境界の観測者 ―時計塔の特異点―   作:りー037

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【第十三片】沈黙の揺りかご、灰色の境界線 

【日時】2004年 2月某日 16:45

 

【場所】時計塔・地下第43廃棄区画(通称:ノイズ・セクター)

 

 

ロンドンの華やかな地上から数百メートル。地下鉄のさらに深層、魔術師たちが数世紀にわたって放棄し続けた「情報の澱」が溜まる場所。

 

そこは、かつて大規模な儀式に失敗した際のはみ出し魔力や、解体しきれなかった呪具の残骸が放つ、目に見えない電子的なノイズが吹き荒れる極低温の迷宮だった。

 

 

竜胆茜は、意識を失ったサミュエルを背負い、錆びついた鉄格子を音もなくすり抜けた。

 

周囲を舞うのは、魔力視を持たぬ者には見えない「灰色の雪」――劣化したエーテルの結晶だ。通常の魔術師であれば、この空間に漂う強烈な魔術的ノイズに脳を焼かれ、正気を保つことすら難しい。

 

 

だが、茜にとって、このノイズの嵐は最高の防壁だった。

 

(……ここなら、法政科の地球環境モデルも手が出せない。背景(ノイズ)が多すぎて、僕という一人の人間の座標を特定するための演算が、エラーを起こして霧散してくれる)

 

 

茜は壁際の、比較的大気が安定している小部屋へと滑り込んだ。

 

埃を被った古い木箱をどかし、サミュエルを横たえる。

 

彼の脳内では、依然として回路が極低温の冷却音を立てるかのような静けさで稼働し続けていた。

 

(サミュエルの精神状態……軽度のパニックによる自己防衛的昏睡。バイタルに異常なし。……問題は、僕の手元にあるこれ(バグ)だ)

 

 

茜は懐から、あの150年前の『遺言』を取り出した。

 

魔導書の装丁は、もはや紙や革といった物理的な物質を越え、純粋な「情報の塊」として茜の手のひらに重くのしかかっている。

 

そこから漏れ出す「時計塔の罪」の断片は、周囲のノイズと共鳴し、不気味な青い火花を散らしていた。

 

(……僕一人でこれを隠蔽し続けるのは、最適解じゃない。法政科の二次追撃、あるいはバルトメロイ派の耳に入れば、僕の『平穏』の確率は0.0003%まで暴落する。……ならば、この情報の『価値』を理解し、かつ、僕というノイズを許容してくれる人間に、責任を一部委託(オフロード)するしかない)

 

 

茜は、一度だけ深く、冷たい息を吐き出した。

 

そして、ポケットから例の安物の携帯電話を取り出す。

 

地下の深いこの場所では、通常の電波など届くはずもない。だが、茜は迷わずその画面を開いた。

 

「起動せよ。環境並列演算網(レイライン・ボットネット)。――局所的な因果のバイパスを形成。……宛先、ロード・エルメロイⅡ世。……接続(アクセス)」

 

 

茜は、周囲の魔術的ノイズを強引に「搬送波(キャリア)」へと変換し、地上へと繋がる細い情報の糸を紡ぎ出した。

 

現代魔術の極致を知る者であれば、それがどれほど理不尽で、非効率な魔力の使い方であるかに戦慄しただろう。

 

だが、茜はそれを「繋がらない電話を直す程度の雑用」として淡々とこなした。

 

 

 

プルル、と。

 

不気味な電子音が二度響き、三度目で受話器が上がった。

 

『……私だ。……この回線を使っているのは、竜胆か? 一体、どこからかけている。今、時計塔内では法政科の緊急アラートが鳴り響いて、私の胃壁がさっきから悲鳴を上げ続けているんだが』

 

 

受話器の向こうから聞こえてきたのは、ひどく疲れ切った、しかし聞き慣れた不機嫌な声だった。

 

茜は、窓のない地下室の闇を見つめたまま、平坦な声で告げる。

 

「先生。……少し、計算ミスをしました。……僕はただのアルバイトをしていただけなのですが、気づいたら法政科を三名ほど昏倒させ、150年前の『時計塔の不都合な真実』を抱えて地下へ潜伏しています」

 

 

 

 

 

『…………は?』

 

 

エルメロイⅡ世の絶句。

 

それは、電話越しでも痛いほど伝わってきた。

電話の向こうから聞こえたのは、言葉というより、肺から絞り出された空気の漏れるような音だった。

 

カタン、と、何か――おそらくは彼が愛用している安物の葉巻か、万年筆がデスクに落ちる音が響く。

 

 

 

数秒の、完全な沈黙。

 

やがて、ギリギリと奥歯を噛み締めるような音が聞こえ、ひどく掠れた、震える声が鼓膜を打った。

 

『……竜胆。……私の耳の錯覚でなければ、今、君は「法政科の執行者を昏倒させた」と言ったか? あの、時計塔のルールそのものであり、容赦という概念を持たない猟犬どもを、うちの教室に入ったばかりの君が、か?』

 

 

「はい。彼らの術式があまりにも単調(テンプレート)だったので、構造を相殺して物理的にシャットダウンしました。致命傷は与えていません。あくまで事象の遅延と、睡眠の強制です」

