境界の観測者 ―時計塔の特異点―   作:りー037

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【第十六片】論理の密室、流体神経のデバッグ

【日時】2004年 2月某日 16:00

 

【場所】時計塔本部・法政科 地下第3データセンター

 

 

時計塔は、数千年分の神秘を蓄積した魔術の最高学府であると同時に、膨大な「物理的データ」を管理する巨大な官僚組織でもある。

 

魔術の痕跡(エーテル)は環境モデルで監視できても、魔術師自身の足取りや、使用された物理的な凶器、あるいは監視カメラの映像といった「魔術に依存しない証拠」は、極めて現代的なサーバー群によって保管されていた。

 

薄暗いデータセンター内には、無数のブレードサーバーが発する低い排気音と、冷却用の水冷パイプが脈打つ音が響いている。

 

その無機質な空間の奥深く、竜胆茜は、Tier 0《可変存在解像度(モザイク・シフト・マニュアル)》の出力を調整しながら、音もなくサーバーラックの前に立っていた。

 

 

(……見つけた。ここが、僕の『靴の泥』と『キャンディの包み紙』の鑑識データを保管している物理ストレージだ)

 

 

茜は手袋を外した右手を、直接サーバーの金属筐体に触れさせた。

 

キーボードもモニターも必要ない。彼の起源『解析』と、《術式分解(スペル・ディスアセンブル)》の応用――それは、ハードディスク内に記録された磁気の配列(0と1のデータ)を、直接自身の記録へと読み込ませる、文字通りの『物理ハッキング』だ。

 

 

(魔術のコードも、電子のコードも、根本的な論理構造(アルゴリズム)は同じだ。……よし、鑑識データにアクセス完了。泥の成分分析結果を、『ロンドン市街地の一般的な泥』の数値へ上書き(リライト)する。監視カメラの映像は、僕の顔の部分のピクセルだけをランダムなノイズへ置換……)

 

 

 

茜の瞳の奥で、無数の数列が滝のように流れていく。

 

彼にとって、これは世界を騙す大魔術などではなく、ただ自分のフォルダ内にある不要なファイルをゴミ箱へ移動させる程度の、極めて退屈な『事務作業』だった。

 

 

 

 

だが。

 

 

その退屈な静寂は、背後の重厚な電子ロック扉が「ガチャン」と重い音を立てて施錠されたことで、唐突に破られた。

 

 

「……やはり、現れたな。ネズミめ」

 

 

 

冷え切った声。

 

茜がゆっくりと振り返ると、通路の反対側に、白衣の上に防刃ベストを着込んだ男――法政科の特別鑑識官が立っていた。その手には、魔術礼装ではなく、極めて現代的な『サブマシンガン(H&K MP5)』が握られている。

 

 

「……驚いたな。法政科の人間が、そんな野蛮な鉛の弾(物理兵器)を使うなんて」

 

 

茜はサーバー筐体に手を置いたまま、感情の抜け落ちた声で呟いた。

 

「魔術的な偽装が完璧すぎるからこそ、物理的な証拠から足がつくのを恐れて、必ず『原本』を消しに来る。そう計算して網を張っていた」

 

 

 

鑑識官は、銃口を真っ直ぐに茜の眉間へと向けた。

 

「お前の手口は監視カメラで見た。いかなる魔術も、お前の前では構造を解体されて無効化される。……ならば、論理も構造もない、純粋な『運動エネルギーの暴力(物理)』で制圧するまでだ。……そこから一歩でも動けば、お前の膝の関節を物理的に粉砕する」

 

 

(……なるほど。理にかなっている)

 

 

茜のL3《確定未来の選別(ルート・セレクション)》が、即座に現状を計算する。

 

《自己因果の最適化(セルフ・バイパス)》を使えば、銃弾を躱すことは容易い。だが、ここから退避行動を取れば、サーバーのデータの書き換えが中断される。それでは本末転倒だ。

 

 

(回避は却下。魔力による防御結界は、物理的な運動エネルギーの減衰には効率が悪い。……なら、昨日コピーしたばかりの『あのコード』の動作テスト(デバッグ)には、丁度いい機会か)

 

 

「……動くなと言っているのが聞こえないのか!」

 

 

鑑識官の指が、引き金に掛かる。

 

その瞬間。茜は、サーバーラックの側面に走っていた『水冷パイプ』のバルブを、指先で弾き飛ばした。

 

 

 

 

プシュウゥゥッ!!

