境界の観測者 ―時計塔の特異点―   作:りー037

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【第十五片】水銀のメイド、物理的ノイズの足音

【日時】2004年 2月某日 19:00

 

【場所】時計塔・学生寮 竜胆茜の自室

 

ロンドンの冷たい霧と、地下迷宮の極寒のノイズを抜け、茜はようやく自身の平穏な領域(テリトリー)である自室のドアノブに手をかけた。

 

法政科の監視網を物理的にすり抜け、フラットたちを完璧なデコイとして運用した。エルメロイⅡ世の政治的カバーも完了している。計算上、彼を脅かすエラーはすべて「解決済み」のフォルダに格納されたはずだった。

 

 

 

 

だが、ドアを開けた瞬間。

 

茜の 仮想領域 が、室内に存在する「場違いなほどの高密度な質量」と、「極めて悪趣味な愉悦の気配」を検知して警報を鳴らした。

 

「……おかえり、私たちの愛らしいバグさん。随分と遅いお帰りじゃないか」

 

 

 

月明かりだけが差し込む薄暗い部屋。

 

茜のベッドに優雅に腰掛け、ティーカップ、どこから持ち込んだのか、最高級のボーンチャイナを傾けていたのは、ライネス・エルメロイ・アーチゾルテだった。

 

そして彼女の背後には、銀色に輝く流体金属で構成されたメイド――至上礼装・月霊髄液(トリムマウ)が、静かに、しかし圧倒的な威圧感を放って控えていた。

 

(……最悪だ。地下でサミュエルさんを回収した使い魔というのは、この水銀のことだったのか。……先生からの連絡を受けて、直接僕の部屋で待ち伏せるとは)

 

 

茜はため息を飲み込み、表情筋を 完全躯体制御 で平坦に固定したまま、軽く頭を下げた。

 

「……こんばんは、ライネスお嬢様。勝手に人の部屋で紅茶を淹れるのは、貴族の嗜みですか?」

 

「くくっ、減らず口を叩く余裕はあるようだね。兄上は今頃、君の持ち込んだ爆弾の処理で、胃液を吐きながら法政科とやり合っているというのに」

 

 

 

ライネスは扇で口元を隠し、目を細めた。

 

「サミュエルという老人は、私の別邸の地下牢……もとい、最高のゲストルームに保護(軟禁)してある。これで君の憂いはなくなったわけだが……当然、タダ働きというわけにはいかない。君にはこの『自己強制証文(セルフギアス・スクロール)』にサインをしてもらうよ。内容は簡単だ。『私とエルメロイ教室に不利益をもたらさないこと』。……サインしなければ、あの老人を今すぐ法政科の玄関前に放り出すが、どうする?」

 

 

極めて理不尽で、横暴な契約の強要。

 

 

だが、茜の意識は、ライネスの言葉の半分も聞いていなかった。

 

彼の視線は、ライネスの背後に立つ「水銀のメイド(トリムマウ)」に完全に釘付けになっていた。

 

 

(……美しい。いや、違う。……なんて無駄がなく、かつ『拡張性(オープンソース)』に富んだ構造コードなんだ……!)

 

 

茜の起源『解析』と、構造解析(ストラクチャー・アナライズ)が、トリムマウの内部術式を勝手に解体・スキャンし始める。

 

彼の視界には、メイドの形をした水銀が、無数の数式と流体力学のベクトル、そして魔力パスの幾何学模様となって透けて見えていた。

 

(……基盤となるのは、重金属の流体制御。水銀の高い表面張力と密度を利用した、物理的な絶対防御と斬撃。……なるほど、先代のエルメロイ(ケイネス)が組み上げた基本アルゴリズムは、自己防衛と自動索敵に特化した極めて堅牢な『クローズド・システム』だ。だが、今のこのメイドには、後付けのパッチ、疑似人格やメイドとしての機能が強引に、しかし絶妙なバランスで組み込まれている)

 

 

茜の脳内――《構造解析(ストラクチャー・アナライズ)》 が、猛烈な勢いでトリムマウの「設計図」をダウンロードし、自身のフォルダにコピーしていく。

 

