境界の観測者 ―時計塔の特異点―   作:りー037

15 / 57
【第十四片】ノイズの舞踏、そして猟犬を化かす泥

【日時】2004年 2月某日 16:55

 

【場所】時計塔・地下通路〜ロンドン地上部への連絡路

 

 

地下第43廃棄区画から地上へと至るルートは、すでに法政科の放った「目」によって埋め尽くされていた。

 

天井の配管を這う、水晶を埋め込まれた多脚型の探知機。空中にふわりと浮かぶ、眼球を模した使い魔たち。それらは時計塔の魔力網とリンクし、わずかなエーテルの乱れすらも検知する、血の通っていない冷徹な監視網だ。

 

 

 

だが、竜胆茜はその「網の目」の中を、まるで水滴がガラスの表面を滑り落ちるように、一歩も立ち止まることなくすり抜けていた。

 

 

(……自律索敵使い魔、合計24機。視覚センサーの首振り角度、平均45度。魔力探知の走査パルス、0.8秒間隔。……遅い。スカスカだ)

 

 

茜の脳内 が、空間に存在するすべての探知機の「死角」と「走査タイミング」を、3Dモデルの幾何学的なパズルとして描き出している。

 

それに合わせて、茜は自身の肉体を極限までチューニングしていた。

 

 

 

身体最適化(オプティマイズ・ボディ)と 完全躯体制御の複合運用。

 

心拍数を限界まで落とし、体温を周囲の冷たい地下通路の石畳と同化させる。足音を消すために筋肉の収縮率を微細に調整し、床に足が触れる瞬間にわずかな 気圧操作のクッションを挟むことで、物理的な振動をゼロにする。

 

 

さらにはTier 0 可変存在解像度(モザイク・シフト・マニュアル)により、彼の「存在確率」は背景のノイズと同化している。

 

監視カメラのレンズの横を通り抜け、眼球型使い魔が瞬きをするコンマ数秒の間に、その背後へと滑り込む。

 

(魔術なんて大層なものじゃない。相手のシステムの『処理の隙間』に、自分の動作フレームを合わせているだけだ。……本物の魔術師なら、こんなコソコソした真似はせずに堂々と結界を破るんだろうな。僕は本当に、どこまでも小賢しいバグだ)

 

深い自己卑下を胸に抱きながら、茜は一切の魔力を放射することなく、ただの「完璧な物理法則のハッキング」によって、法政科の絶対的な監視網を「なかったこと」にして駆け抜けていった。

 

 

 

 

 

 

 

【日時】同日 17:10

 

【場所】ロンドン市街 ソーホー地区外れ・裏路地

 

錆びた鉄扉を押し開け、茜はついにロンドンの地上へと這い出した。

 

冬の冷たい霧が、熱を持った肺に流れ込んでくる。ガス灯の鈍い光が、アスファルトの水たまりを反射していた。

 

「……よし。これで地下の包囲網は抜けた。あとは、群衆というノイズに紛れて自室へ……」

 

 

 

「――ああっ! やっぱりいた! 竜胆さーーーん!!」

 

 

茜が安堵の息を吐き出そうとしたその瞬間、路地の入り口から、鼓膜を物理的に揺らすような大声が響き渡った。

 

霧の中から飛び出してきたのは、金髪の少年――フラット・エスカルドス。その後ろから、ひどく不機嫌そうに舌打ちをしながら、スヴィン・グラシュエートが歩いてくる。

 

 

(……最悪だ)

 

 

茜はポケットの中で拳を握りしめ、顔の筋肉を 完全躯体制御 で固定して、極めて平坦な表情を作った。

 

法政科の使い魔よりも、この直感のバケモノたちの方がよほど厄介なエラー(障害)だ。

 

「……奇遇だね、フラット君。こんな霧の中で何をしてるんだい」

 

「奇遇じゃないですよ! オレ、すっごい魔力(波形)を追ってきたんですから!」

 

 

フラットは目をキラキラさせながら、茜の周囲をグルグルと回り始めた。

 

「さっき、この辺りの地面の下から、すっごい古くて、でもピカピカしてる『物凄い古い幽霊』みたいな魔力反応がドカン! って爆発したんですよ! オレの脳みそがチカチカして、もう気になっちゃって!」

 

 

フラットが感じ取ったのは、法政科の騒動ではない。先ほど古書店で茜が解凍し、今まさに彼の上着の内ポケットに収まっている『遺言』のデータ――そのものが放つ、強烈な歴史の残響(アノマリー)だった。

