境界の観測者 ―時計塔の特異点―   作:りー037

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【第一片】底辺の憂鬱

【日時】2004年 2月某日 14:15

 

【場所】英国・ロンドン 時計塔周辺 裏通りの古びたカフェ『オールド・クロック』

 

図書館の重苦しい空気と、ロード・エルメロイⅡ世の鋭利な視線から逃れるように、竜胆茜は冷たい雨の降るロンドンの街へ足を踏み出した。

 

向かった先は、魔術師たちが好んで議論を交わすような騒がしい学生食堂ではない。時計塔の敷地から少し外れた、裏路地にひっそりと佇む一般向けの古いカフェだ。

 

 

 

カラン、とくすんだ真鍮のベルが鳴る。

 

店内には焙煎されたコーヒー豆の深い香りと、雨の湿気が混ざり合った匂いが漂っていた。客はまばらで、静かなジャズが流れている。茜にとっては、魔術の匂いがしないこの場所こそが、世界で最も息のしやすい「背景」だった。

 

「ブラックを一つ。それと、角砂糖を三つ」

 

 

カウンターで無造作に注文を済ませ、一番奥の目立たないボックス席へ滑り込む。

 

濡れた黒髪を手で適当に払いながら、口に咥えていたキャンディの棒をゴミ箱へ放り投げ、新しいものを剥いて口に含んだ。ブルーベリーの人工的な甘みが舌に広がる。

 

(……失敗した。完璧な底辺を演じたつもりが、統計学的な異常値としてロードの目に留まるとは)

 

 

運ばれてきたコーヒーに角砂糖を沈めながら、茜の半眼の瞳はカップの水面を見つめていた。

 

脳内のL4レイヤー《環境並列演算網(レイライン・ボットネット)》が、彼自身の過去の行動パターンをバックグラウンドで再計算している。

 

自分の能力は、所詮は「観測」と「誤魔化し」に過ぎない。エルメロイⅡ世のような本物の天才や、時計塔で研鑽を積む誇り高き魔術師たちと比べれば、自分などただのシステムバグのようなものだ。

 

 

(僕みたいな空っぽの人間が、あんな眩しい人たちの視界に入るべきじゃない。僕はただ、隅っこで世界が回るのを眺めていたいだけなのに)

 

 

 

 

 

ふぅ、と小さく息を吐き出した、その時だった。

 

「わああっ!? びっくりした、誰もいないと思ったのに、よく見たら人がいる!? なになに、今のすっごく面白い術式ですね! 結界? 幻術? それとも妖精さんの一種ですか!?」

 

 

バタバタと騒々しい足音と共に、茜の目の前の席に金髪の少年が勢いよく身を乗り出してきた。

 

屈託のない笑顔、そして、常人には決して視認できないはずの、圧倒的で無軌道な魔力の奔流。時計塔の奇人であり、エルメロイ教室の問題児――フラット・エスカルドス。

 

(……厄介なのが来た)

 

 

茜の脳内で、瞬時に警報が鳴り響く。

 

フラットの無自覚ででたらめな魔力干渉が、茜の周囲を覆っているTier 0《可変存在解像度(モザイク・シフト・マニュアル)》の乱数スイッチングに物理的なノイズを発生させていた。

 

「すっごくチカチカしてますよ! 存在してるのに、世界のチャンネルが合ってないみたいにノイズ走ってます! ええと、初めまして! オレはフラット! あなたのお名前は!?」

 

 

「…………竜胆、茜」

 

 

茜は極めて平坦な声で名乗った。

 

半眼の奥で、彼の起源『解析』がフラットという存在の構造を読み解いていく。

 

驚異的だ。この少年は、論理や計算ではなく、純粋な「直感」と「才能」だけで、茜が構築した高度な隠蔽の違和感を察知している。エルメロイⅡ世が理論で違和感を覚えたのに対し、フラットは視覚的な感覚としてそれを捉えていた。

 

(これが本物の天才か……。僕みたいな小細工を並べるだけの偽物とは、根本的に世界の見え方が違うんだな)

 

 

茜は内心で深く感嘆し、そして、少しだけ卑屈に自嘲した。

 

これほどまでに輝かしい才能の前では、自分の能力など砂上の楼閣に等しい。

 

「竜胆さんですね! そのチカチカするやつ、どうやってるんですか!? オレもやってみたい!」

 

「……ただの気の迷いだよ。君が疲れて、目が霞んでいるだけだ」

 

「ええー? そんなことないですよ、だって……」

 

 

フラットがさらに身を乗り出そうとした瞬間、茜はテーブルの下で静かに指を弾いた。

 

 

 

術式発動《因果遅延起動(ディレイ・カウザリティ)》。

 

 

極小の範囲、極小の出力。

 

フラットが身を乗り出すという「原因」に対し、テーブルの上のコーヒーカップが揺れるという「結果」の確定をコンマ数秒だけ遅延させる。

 

 

「あ、わっ!」

 

遅れて発生した揺れにより、フラットの肘がカップに当たりそうになる。フラットは慌ててそれを庇おうとし、見事にバランスを崩して自身のマフラーを派手に引っ掛けた。

 