(……この流体制御のコード、僕の 関係性抽象式と相性が良すぎる。水属性の <<流体制御>> と土属性の 物質結晶化 のハイブリッド……。もし僕がこれを一から組み直して、自律回路の演算を僕のレイヤーに外部委託(クラウド・ホスティング)させれば、質量保存の法則すら無視した『超高圧縮の流体礼装』が作れるかもしれない……)

 

 

「……おい。聞いてるのかい、バグさん」

 

 

「……あ、すみません。サインですね。ペンを貸してください」

 

 

茜は呆気にとられるライネスから羽ペンを受け取ると、契約書の内容をろくに確認もせず、サラサラと自身の名前を書き込んだ。

 

「……君ね。魔術師にとってギアスがどれほど重い枷か、本当に分かっているのかい? これで君は、私の所有物も同然……」

 

「大丈夫ですよ。契約違反のペナルティによる因果の縛りは、定義緩衝膜 と L1 自動修復機構を併用すれば、致命傷を避けて強引に初期化(デバッグ)できる計算ですから。ただ、面倒なので大人しく従います」

 

 

 

「……は?」

 

 

ライネスが扇を落としそうになるのを無視し、茜はトリムマウをまじまじと見つめた。

 

「ライネスお嬢様。そのメイドのベースになった流体術式、素晴らしいですね。いずれ、僕も似たような機能(コード)を書かせてもらいます。……パクリ(オープンソース)の利用、事後承諾でお願いしますね」

 

 

「……君という人間は、本当に……神秘をなんだと思っているんだ……」

 

 

ライネスは深い疲労感を滲ませながら立ち上がり、トリムマウと共に部屋を後にした。彼女の背中には、「得体の知れない怪物を飼ってしまったかもしれない」という微かな戦慄が張り付いていた。

 

 

 

 

 

 

 

【日時】2004年 2月某日(翌日) 09:00

 

【場所】時計塔・現代魔術科(ノリッジ) エルメロイ教室

 

 

翌朝。茜は何事もなかったかのように、いつもの窓際の席に座り、口の中で青リンゴ味のキャンディを転がしていた。

 

昨日、法政科の精鋭を叩き伏せ、時計塔の歴史の暗部を暴き、ライネスと契約を結んだ男とは到底思えない、完璧な「背景(モブ)」の姿。

 

 

 

 

バンッ!

 

教室のドアが勢いよく開き、顔中に絆創膏を貼り、腕を吊ったフラットが満面の笑みで飛び込んできた。

 

「竜胆さぁぁぁん!! おはようございます!!」

 

「……おはよう、フラット君。ずいぶん派手に壊れた(バグった)ね」

 

「聞いてくださいよ! 昨日、竜胆さんが言ってた『光る杖の怖い人たち』路地裏で見つけて話を聞いてみたんですよ!! そしたら急に襲ってきて、すっごい強くて! スヴィンと一緒に全力で戦ってたら、途中で急に彼らの携帯が鳴って、『……本部からの撤退命令だと!? ふざけるな!』って、泣きそうな顔で帰っちゃったんです! オレたちの圧勝ですよ!」

 

(……圧勝じゃなくて、先生が法政科の上層部を脅して強制終了(タスクキル)させただけなんだけどな。……まあ、彼が幸せならそれでいいか)

 

 

 

 

「へえ、すごいね。流石はエルメロイ教室の双璧だ。僕みたいな凡人には縁のない話だよ」

 

 

茜は極めて事務的な、感情の1ドットも動いていない相槌を打ち、教科書を開いた。

 

彼のL5 結果正当化 は、フラットの「法政科との戦闘」という事実を、茜自身の隠蔽プロセスにおける「完璧なデコイ」として完全に処理し終えていた。

 

「ええー、竜胆さん冷たい! でもオレ、あの杖の術式、一瞬だけ解析できた気がするんです! 今度ノートに書いて……」

 

 

 