 

 

「……おい、フラット。こいつ、やっぱり臭いぞ」

 

 

スヴィンが、獣のように身を低くして茜に顔を近づけてくる。その黄金の瞳孔が、縦に細く収縮していた。

 

「……なんだ、そのポケットの奥からする匂い。鉄錆と、古い血と、あと……得体の知れない『冷たさ』だ。お前、地下で何を拾ってきた?」

 

(……スヴィンの嗅覚まで僕の内ポケット(情報)に届いているのか。……本当に、エルメロイ教室の連中は規格外すぎる。このままじゃ、僕が150年前の機密を持っていることがバレる。それだけは、絶対に避けなきゃいけない)

 

 

茜のL3 確定未来の選別(ルート・セレクション)が、現在の盤面を高速で再計算する。

 

現在、この路地の周囲には、茜を取り逃がして地上へ上がってきた法政科の猟犬たちが、苛立ちと共に索敵の網を広げているはずだ。

 

(……使えるものは、ノイズでも使う)

 

 

茜は半眼のまま、小さくため息をついた。

 

「……フラット君。君の言う『物凄い古い幽霊』が何かは知らないけど、少し前に、あの角の向こうへ『灰色のコートを着て、光る杖を持った怖い人たち』が走っていくのを見たよ。……彼らの杖、見たこともない複雑な術式が編まれていて、すごく……『チカチカ』してたなぁ」

 

 

茜は、極めて自然なトーンで、かつフラットの好奇心を最も刺激するワードを散りばめて「事実」を告げた。法政科の持つ『法の裁定者』という最新特許の礼装。あれはフラットにとって、最高のおもちゃにしか見えないはずだ。

 

「えっ!? 光る杖!? 見たこともない術式!? なにそれすっごい見たい!!」

 

 

フラットの意識が、茜のポケットから、一瞬で「角の向こう(法政科の執行者)」へと完全に切り替わった。

 

「ちょ、フラット! 待て、そっちはヤバい匂いが……ああっ、クソッ、また走りやがって! 待て馬鹿!!」

 

 

「竜胆さん教えてくれてありがとー! 後でまたねー!」

 

 

嵐のような勢いで、フラットが路地を駆け抜け、スヴィンがそれを追いかけていく。

 

数秒後。角の向こうから、「なんだ貴様らは!」「うわあ、おじさんの杖すっごい! 分解していいですか!?」「おいフラット離れろ、こいつら本気の殺気だぞ!」という、大混乱の怒声と魔力の衝突音が響き渡った。

 

(……完璧なデコイ(囮)だ。法政科の精鋭たちも、あの二人を相手にすれば、僕の足取りを追うリソースなんて一瞬で吹き飛ぶ)

 

茜は、フラットたちに微かな罪悪感を覚えつつも(彼らなら法政科相手でも死ぬことはないと計算済みだが)、自らは再び <<可変存在解像度>> を最大にして、濃い霧の向こう側――「背景」へと静かに溶け込んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

【日時】同日 18:00

 

【場所】時計塔本部・法政科  第三執務室

 

重厚なオーク材の扉が閉ざされた、冷え切った空気の執務室。

 

壁には無数の特許状や法典が飾られ、部屋の中央には、巨大な地球儀を模した『地球環境モデル』の端末が鈍い光を放っている。

 

その部屋の主である、法政科の高位役人は、デスクに両手を組み、忌々しげに目の前の男を睨みつけていた。

 

「――それで? 現代魔術科の学部長殿が、このような時間に、法政科の執務室へ何の用かな」

 

ロード・エルメロイⅡ世。

 

彼は、黒いコートを羽織ったまま、長椅子に深く腰掛け、不敵に……しかし、胃の痛みを必死に堪えるように、葉巻の煙を長く吐き出した。

 

「挨拶もなしか。相変わらずここは官僚的で息が詰まるな。……単刀直入に言おう。先ほど、ソーホーの古書店で貴方たちの猟犬が昏倒した件についてだ」

 

役人の眉がピクリと跳ね上がった。

 

「……ほう。我が法政科の執行を妨害した『正体不明の襲撃者』について、何か知っているとでも?」

 

「襲撃者? 買い被りすぎだ」

 

エルメロイⅡ世は鼻で笑った。

 

