・マニュアル)>>、最大出力。――および、<<情報遮断結界(ブラックボックス)>>、広域展開」
茜の指先から、魔力の色すら持たない「無」が染み出していく。
それは、古書店の古びた書架、埃、染み付いたインクの匂い、そしてサミュエルの存在に至るまでを、世界の観測から強引に切り離す『情報の真空地帯』。
法政科が運用する地球環境モデルにおいて、この古書店の一画だけが、突如として「未定義の領域」へと書き換えられた。
外から見れば、古書店はそこにある。だが、中の音も光も、因果の残り香さえも外へは漏れない。
茜が望むのは、あくまで「静かな処理」だ。
【日時】同日 16:15
【場所】『霧と書』店内
カラン、と。
昨日から何度も聞いたドアベルの音が、不自然なほど静かに響いた。
結界の境界線を越え、店内に足を踏み入れたのは、三人の「掃除屋(クリーナー)」だった。
揃いの灰色のコートに身を包み、顔は認識阻害の魔術によってぼやけている。だが、彼らが纏う空気は、先ほどまでのロンドンの霧よりも鋭く、冷たい。
「対象を視認。……古書店主サミュエル、および協力者一名。……罪状:封印された禁忌情報の違法解凍、および特許法に基づく機密保持違反」
先頭に立つ男が、感情を排した声で「判決」を下す。
その手には、法政科の執行者にのみ支給される特殊な概念礼装――『法の裁定者(ジャッジメント・ロッド)』が握られていた。
「……執行を開始する。抵抗は、更なる罪状の追加と見なす」
「……抵抗なんて、しませんよ。面倒ですし」
茜は、カウンターの椅子に座り直したまま、半眼で掃除屋たちを見据えた。
口の中でハッカ味のキャンディを転がし、カチリと音を鳴らす。
「ただ、僕の午後の予定を邪魔したバグ(あなたたち)を、少しだけ『クリーンアップ』させてもらうだけです」
「……不遜な。殺せ」
執行者の合図と共に、左右の二人が同時に動いた。
一人は火属性の発熱を、掌に集中させ、店内の酸素を爆発的に燃焼させる。もう一人は、風属性の <<気圧操作>> によって、真空の刃を茜の頸動脈へ向けて射出する。
魔術師としての格は、間違いなく一流。
必殺のタイミング。必殺の精度。
だが、竜胆茜という「特異点」を前にして、それらの神秘はあまりにも『遅すぎた』。
「加速(アクセル)。――第1階層・思考加速、および事象適応」
茜の視界において、世界が泥の中に沈み込んだ。
爆発する炎はスローモーションの火花へと変わり、迫り来る空気の刃は、空気に刻まれた稚拙な落書きのように視認できる。
茜は椅子から立ち上がることさえしなかった。
彼は右手を軽く振り、空中に漂う埃の粒子へと魔力を流し込む。
「気圧操作(バロメトリック・シフト)――反転、および相殺」
コンマ01秒の演算。
茜の放った微弱な気圧の揺らぎが、迫り来る真空の刃と衝突し、それを霧散させる。同時に、膨張しようとしていた炎の酸素供給を、局所的な「窒素の壁」によって物理的に遮断した。
魔術のぶつかり合い。だが、音はない。
掃除屋たちの魔術は、茜の指先一つで、まるで最初から存在しなかったかのように『処理』された。
「……なっ!? 詠唱なしで、我々の術式を……構造レベルで打ち消したというのか!?」
「……驚くようなことじゃない。君たちのコードは、あまりにも教科書通り(テンプレート)すぎた。……次、来るならもっと複雑なのを頼みますよ。解析のし甲斐がない」
茜は気怠げに言い、一歩、前に踏み出した。
その瞬間、彼の肉体は 身体最適化(オプティマイズ・ボディ) によって、戦闘用の「最適な機械」へと変貌を遂げていた。
【日時】同日 16:17
「……下がっていろ。こいつは、ただの魔術師ではない」
リーダー格の男が、部下を制して前に出る。
彼の持つ『法の裁定者』が、これまでにない不気味な脈動を始めた。
茜の起源『解析』が、その礼装の深層へアクセスしようとするが――。
(……!? 解析が、弾かれた……?)
茜の脳内に、初めて警告音(エラーログ)が響く。
その杖に刻まれているのは、法政科が秘匿し、特許すら公開していない「最新の概念定義」。
それは、『この空間における法(ルール)を、使用者のみに有利に上書きする』という、法を象徴するような理不尽な魔術特性。
「竜胆茜。貴様の魔術、貴様の演算能力……すべては『法』によって制限される。――機能発動。この領域における『速度』と『精度』の定義を、法政科が独占する」
ズン、と。
古書店内の重力が、茜の身体にだけ数倍になってのしかかった。
さらには、彼の得意とする <<確率分布の整形>> を通すための「隙間」が、法という名の鎖によって強引に埋められていく。
「……なるほど。相手にデバフをかけるんじゃなく、世界の設定ファイル(コンフィグ)そのものをロックしたわけか。……流石は法政科。官僚的な嫌がらせにかけては、時計塔で一番だ」
茜は、重圧に軋む関節を 完全躯体制御 で無理やり固定し、口の中のキャンディを噛み砕いた。
冷たい感触が脳を突き抜ける。
「……でも、残念ですね。……法を上書きされたくらいで止まるなら、僕はもっと前から『普通の人』になれてたはずなんだ」
茜の瞳から、光が消えた。
いや、光そのものを演算に回すため、視覚情報を純粋な「数値」へと変換したのだ。
「全システム、リミッター解除。――・全覚醒(フルダイブ・ゾーン)」
ドクン、と。
茜の心臓が、一度だけ世界を揺らすような鼓動を打った。
回路が放つ膨大な魔力が、法政科の「重圧」を内側から強引に押し広げ、中和していく。
彼の意識は今、この古書店の空間、漂う埃、相手の毛穴から出る汗、そして『法の裁定者』が紡ぎ出す不可視の法典に至るまで、すべてと同期していた。
「……僕の計算違いでした。……最短で、3秒……ですね」
「……何を――」
執行者が言葉を終えるより先に、茜の姿が『消失』した。
音も、風も、予兆さえない。
それは速度を超えた、《物理条件の先行成立(エディット・フィジクス)》による「既にそこに到達している」という結果の強制的な挿入。
茜は執行者の懐に潜り込み、その喉元へ、拾い上げたばかりの羽ペンを突きつけた。
羽ペンの先には、土属性の 物質結晶化によって、ダイヤモンド以上の硬度と、分子レベルの鋭利さを持った「黒い刃」が形成されている。
「チェックメイトです。……それ以上、その杖に魔力を流さないでください。法政科の給料以上に、不快な結果(死)が待っていますよ」
静寂。
古書店の中に、執行者たちの荒い呼吸音だけが響く。
法政科の最高峰の礼装を手にしながら、男は、目の前の少年の「虚無」に、文字通り身体を凍りつかせていた。