【日時】2004年 2月某日 16:30
【場所】時計塔・学生寮へ続く回廊
法政科の地下データセンターを「デバッグ」し、完璧なアリバイ工作を終えた竜胆茜は、自室へ戻るべく石造りの回廊を歩いていた。
彼の肉体を覆っていた《疑似・流体神経(フェイク・ハイドラグラム)》はすでにただの水へと還元され、床に落ちる前に《気圧操作》による微風で乾燥させてある。しかし、極度の集中と魔力行使の反動か、シャツの襟元や袖口には、僅かに湿り気が残っていた。
(……これで、すべてのタスクは完了した。法政科のデータベース上で、僕は完全に『シロ』だ。明日からは、また平穏な背景(モブ)としての日常を再開できる)
口の中で青リンゴ味のキャンディを転がし、冷たい頭で今後のスケジュールを再構築していた、その時。
「あーっ! 竜胆さんだ!!」
回廊の十字路から、包帯まみれの金髪――フラット・エスカルドスが元気よく飛び出してきた。
彼は茜を見つけるなり、犬のように鼻をヒクヒクとさせながら距離を詰めてくる。
「あれ? 竜胆さん、なんか服がちょっと濡れてますよ? それに、ただの水じゃない匂いがする……。なんかこう、水なのに刃物みたいに研ぎ澄まされた、すっごい高圧縮の魔力波形がチカチカして残ってます! また面白いことしてたんですか!?」
フラットの無邪気な、しかし本質を完全に射抜く「直感」。
茜は一瞬だけ足を止め、表情筋を完全に固定したまま、極めて平坦な声で答えた。
「……気のせいだよ、フラット君。先ほど、第3図書室の奥で古い配管が破裂してね。運悪く少し水を被ってしまったんだ。時計塔の設備管理(インフラ)は、どうにも非効率で困る」
「えー? 配管ですか? でも、この匂い、重金属の流体操作に似てるっていうか、もっと別の……」
「配管だよ。……それより、フラット君。君のその包帯の巻き方、関節の可動域を30%も阻害しているよ。《自己因果の最適化》……いや、人体の骨格構造的に、これじゃあ次の戦闘で腕が回らなくなる。貸してごらん」
茜はフラットの追及を物理的にシャットダウンするため、彼が最も喜ぶ「技術的介入」を行った。
瞬きするほどの間にフラットの腕に触れ、包帯の結び目を解き、筋肉の収縮を阻害しない完璧なテンション(張力)で巻き直す。
「わあ! すっごい! 腕がめちゃくちゃ軽くなりました! 竜胆さん、医療魔術も得意なんですか!?」
「ただの物理的な構造計算だ。……それじゃ、僕は着替えるから」
目を輝かせるフラットを置き去りにし、茜は足早に回廊を去った。
彼の直感は危険だ。だが、思考のベクトルさえ逸らせば、コントロールは容易い。茜はそう自身を納得させ、次なる「報告」へと向かった。
【日時】同日 17:00
【場所】時計塔・エルメロイⅡ世の執務室
「――というわけで、物理的な証拠(ログ)もすべてデバッグしておきました。これで、僕という存在は完全に『事故に巻き込まれただけの無関係な生徒』としてデータベースに固定されました」
茜は、エルメロイⅡ世の執務机の前に立ち、本日の天気を伝えるような淡々としたトーンで報告を終えた。
「…………」
デスクの向こう側で、エルメロイⅡ世は葉巻を噛み千切らんばかりの形相で固まっていた。
その手には、胃薬の瓶が握られているが、蓋を開ける力すら失われているようだった。
「……竜胆。念のために確認するが。……君は、法政科の地下第3データセンター、つまり彼らの心臓部である物理サーバー室に侵入し、特別鑑識官を無力化した上で、彼らのデータベースを『直接書き換えた』と、そう言っているのか?」
「はい。魔術的な痕跡は消せても、物理的な証拠は科学で追われますから。大元のデータを上書き(リライト)するのが最も効率的な最適解です。ご安心ください、監視カメラの映像も処理済みです」
「安心できるか馬鹿者!!」
エルメロイⅡ世が、ついに机を叩いて立ち上がった。
「法政科のデータベースを改竄しただと!? それはもう魔術師の領分じゃない、ただの世界的テロリストの所業だぞ! もしバレたら、尋問どころか封印指定局の執行者が束になって君を殺しに来るわ!」
「バレませんよ。電子データの改竄なんて、魔術式を解体するよりよほど単純(シンプル)でしたから」
茜は悪びれもせず、キャンディをカチリと鳴らした。
エルメロイⅡ世は深く、本当に深く絶望したようなため息を吐き、椅子に崩れ落ちた。