「私の教室に、最近入ったばかりの愚かな生徒がいてね。彼が古書店で調べ物をしていたところ、偶然、古書の中に仕込まれていた『150年前の劣化した自律防衛式』に触れてしまった。結果、術式は暴走。そこにタイミング悪く踏み込んできた貴方たちの優秀な執行者殿が、その魔力爆発に巻き込まれて気絶した。……それだけの、悲しい『事故』だ」

 

エルメロイⅡ世の言葉は、茜が古書店に残した『偽装された因果(ログ)』と完全に一致していた。

 

「馬鹿なことを言うな!」

 

役人が机を叩いて立ち上がる。

 

「あの場で起動したのは、単なる防衛式ではない! 150年前、我が法政科が封印を指定した『禁忌の特許(データ)』だ! それを不法に解凍した時点で、大罪であることに変わりはない。それに、監視網のデータには、明確に『誰か』がそれを持ち去った痕跡がある!」

 

「ええ、持ち去りましたとも。私の生徒がね」

 

エルメロイⅡ世は、悪びれる様子もなくあっさりと認めた。

 

「なっ……貴様、それを認めるということは、法制科全体を敵に回すということだぞ!」

 

「落ち着きたまえ。私は『生徒が資料を回収した』と言っただけだ。……あのデータは、1850年代の『ノリッジ設立』に関わる、極めて重要な歴史的文献だ。現代魔術科を預かるロードとして、自学部の歴史を調査・研究するのは正当な学術活動の範疇だろう?」

 

「詭弁だ! あれの中身が何であるか、貴様も勘付いているのだろう! あれが公になれば、時計塔の秩序が……」

 

「秩序、ね」

 

エルメロイⅡ世は葉巻を灰皿に押し付け、鋭い眼光で役人を射抜いた。

 

「中身が何であれ、それは『150年前に貴方たちが見落とし、管理しきれなかった負の遺産』だ。それを、私の生徒が偶発的に掘り起こしてしまった。……さて。もし貴方たちが、この件を『重大な特許侵害と反逆』として正式に審問にかけるというのなら、私もロードの末席として受けて立とう」

 

 

エルメロイⅡ世は、わざとらしく肩をすくめた。

 

「だが、審問となれば、当然ながらその『証拠品(データの内容)』は、魔術教会全体、他のロードたちの前で、白日の下に晒されることになる。……ミスティールが霊脈をどう処理したか。法政科がそれをどう黙認したか。……それを公聴会で読み上げる覚悟が、貴方たちにあるのかな?」

 

 

「…………ッ!!」

 

 

役人の顔から、スッと血の気が引いた。

 

完全な、そして致命的な脅迫(チェックメイト)。

 

法政科の弱点である「法の番人としての体面」と「過去の汚職」を人質に取った、極悪非道な政治的化かし合い。

 

 

茜がただ「最適解」としてエルメロイⅡ世に投げ渡したバグは、この男の手にかかることで、法政科の喉元に突きつけられた「絶対に抜けない棘」へと昇華されたのだ。

 

「……貴様。……エルメロイⅡ世。……そこまでして、あんな素性の知れない生徒一人を庇うというのか」

 

 

ギリギリと歯ぎしりをする役人に対し、エルメロイⅡ世は立ち上がり、黒いコートを翻した。

 

「勘違いするな。私は教師だ。……自分の教室の生徒が拾ってきた『宿題』の丸つけをするのは、私の義務だからね」

 

 

背中を向けて執務室の扉に手をかけたエルメロイⅡ世は、最後に一度だけ振り返り、極めて冷酷な笑みを浮かべた。

 

「あの古書店での一件は『事故』。そして、回収されたデータは現在、現代魔術科の厳重な管理下にて『封印研究中』。……そういう書類(レポート)で、法政科の顔は立つはずだ。……これ以上、私の生徒(ノイズ)に嗅ぎ回る猟犬を放つのは、お互いの寿命を縮めるだけだと忠告しておくよ」

 

 

 

扉が閉まる。

 

法政科の執務室に残されたのは、何も言い返せない役人の屈辱の沈黙だけだった。

 

 

 

 

一方、廊下に出たエルメロイⅡ世は。

 

「…………痛い。胃が、溶けそうだ……」

 

 

壁に手をつき、先ほどの威厳など欠片もなく、脂汗を流して蹲っていた。

 

「……そんな得体の知れない爆弾(バグ)、どうやって封印すればいいんだ。……竜胆茜。本当に、とんでもないものを拾ってきたな……」

 

時計塔の深淵における政治的闘争は、茜という特異点の存在によって、大きくその勢力図を歪めようとしていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。