 

 

『馬鹿野郎!! 問題はそこじゃない!』

 

 

受話器が割れんばかりの怒声。茜は思わず、携帯電話を少しだけ耳から離した。

 

『殺していようがいまいが関係ない! 法政科の執行を妨害した時点で、それは時計塔そのものへの反逆だ! 君は今、世界の神秘を統括するシステムそのものを敵に回したんだぞ! ……ッ、待て、待て。落ち着け私。胃薬はどこだ……』

 

 

電話の向こうで、引き出しを乱暴に漁る音と、深い深呼吸が繰り返される。

 

エルメロイⅡ世は、自身の生徒がしでかした「あり得ない規模のバグ」を前に、必死に教師としての理性と、ロードとしての政治的演算を回し始めているようだった。

 

 

「現在地、地下第43廃棄区画。サミュエルという古書店主を保護しています。……先生、この『遺言(データ)』を僕がここで破棄(デバッグ)すれば、法政科は僕を一生追い続けます。ですが、もしこれがエルメロイ教室の『正当な資料収集活動』の成果物として定義されるなら……僕とこの老人の安全確率は、飛躍的に向上します」

 

 

茜は、エルメロイⅡ世の混乱など意に介さず、淡々と「最適解」を提示した。

 

『……君、正気か? 法政科相手に、そのような屁理屈が通ると思っているのか。いくら私がロードの末席とはいえ、無から有は作れん。……いや、待て。君がさっきから言っている、150年前の不都合な真実(データ)とはなんだ。法政科が血眼になって回収しようとするほどの……』

 

「中身を一部解析しましたが……ミスティールを筆頭とした当時の主流派が、霊脈の利権を独占するために行った『不自然な因果の抹消』のログが、克明に記されています」

 

『なっ……!?』

 

 

 

息を呑む音。

 

エルメロイⅡ世の脳内で、バラバラだった情報が最悪の形で結びついたことが、電話越しでも明確に伝わってきた。

 

『……1850年代……ミスティールによる霊脈の独占……。まさか、現代魔術科(ノリッジ)が正式な学部として設立される直前に消失したと言われる、あの『空白の帳簿』か……? なぜ、そんな核弾頭のような代物が、ソーホーの古書店なんかに……!』

 

 

「……先生、あなたなら、これをどう料理するかご存知ですよね?」

 

 

 

茜の言葉には、一切の熱がない。

 

彼は政治的な駆け引きをしているつもりは微塵もなかった。ただ、「このデータをエルメロイ派の切り札として渡す代わりに、僕を法政科のシステムから不可視にしてくれ」という、極めて事務的な取引(トレード)を持ちかけているだけだ。

 

だが、その背後にある意味――「これを上手く世に出せば、法政科や民主主義派(トランベリオ)に致命的な打撃を与え、エルメロイ派の立ち位置を劇的に変えられる」という巨大な毒を、時計塔の政治の海を泳ぐエルメロイⅡ世が理解できないはずもなかった。

 

 

同時に、一歩間違えればエルメロイ教室そのものが法政科に消し飛ばされる、という最悪の未来も。

 

電話の向こうで、エルメロイⅡ世の革張りの椅子が、重く軋む音がした。

 

 

彼はライターで葉巻に火をつけ、長く、長く紫煙を吐き出す。

 

『…………。……竜胆。君は、自分がどれほど恐ろしい綱渡りをしているか、自覚があるのか? 君は今、時計塔の歴史の、最も暗く深い泥の中に、自ら首まで浸かっているんだぞ』

 

 

「自覚なら、さっき捨てました。……重すぎて、歩く邪魔でしたから」

 

 

電話の向こうで、エルメロイⅡ世が盛大なため息をつくのが聞こえた。

 

それは、諦念と、そして教師としての奇妙な覚悟が混じった音だった。

 

『……いいだろう。その情報の『解釈』については、私が引き受ける。……君は今すぐそこを離れろ。サミュエル殿の身柄は、私が手配する『使い魔』に預けろ。……いいか、竜胆。君はこれから、私が指定するルートを通って教室へ戻るんだ。法政科の役人には、私から直接「説明」しに行く。……全く、君というバグは、私の胃を殺すために派遣された刺客か何かなのか……?』

 

 

「……ありがとうございます。先生。……お詫びに、後で胃に良いハーブティーでも淹れます。……あ、キャンディの方がいいですか?」

 

 

『黙って、さっさと指示に従え!』

 

 

 

 

通話が切れる。

 

茜は、携帯電話を畳み、再びポケットにしまった。

 

彼の脳内では、エルメロイⅡ世からの指示を受け取る前に、すでに「ロードの介入」を前提とした脱出ルートの計算が完了していた。

 

「……サミュエルさん。……あなたは、ここで『使い魔』を待ってください。……僕は、一足先に背景(教室)へ戻ります」

 

 

茜は、まだ意識の戻らない老人の傍らに、魔力を込めたハッカ味のキャンディを一つ置いた。

 

それは、目覚めた時の気付け薬代わりであり、彼なりの、唯一の別れの挨拶だった。

 

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