フラットの無邪気な声を聞き流しながら、茜は平穏な日常のシステムが正常に再起動したことに、深い安堵を覚えていた。

 

 

 

――だが。

 

 

 

 

 

 

【日時】同日 14:00

 

【場所】法政科  第三執務室・地下鑑識エリア

 

法政科の執務室の奥深く。魔術の光すら届かない無機質な空間で、一人の白衣を着た男が、顕微鏡から目を離した。

 

法政科の誇る「猟犬」の一人であり、魔術ではなく『物理的痕跡(フォレンジック)』の追跡に特化した異端の捜査官。

 

「……なるほど。現場の『古書店』に残された魔力の痕跡は、見事なまでに『古い魔導書の暴発事故』として偽装されていた。監視網のログも、不自然なほど完璧に整合性が取れている」

 

 

 

男は、ピンセットで小さなガラスの小瓶をつまみ上げた。

 

 

「だが、魔術で世界を騙せても、物理法則(ニュートン)は騙せない」

 

 

小瓶の中に入っているのは、古書店のカウンター裏から採取された、ごく微量の『泥』。

 

 

そして、かすかにミントの香りがする、透明なフィルムの欠片。

 

「この泥の成分……ロンドン市街のものではない。時計塔の地下、それも第40階層以下の『廃棄区画』特有の重金属と劣化したエーテルの灰が混じっている。……そして、このフィルム。魔術師が好むような霊薬の包みではない。市販の安い菓子のゴミだ」

 

 

男は、薄暗い部屋のモニターに、時計塔の学籍データベースを表示させた。

 

「『事故』の直前、現場の古書店周辺の監視カメラに、ほんの僅かだが……ノイズのように認識がブレる人影が映っていた。魔力はゼロ。だが、物理的な質量は確かに存在した」

 

 

男の瞳に、冷たい狩人の光が宿る。

 

「……エルメロイⅡ世は『生徒が偶然事故に巻き込まれた』と弁明したが……違うな。これはプロの犯行だ。それも、魔術ではなく、事象そのものをハッキングするような、気味の悪い手口。……魔術的なアリバイが完璧なら、物理的な足取りから『存在』を証明してやる」

 

 

 

 

 

 

 

【日時】同日 15:30

 

【場所】時計塔・エルメロイ教室 自席

 

午後の講義中。

 

茜の脳内――L3 確定未来の選別が、突如として「未知のエラーコード接近」の警告を弾き出した。

 

 

(……なんだ? 魔術的な探知(スキャン)じゃない。もっと……物理的で、泥臭い『追跡』のベクトルが、僕の座標に近づいている……?)

 

 

茜はシャープペンシルを走らせる手を止め、僅かに目を細めた。

 

彼の起源『解析』が、現状の不整合を瞬時に洗い出す。演算開始。

 

 

(……しまった。昨日、サミュエルさんを連れて地下から地上へ出た時、靴底に付着した『地下の泥』の処理を怠った。さらに、キャンディの包み紙……。……僕は『魔術の痕跡(ログ)』は完璧に書き換えたが、魔力を持たない『ただのゴミ(物理的証拠)』に対する干渉痕消去の適応が漏れていた……!)

 

 

茜の背筋に、冷たい汗が流れる。

 

魔術師相手なら、どれほど高度な神秘でも計算で相殺できる。しかし、魔術を使わず、ひたすらに『科学的な鑑識』と『足を使った捜査』で迫ってくる相手に対しては、茜の「異常な魔術基盤」はかえって目立ちすぎるのだ。

 

(……マズい。法政科の中に、魔術に頼らず物理的証拠から詰めてくる猟犬がいる。このまま靴の泥の成分や、指紋、市街地の監視カメラの映像の矛盾を突かれれば、『事故に巻き込まれただけの生徒』という僕のアリバイが物理的に崩壊する)

 

 

茜はキャンディを噛み砕き、脳内の全リソースを「物理的アリバイ工作」へと振り向けた。

 

(……逃げ切るんじゃない。世界の設定(データベース)そのものを、物理的に書き換えなきゃいけない……!)

 

 

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