【日時】2004年 2月某日 17:00
【場所】時計塔・第7中庭『沈黙の円壇』
放課後の薄暗い中庭。
古代ギリシャの円形劇場を模した石造りの広場に、夕闇が落ちてくる。その中心に、一人の少女が立っていた。
ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト。
蒼いドレスを夕風に翻し、その周囲には数百ポンドは下らない最高級の宝石が、重力を忘れたように十数個浮遊している。
光を受けて乱反射するそれらは、まるで彼女自身が引き連れた星座のようだった。
「――お待ちなさい、と言ったはずですわ。竜胆茜」
石段の特等席では、ライネス・エルメロイ・アーチゾルテが銀色のメイドを贅沢な椅子代わりにして座っていた。
トリムマウが、無表情のまま主の体重を受け止めている。
ライネスが展開した強力な結界により、中庭は周囲の喧騒から完全に切り離されていた。
「くくっ、逃げてもいいんだよ、バグさん? まあ、この結界を内側から解体(デバッグ)する間に、彼女のガンドで蜂の巣にされるだろうけれど」
愉悦に満ちた声が石畳に反響する。茜は半眼のまま、口の中のキャンディを転がした。
(……最悪の盤面だ。ライネスが観測者に回り、ルヴィアが『熱』をぶつけてくる。逃走ルートの成功確率は0.02%未満。……仕方ない、適当に手加減して『美しい敗北』を演出し、彼女のプライドを満足させて終結(クローズ)させよう)
茜は、上着のポケットに手を突っ込んだまま、一歩前に出た。
「……始めましょう。僕は、早く自室に戻って寝たいんだ」
「――その余裕、いつまで保てるかしら!」
ルヴィアの指先が閃く。
宙に浮いていた宝石たちが一斉に輝きを放ち、魔弾の豪雨となって茜へ殺到した。
一つ一つが並みの魔術師を即死させる威力を持ち、それが十数発、完璧な予測射撃として茜の「未来」を塗り潰す。
(……起動。L3《確定未来の選別(ルート・セレクション)》。射線の重複を確認。L2《関係性抽象式》による局所相殺)
茜は走らない。
ただ、最小限の歩法でその猛火の中を歩き始めた。
彼の周囲に、わずかな水の波紋のような揺らぎが生じる。
——昨日、トリムマウから無断で写し取った術式の残像。水銀の流体神経が示した「形を変えることで最適を維持する」という思想を、茜は自分の魔術基盤へと組み替えていた。
《疑似・流体神経(フェイク・ハイドラグラム)》
それはまだ粗削りで、本家の洗練には遠く及ばない。だが今この瞬間には、十分だった。
空中を切り裂く魔弾の弾道を、茜は指先一つ触れることなく、流体の膜を『盾』ではなく『逸らし(ベクトル変換)』として用いることで、すべてミリ単位で回避し、あるいはその威力を構造分解して霧散させていく。
「なっ……私の宝石魔術を、歩きながら反らしているというの!?」
ルヴィアの瞳に驚愕が走る。
だが、エーデルフェルトの次期当主は、単なる魔弾の連射で底を見せるような三流ではない。
「……小賢しい真似を! ならば、その流体ごと蒸発なさいッ!」
彼女の指先が優雅に宙を舞う。
茜が逸らしたはずの魔弾——空中に散らばっていた宝石の欠片たちが、ルヴィアの遠隔操作によって一斉に『起爆』した。
物理的な弾丸による制圧から、高密度の魔力爆発による広域面制圧へのシームレスな移行。逃げ場のない爆炎と衝撃波が、中庭の石畳を砕きながら茜を全方位から飲み込む。
(——対象の戦術変更。物理透過から広域熱量への移行。……疑似・流体神経のキャパシティを超過する)
茜の瞳の奥で、無数の青白い数式が明滅する。
(——《戦闘用状態遷移(コンバット・トランジション)》。属性:風・土)
茜は両手を広げ、足元の石畳を《物質結晶化》によって一瞬で隆起させ、同時に《気圧操作》で自身の周囲に強固な『真空の断層』を構築した。
ボガァァァァンッ!!
迫り来る爆炎が真空層に触れて酸欠を起こし、残った衝撃波が隆起した石の盾を粉々に砕く。
茜は、その爆風の推進力を利用して後方へと滑るように後退し、熱波を完全に無効化してみせた。
石段の上、ライネスの目が細くなった。
(……あの動き。水銀の流体制御に似ている。でも違う。あれは私のメイドから盗んだ技術に、さらに五大元素の最適化をパッチワークしているのか……?)
