【日時】2004年 2月某日 16:20
【場所】ソーホー地区 古書店『霧と書』
「……数、5。装備、法政科標準の防護礼装。……突入まで、あと2秒」
羽ペンの刃を執行者の首筋に固定したまま、竜胆茜の脳内OSは、店舗の入り口に集結した増援部隊の動態を完全に捕捉していた。
外の霧に紛れ、音もなくドアへと手をかける法政科の「猟犬」たち。彼らの意図は「確実な制圧」であり、そのための物理的・魔術的手順は、法政科の洗練されたマニュアルによって最適化されている。
だが、茜にとって、その「確実な手順」こそが最もハッキングしやすい脆弱性(バグ)だった。
「起動せよ。拡張術式――局所確率遅延(ローカル・プロバビリティ)」
茜は、突き出した左手の指先を、店舗の重厚な木製ドアへと向けた。
彼の回路から、指向性を持たせた極薄の魔力波動が射出される。それは物理的な防壁を構築するものでも、空間を歪めるものでもない。
それは、世界の「決定権」を一時的に奪い取る、傲慢なまでの遅延コード。
通常、この世界において「ドアを開ける」という行為が行われれば、世界は即座に「ドアが開いた」という結果を確定させる。因果は一瞬で結ばれ、事象は不可逆の事実となる。
しかし、茜が展開したこの術式は、半径数メートルの限定的な空間において、事象の分解能を極限まで低下させる。
今、古書店のドア付近において、「外の部隊がドアを開けて突入する」という因果は、『実行中(ランニング)』のままフリーズしていた。
彼らがドアノブを回す力はかかっている。ドアの蝶番が軋む音も発生している。だが、世界というシステムが「ドアが開いた」という判定を下すタイミングを、茜の演算が強引に後回し(ディレイ)にしているのだ。
外の執行者たちの主観では、彼らは無限に「今、ドアを開けて踏み込む」という瞬間のループの中に閉じ込められている。成功も失敗も確定せず、ただ「未確定」という名の停滞が、その空間を支配していた。
「……これが、僕のやり方です。結果を拒むんじゃない。結果が出るのを、少しだけ待ってもらう」
茜は平坦な声で言い、首元に刃を突きつけていた執行者のリーダーを、感情の抜け落ちた瞳で見つめた。
「……さて。次は、あなたたちの処理だ」
茜は 身体最適化(オプティマイズ・ボディ) を駆動させ、肉体の出力を「最小限の衝撃で昏倒させる」ための数値へ固定した。
彼は羽ペンを持った手を僅かに引き、空いた左手でリーダーの頸動脈竇を正確に突いた。1ミリの誤差もない打撃。脳への血流を一瞬だけ遮断し、反撃の余地も与えずに意識を刈り取る。
ドサリ、と。
法政科の精鋭が、糸の切れた人形のように床に崩れ落ちた。
茜は流れるような動作で、後方に控えていた部下二人の側頭部にも掌打を叩き込む。脳が揺れる感覚すら自覚させない、物理的な「シャットダウン」。
「……サミュエルさん。来てください。……今のうちに、ここを離れます」
茜は、カウンターの奥でガタガタと震えていた老人の腕を掴んだ。
完全躯体制御により、茜の足取りは驚くほど軽く、そして静かだ。彼は老人の身体を支えつつ、裏口へと向かう。
だが、去り際。彼は店内に散乱した魔術の痕跡を、一瞥した。
法政科の地球環境モデルは、この「不整合」を逃さない。ならば、観測されたデータそのものを、彼らの「法」に抵触しない形へ書き換える必要がある。
「L5・干渉痕消去(インターフェース・クリア)、および 結果正当化。――発動」
茜は店内に残った自身の魔力の残滓を、周囲の「埃」や「古書のインク」に寄生させ、再分配(パッチ)した。
法政科の監視ログに残るこの戦闘の記録は、茜の演算によって、以下のように再定義(リライト)される。
――『150年前の魔導書に仕込まれていた古い自律防衛式が、経年劣化により暴走。突入した執行者たちは、その予期せぬ魔力爆発に巻き込まれ、一時的な記憶混濁と昏睡状態に陥った。そこに第3者の介入はなく、これは純粋な「事故」である』。
「……確率のブレを、0.03%の幸運として上書き。……よし。これで、後で彼らが目を覚ましても、僕の顔は『事故の混乱で見えた幻覚』として処理される」
茜はサミュエルを抱えるようにして、裏口から冷たい霧の路地へと踏み出した。
【日時】同日 16:30
【場所】ロンドン・ソーホー地区 裏路地
背後の古書店では、いまだに <<局所確率遅延>> の効果が持続しており、ドアの前で掃除屋たちが「突入前段階」を繰り返している。あと数分もすれば術式は解け、彼らは「誰もいない店内に、気絶した仲間と、爆発した魔導書の残骸」を見つけることになるだろう。
茜は霧の中に身を隠しながら、サミュエルを壁際に座らせた。
老魔術師の顔は蒼白で、その瞳は恐怖に染まっている。
「……あ、竜胆君……。君は、一体……」
「……ただの、計算が得意な学生ですよ。……サミュエルさん。その魔導書は、僕が処分します。あなたは、これから数日間、ロンドンを離れてください。……大丈夫です。法政科の記録(ログ)は、僕が書き換えましたから」
茜は、懐に隠したあの「遺言」の魔導書を、軽く叩いた。
自分と同じような『バグ』の記録。そして、時計塔の罪。
それを手にしたことで、彼の平穏な日常(バックグラウンド)には、取り返しのつかない致命的なエラーが混入してしまった。
「……さあ、行きましょう。……霧が晴れる前に、僕たちは『いなかったこと』にならないといけない」
茜はフードを深く被り直し、サミュエルの肩を支えて、再び歩き出した。
口の中のキャンディは、すでに溶けてなくなっていた。
苦い後味だけが、彼の舌の上に、確かな現実として残っていた。