「わわわ、あぶなっ……って、あれ ……?」

 

「……ほら、疲れてる。温かいものでも飲んで休むといい。僕はもう行くから」

 

 

結果が遅延し、行動が阻害されたことによる思考の分断。

 

フラットの意識が物理的なトラブルに向いた一瞬の隙を突き、茜は席を立ち上がる。

 

フラットのような純粋な善意と圧倒的な才能を持つ人間と関われば、確実に自分の平穏は崩れ去る。それは、彼らのためにもならない。

 

 

「え、あ、待って竜胆さん! 今度ゆっくりその術式見せてくださいねー!」

 

背後から掛けられる明るい声に、茜は片手だけを上げて応え、逃げるようにカフェを後にした。

 

 

 

 

 

 

 

【日時】2004年 2月某日 15:30

 

【場所】時計塔・学生寮 竜胆茜の自室

 

冷たい雨の中を歩き、学生寮の自室に戻った茜は、濡れたコートをハンガーに掛けることもせず、薄暗い部屋の中央にどさりと座り込んだ。

 

部屋には、魔術師らしき道具は一切ない。試験管も、魔導書も、儀式用の祭壇もない。あるのは最低限の家具と、彼自身の肉体という名の「極限の演算装置」だけだ。

 

「……本当に、僕は不器用だ。普通の凡人を演じることすら、まともにできないなんて」

 

 

自嘲の言葉が、何もない部屋に虚しく響く。

 

ロード・エルメロイⅡ世の理論的な看破。そしてフラット・エスカルドスの直感による感知。

 

時計塔の最前線を生きる者たちにとって、自分の隠蔽工作は甘すぎたのだ。

 

「再構築(ビルド)する。……このままじゃ、面倒なことになる」

 

 

茜は目を閉じ、深く、静かな呼吸を繰り返した。

 

彼の意識が、肉体という殻を抜け出し、仮想の魔術基盤の深層へと沈み込んでいく。

 

 

「起動せよ。《因果ログ解析(カウザル・ログ)》」

 

 

 

――直後、茜の視界が完全に切り替わった。

 

薄暗い部屋の光景が消え失せ、無数の光の糸が交錯する、電子空間のような概念世界が展開される。

 

それは、茜がこれまで時計塔で過ごしてきた数年の「原因」と「結果」の軌跡。

 

金色の糸は彼が意図的に操作した事象。青い糸は自然に発生した事象。

 

茜は、己の「成績の因果」を示す糸の束を手に取った。

 

 

実技テスト、筆記試験、魔力測定。

 

 

すべての糸が、不自然なほど真っ直ぐに「クラス最下層の平均値」という一点に向かって収束している。

 

 

(……なるほど。エルメロイⅡ世が違和感を覚えた理由はこれか)

 

 

客観的に自分の因果を視覚化したことで、茜は己の致命的なミスを理解した。

 

魔術とは本来、人間の感情、体調、環境魔力のブレによって、必ず結果に「揺らぎ」が生じるものだ。しかし、茜の提出した結果には、その「人間らしい揺らぎ」が一切存在していなかった。

 

 

完璧に底辺を狙いすぎた結果、皮肉にもそこに「完全な人工物」としての特異性が浮き彫りになってしまっていたのだ。

 

「混沌としたシステムの中で、完全な無風状態を作り出せば、それは逆に『台風の目』として目立ってしまう。……馬鹿だな、僕。こんな単純なノイズ計算をミスするなんて」

 

 

自己嫌悪に陥りながらも、彼の極限の演算能力は止まらない。

 

「L5整合性管理層、展開。《干渉痕消去(インターフェアレンス・クリア)》と《確率偽装(プロバビリティ・マスキング)》のアルゴリズムを書き換える」

 

 

茜は、自らの成績を構成する因果の糸に、意図的な「ランダム関数(ノイズ)」を組み込んでいく。

 

ある日は体調不良による極端な点数の低下。ある日は得意分野でのまぐれ当たり。結果的に「冴えない生徒」という評価に落ち着くように、過去の記録の概念的な印象を僅かに上書きし、今後の行動指針に「自然な失敗」をプロットしていく。

 

 

さらに、フラットに感知されたTier 0《可変存在解像度》の周波数も調整する。

 

存在を薄めるだけではなく、他者の魔力波長と同調し、景色として溶け込むカメレオンのような擬態機能をL1の《自動修復機構(セーフティ・リセット)》と連動させた。

 

「……これで、少しは『ただの背景』に近づけるだろうか」

 

 

 

ふと、自分の作業の手を止め、茜は目を開けた。

 

現実の薄暗い部屋。冷たい雨の音。

 

圧倒的な演算能力を持ちながら、彼がそれに費やすのは「世界から自分を隠すため」の作業だけだ。

 

 

誰かを救うためでも、魔術の深淵に至るためでもない。

 

「……僕は、何をやっているんだろうな」

 

ポツリとこぼした言葉は、誰に届くわけでもなく、静寂に吸い込まれていった。

 

彼の中にある純粋な善性と、それを押し潰すほどの極端な自己評価の低さ。その矛盾した二つの感情が、冷たい熱となって彼の胸の奥で燻り続けていた。

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