彼女は何かに気づきかけて、しかしその思考を扇で遮るように口元を隠した。続きは、もう少し見てから考えればいい。
一方、自慢の宝石魔術をことごとく「最低限の動作と魔力」で捌き切られたルヴィアの顔には、明確な怒りと、それ以上の『闘争心』が燃え上がっていた。
「……ただのノリッジの三流かと思っていましたが、訂正して差し上げますわ。貴方、とんでもなく『小憎らしい』戦い方をしますのね」
ルヴィアの両手に、先ほどとは比べ物にならないほど巨大で、高純度なサファイアが握り込まれる。
「ですが、そのチマチマとした計算で、私の『美学』をいつまで凌げるかしら!」
ルヴィアが両手の宝石を天に掲げた。
瞬間、数十個の宝石が円陣を描いて空中に出現し、茜の頭上を覆い尽くす『宝石の檻』を形成する。
それは単なる爆弾ではない。それぞれの宝石が魔力のパスで繋がり合い、相互に威力を増幅し合う、エーデルフェルト特有の陣地作成魔術。
(……高密度魔力網の構築。これらすべてが収束して放たれれば、僕の基礎スペックと第一階層の防御では相殺しきれない)
茜は、迫り来る魔力の豪雨を前に、L3の演算リソースを極限まで引き上げた。
(——ならば、撃たれる前に『陣』そのものを解体する)
茜が、コートを翻して疾走した。
彼の指先から、極度に圧縮された《流体制御》の水の針が放たれ、空中の宝石同士を繋ぐ見えない魔力のパス(結節点)を次々と射抜いていく。
一つ、また一つと宝石の円陣が崩れ、光を失って石畳に落ちる。
「——させませんわッ!」
だが、遠距離からの魔術戦が通用しないと悟ったなら、その身に刻まれた「エーデルフェルトの誇り」で直接分からせるまで。
「――直接その身に刻んであげますわ! エーデルフェルト流・淑女の嗜みを!」
バリッ!!
ルヴィアがドレスの裾を大胆に引き裂き、魔力放出を伴う爆発的な加速で、陣を解体していた茜の懐へと弾丸のように飛び込んだ。
彼女の拳には、物理的な破壊力と魔術的な衝撃が完璧に調和して宿っている。英国式レスリング『キャッチ・アズ・キャッチ・キャン』を魔術で異常強化した、誇り高き戦士の『乱舞(インファイト)』。
(……純粋な《身体強化(セルフ・エンハンス)》の極致だ。打撃の軌道は——)
ドォン!
ルヴィアの放った強烈な右の掌底が、茜の胸板を穿とうと迫る。
茜の《完全躯体制御》が、ルヴィアの関節の微細な動きから次の一撃を予見し、彼は半身を引いてそれを躱そうとした。
しかし、ルヴィアの動きはそこで止まらない。
空を切った右腕をそのまま茜の首元に巻きつけ、彼女の強靭な背筋力と魔力放出の反動を利用した、必殺の『投げ(スープレックス)』へと移行する。
(——組み技。魔力による強制的な重心移動)
茜の脳内OSが警告を鳴らす。
(——このまま投げられれば、石畳に叩きつけられる衝撃と、彼女のゼロ距離からの魔力爆発を同時に受ける)
「捕まえましたわよ!!」
ルヴィアが勝利を確信し、茜の身体を宙に浮かせた、その瞬間。
「……《事象適応》——及び、《魔力遮断(マナ・カット)》」
茜の左手が、ルヴィアの腕の魔術回路の結節点(ノード)を正確に押し込んだ。
ピッ、と。ルヴィアの腕に流れていた強化の魔力が、コンマ一秒だけ「切断」される。
その一瞬の筋力の弛緩。茜は自らの身体を《流体制御》のようにグニャリと軟体化させ、ルヴィアの拘束から滑るようにして抜け出した。
「なっ……!?」
空中に放り出された形になったルヴィアが、空中で無理やり体勢を立て直して着地する。
「……随分と荒々しい嗜みですね。ドレスが台無しですよ」
茜は数メートル離れた位置で着地し、乱れたコートの襟を直した。
「……っ、よくも……よくも私に、こんな無様な真似を……ッ!」
ルヴィアの瞳に、ついに本気の、限界を超えた「熱」が宿った。
自身の宝石魔術を解体され、得意の組み技すらも理屈の分からない体術でスッポ抜けさせられた。プライドの塊である彼女が、この状況を許容できるはずがない。
彼女は、自身の両手足に、これまでの比ではない——明らかに彼女自身の許容量(キャパシティ)を超えた莫大な魔力を、強引に流し込み始めた。
大気が悲鳴を上げ、彼女の周囲の石畳が、ただ魔力の圧だけでピキピキとひび割れていく。
(……なんだ、この熱は)
流れ込んでくる情報が、茜の演算を一瞬だけ乱した。
ルヴィアは茜の首を狙い、優雅な、しかし首の骨を容易に砕く必殺のラリアットを放つべく、大地を蹴り砕いて突進してきた。
茜の起源『解析(アナライズ)』が、意図せず深く、ルヴィアの「内側」へと潜り込んだ。
(……回路が、悲鳴を上げている。魔力の出力が、器の許容範囲(キャパシティ)を完全にオーバーしている。これだけの魔力を抱えながら、精密制御のための回路が——欠落している?)
ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトという魔術師の、構造的な矛盾が見えた。
彼女は、あまりにも強大すぎる魔力をその身に宿しながら、それを完璧に制御するための『繊細な回路』が欠落していた。彼女の魔術が常に「爆発的」で「豪華」なのは、美学ではない。そうしなければ、溢れ出す魔力に自身が焼き切られてしまうからだ。
彼女は、常に暴走する星を手懐けるために、命を削って舞い続けていた。
(……このまま放置すれば、彼女の回路が臨界を越える。自滅による計算ミス(エラー)だ)
茜の脳内OSが、赤色の警告灯を点滅させる。
放っておけば茜の勝ちだ。彼女は勝手に自滅するか、茜が《身体最適化》で沈み込んで回避すれば、彼女はそのまま壁に激突して終わる。
——だが、それでは茜の望む「平穏な結末(デバッグ)」にはならない。何より、目の前にある「美しいエラー」を放置することは、彼の観測者としての本能が許さなかった。
茜は、沈み込んで回避するのではなく、あえて彼女の突進の軌道に自身の身体を置いた。
「……仕方ない。少しだけ、舵(ステアリング)を借りますよ」
「……えっ?」
密着。
互いの体温が伝わるほどの距離。
茜は、倒れゆくルヴィアの腰に手を回し、彼女に組み付かれたまま、彼女の背中に回した手から、自身の魔力を『逆流』させた。
攻撃ではない。
L2《関係性抽象式》を介した、彼女の暴走する魔力への「外部演算委託(アウトソーシング)」。
「――っ!? 身体が、勝手に……!?」
茜は自身の異常な脳内演算リソースを、ルヴィアの魔術回路へと直結する。荒れ狂う暴風のような魔力が、茜の極低温の演算を通り抜けるたびに、整流されていく。
まるで複雑に絡まった数式を、一本の論理で解きほぐしていくように。
一滴の無駄もなく。
一点の乱れもなく。
瞬間——中庭の空気が、一変した。
ルヴィアの周囲に漂っていた、散漫で暴力的な魔力の光が、一点の曇りもない『純白の星光』へと収束していく。彼女の指先に宿る魔力が、かつてないほどの密度と、芸術的なまでの幾何学的文様を纏って再構成された。
(……出力:最大。ベクトル:収束。……よし、これがエーデルフェルトの本来の『正解』だ)
茜の超精密な「制御」と、ルヴィアの圧倒的な「熱」。
正反対の二人が重なった瞬間、そこには時計塔の歴史に類を見ない、完璧な『神秘の共鳴』が誕生していた。
「……なんて、こと……。これが、私の……私の、魔術……?」
ルヴィアは茜の腕の中で、自身の指先から放たれる、あまりにも美しく、あまりにも鋭い光の線を見つめていた。それは、彼女が一生をかけても辿り着けなかったかもしれない、理想の極致。
石段の上で、ライネスは動かなかった。
持っていた扇が、音もなく石畳に落ちた。
彼女の魔眼が視ていたのは、共鳴そのものではなかった。共鳴の中心にいる茜が、先ほどの「流体の逸らし」と全く同じ構造で、今度はルヴィアの魔力回路を「整流」していることに——気づいていた。
「……熱すぎるんだよ、君は。……これで、もう壊れない(バーストしない)はずだ。……さあ、満足したなら負けてくれますか」
茜は気怠げに呟き、彼女の身体をそっと離した。
魔力の共鳴が解け、中庭に再び静寂が訪れる。
「…………。……私の、負けですわ」
ルヴィアは乱れたドレスを整え、顔を真っ赤に染めながら、絞り出すような声で言った。
だがその瞳には敗北の悔しさではなく、自身の深淵に触れた者に対する、強烈で逃れようのない『執着』の炎が宿っていた。
「……竜胆茜。貴方、覚悟しておきなさい。……私の魔術を、あのように『飼い慣らして』みせたのです。……この落とし前、一生をかけて、淑女(わたし)が清算させてあげますわ」
(……は?)
茜は、キャンディを噛み砕いた。
L3演算が、最悪の未来予測(エラーログ)を更新する。
『ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトの好感度:計算不能なレベルで暴騰。……平穏な学生生活への復帰確率、0%』
「……やっぱり、最初から逃げるのが最適解だったな」
茜は窓の外の暮れなずむ空を見上げ、深く、重いため息をついた。
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