「……君のその、神秘をなんだとも思っていない無機質な在り方。……ある意味で、現代魔術の極致なのかもしれんが、私としては胃の粘膜が削れるばかりだ。……分かった。君のアリバイ工作は『完璧だった』ということにしておく。これ以上、君の異常な行動(バグ)の報告を聞くのはご免だ」
「ありがとうございます、先生。では、僕はこれで」
「……待て、竜胆」
立ち去ろうとする茜の背中に、エルメロイⅡ世の低く、鋭い声が飛んだ。
「君は、世界を『ただの計算式』だと思っている。だからこそ、法政科のシステムも、歴史の闇も、あっさりと踏み越えられるのだろう。……だがな。時計塔には、君のその冷たい計算式では絶対に解けない、圧倒的な『熱(誇り)』を持った連中がいる。……君がそれに触れた時、果たして君自身がただの背景でいられるかどうか……気をつけておくんだな」
「……計算不能なエラーは、事前に回避します。お気遣いなく」
茜は一礼し、執務室を後にした。
エルメロイⅡ世の言葉の真意を、茜はこの時、まだ完全に理解してはいなかった。
【日時】数日後 08:45
【場所】時計塔・現代魔術科(ノリッジ) エルメロイ教室・自席
法政科の騒動から数日が経過した。
茜の完璧なアリバイ工作と、エルメロイⅡ世の政治的立ち回りにより、古書店の一件は完全に「古い魔導書の自然暴発事故」として処理された。
サミュエルは安全な場所へ身を隠し、150年前の『遺言』は茜の精神の深層で沈黙している。
茜の求めていた、徹底した「背景」としての日常。
彼はいつものように一番後ろの窓際席に座り、ぼんやりと空を眺めていた。
(……正常なシステム稼働。情報のエントロピーは安定している。完璧だ)
だが、彼が机の上の教材を開こうとした瞬間。
そこに『異物』があることに気がついた。
それは、真っ赤な蝋で封をされた、極めて上質で分厚い羊皮紙の封筒。
仄かに、しかし暴力的なまでの「薔薇の香水」と「魔力」の匂いが染み付いている。
(……なんだ、これ。……起動、《構造解析》)
茜の脳内OSが、封筒の内部をスキャンする。
毒や呪いの類ではない。ただ、強烈なまでの「意志」と「誇り」が、文字という情報に乗って叩きつけられていた。
『――竜胆茜。貴方のその薄汚い虚飾を、私の星の輝きで暴き出してみせます。明日の放課後、時計塔第7中庭にてお待ちしなさい。逃げることは許しません。 ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト』
「…………」
茜は半眼のまま、その果たし状(エラーコード)を見つめた。
ルヴィアゼリッタ。あの購買部で、自身が誇る宝石の欠陥を「ただの計算ミス」として指摘され、プライドを粉々にされた誇り高き令嬢。
彼女は、茜の「空っぽさ」の奥にある異常性に気づき、それを真正面から叩き潰すことで自身の美学を証明しようとしているのだ。
(……面倒くさい。無視一択だ)
茜はその果たし状をゴミ箱へ捨てようとした。
だが、彼のL3《確定未来の選別》が、即座にシミュレーション結果を弾き出す。
『無視した場合の未来予測:ルヴィアゼリッタが激怒し、エルメロイ教室の壁を吹き飛ばして乱入してくる確率 98%。その結果、茜の異常性が時計塔全体に露見する確率 100%』
「……クソッ」
茜は思わず、小さな悪態をついた。
彼女のような「圧倒的な熱と誇り」で動く人間は、茜の冷徹な計算式を物理的に破壊してくる。無視すれば、より甚大なエラーとなって自分に跳ね返ってくるのだ。
(……仕方ない。適当に相手をして、彼女のプライドを満足させる形で『負けて』やるか。それが一番被害が少ない)
茜は深くため息をつき、果たし状を内ポケットにしまった。
しかし、茜は気づいていなかった。
ルヴィアゼリッタという魔術師の本質を。
彼女は、莫大な魔力と最高峰の魔術特性を持ちながら、それを制御しきるだけの「精密な器」を持て余している『暴走する星』だ。
一方の茜は、精密な演算能力と制御力を持ちながら、自身の熱や誇りといった「出力の理由」を持たない『空っぽの虚無』。
圧倒的な熱(凸)と、絶対的な冷気(凹)。
無駄の多い大出力と、無駄を削ぎ落とした超精密制御。
水と油のように反発し合う二人だが、もしこの二つの特性が「魔術的戦闘」という盤面において交わった時、どれほどの異常な化学反応(マリアージュ)を起こすのか。
茜の「負けてやる」という安易な計算は、彼女の『誇り』の前に、大きく狂い始めることとなる。