 

 

 

 

 

高圧の冷却水が、白い飛沫を上げて空間に噴き出す。

 

 

「起動(コンパイル)。――《関係性抽象式(リレーション・アブストラクト)》、水属性《流体制御》、土属性《物質結晶化》の複合。アルゴリズム参照先、至上礼装・月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)」

 

 

茜の回路から放たれた膨大な魔力が、空中に散った冷却水を一瞬で掌握した。

 

それは、昨日ライネスの部屋でスキャンした水銀のメイドの構造を、周囲の「水」を触媒にして強引に再現した、茜専用のカスタム礼装。

 

 

「……展開しろ。疑似・流体神経(フェイク・ハイドラグラム)」

 

 

「――ッ! !!」

 

 

鑑識官が引き金を引く。

 

放たれた9ミリパラベラム弾の雨が、茜の肉体を引き裂こうと殺到する。

 

 

 

だが。

 

カカカカカカカカッ!!!

 

茜の周囲を取り囲むように、空中の水滴が瞬時に『鋼鉄以上の硬度』を持つ流体の刃へと変貌し、すべての銃弾を空中で弾き落とした。

 

弾かれた銃弾がひしゃげて床に転がる音に混じり、鑑識官の驚愕の息を呑む音が響く。

 

 

「な……水が、弾丸を弾いただと……!? 馬鹿な、重金属の魔術的流体操作ならともかく、ただの冷却水でこれほどの物理強度を……!」

 

 

「……重金属である必要はないんです。流体力学のベクトル計算と、分子結合の瞬間的な《物質結晶化》のタイミングさえ最適化すれば、ただの水でも装甲板(アーマー)になる」

 

 

茜は、サーバーのデータ改竄を継続しながら、一切視線を動かすことなく左手だけを軽く振った。

 

 

 

ビュッ!!

 

 

空中に漂う『疑似・流体神経』の一部が、鞭のようにしなり、鑑識官の手首を正確に打ち据えた。

 

 

「ガァッ!?」

 

 

手首の骨にヒビが入る音と共に、サブマシンガンが床に滑り落ちる。

 

さらに流体は形を変え、無数の「針」となって鑑識官の首筋、眼球の数ミリ手前でピタリと静止した。

 

「……ッ、あ……」

 

 

恐怖。圧倒的な、理解の及ばない存在への本能的な恐怖。

 

鑑識官は、自分を取り囲む透明な水の刃を見つめながら、一歩も動くことができなくなった。

 

彼が対峙しているのは、ただの魔術師ではない。世界の物理法則すらも「自分が書き換えたコード」に従わせる、歩く特異点だった。

 

 

「……終了(タスク・コンプリート)」

 

 

 

数秒後、茜はサーバーから手を離した。

 

鑑識データのアリバイ工作は、これで完全に終了した。

 

「……ご苦労様です、鑑識官殿。あなたの物理的アプローチは、時計塔の中では非常に合理的で、素晴らしい判断でした。……ただ、相手(バグ)の規模を見誤っただけです」

 

 

茜は口の中でキャンディを転がし、冷え切った瞳で男を見つめた。

 

「……この流体は、あと10分ほどでただの水に戻ります。それまで、そこで大人しくしていてください。次に僕のログを探ろうとしたら……次は、あなたの脳のシナプスを直接分解しますよ」

 

 

茜は平坦な声で言い残し、Tier 0《可変存在解像度》を再起動させた。

 

鑑識官の視界の中で、茜の存在がノイズのようにブレて、やがて完全に消失する。

 

 

「……化け、物……」

 

 

 

水滴の檻に閉じ込められた鑑識官の呟きだけが、サーバーの排気音の中に虚しく吸い込まれていった。

 

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