境界の観測者 ―時計塔の特異点―   作:りー037

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【第ニ十四片】(裏)星の瞬きと龍の脈動

【日時】2004年 3月某日 23:15

 竜胆茜がOSを完成させた同時刻

 

【場所】時計塔・第12部門:現代魔術科(ノリッジ) 学部長執務室

 

深夜の執務室で、ロード・エルメロイⅡ世は万年筆を走らせていた。

 

処理すべき書類は山積みであり、胃の痛みはすでに慢性的なものとして彼の神経にこびりついている。特にここ数日は、一人の「異常な新入生」が引き起こした法政科との摩擦の事後処理で、睡眠時間すら削り取られていた。

 

「……まったく。あのバグめ、今日は大人しく寮に帰ったようだが……」

 

 

ため息をつき、冷めたコーヒーに手を伸ばそうとした、その時だった。

 

 

 

 

――ピシリ、と。

 

 

執務室の空気が、凍りついた。

 

いや、温度が下がったわけではない。物理的な冷気ではなく、魔術的な『流動』が、世界から一瞬にして失われたのだ。

 

「……なっ、なんだ!?」

 

エルメロイⅡ世は椅子を蹴立てて立ち上がった。

 

時計塔の地下には、魔術世界における最大の霊脈にして巨大な龍の骸『霊墓アルビオン』が眠っている。その恩恵たる微弱な魔力(エーテル)の流れは、ロンドン中に血脈のように張り巡らされ、常に脈動し、揺らぎ、有機的な生命力を保っているはずだった。

 

だが今、エルメロイⅡ世の魔術回路が感じ取ったのは、生命力(カオス)の完全な『死』。

 

そして、それに代わる、あまりにも暴力的なまでの『完全なる秩序(コスモス)』の到来だった。

 

棚に置かれた振り子時計の動き、暖炉の炎の揺らぎ、空気中の埃の軌道。

 

それらがコンマ数秒の間だけ、まるで「見えざる巨大な歯車」に噛み合わされたかのように、極めて幾何学的で、数式的に完璧な動きへと強制的に補正されたのだ。

 

ジリリリリリリリッ!!!

 

執務室の机に置かれた、直通の魔術通信機が悲鳴のような音を立てて鳴り響いた。

 

受話器を取る。相手は、時計塔の地下霊脈を監視する観測所の魔術師だった。

 

『ロード! ロード・エルメロイ!! そちらの観測計はどうなっていますか!? 今、地下のアルビオン上層部を流れる大龍脈が……一瞬だけ、完全に『停止』しました!』

 

「停止だと!? 馬鹿な、霊脈が止まればロンドンの魔術基盤が崩壊するぞ!」

 

『い、いえ、枯渇したわけではありません! 違うんです! 流動が止まり、無数の魔力パスが勝手に組み上がって……まるで、巨大な『天体図』か『時計の内部機構』のような、あり得ないほど規則的な魔法陣を地下に一瞬だけ形成したんです!』

 

通信機越しの声は、未知の恐怖に震えていた。

 

『地震ですらありません。大地の魔力が、上空にいる「何らかの圧倒的な上位構造」の法則に強引に引っ張られ、整列(コレスポンダンス)させられたような……こんな事象、歴史上観測されたことがありません!』

 

「……上位構造との、対応……」

 

エルメロイⅡ世の手から、受話器が滑り落ちそうになる。

 

魔術的な地震(ノイズ)ではない。これは、世界そのもののルールを局所的に上書きするほどの、強烈な『OSの起動音』だ。

 

(……まさか。……いや、あり得ない。いくらあの男の演算能力が規格外だとしても、時計塔の大霊脈を共鳴させるなど、一人の魔術師の脳で処理できるはずがない……!)

 

エルメロイⅡ世は窓際に駆け寄り、ノリッジの学生寮がある方角の夜空を睨みつけた。

 

証拠など何一つない。だが、彼の胃袋を焼くような直感と、魔術師としての論理が、最悪の結論を弾き出していた。

 

「……竜胆茜。お前、一体どんな物を創り出したんだ……?」

 

夜空は沈黙していたが、時計塔の深淵は、確かにその「黄金のバグ」の胎動に震え上がっていた。

 

 

 

 

【日時】翌日 08:30

 

【場所】時計塔・現代魔術科(ノリッジ) 学生寮の廊下

 

(……頭が、割れそうだ)

 

竜胆茜は、重い足取りでドアを開け外へ出た。

 

昨夜、脳内で『完成機構・黄金天球』のOSを統合・コンパイルした代償は大きかった。脳のオーバーヒートによる毛細血管の破裂はL1《自動修復機構》で応急処置したものの、全身の気怠さと鉄の味は未だに抜けきっていない。

 

(……だが、OSの論理は完成した。あとはこれを外付けの『ハードウェア(黄金と機構)』に移植するだけだ。……そのためにはまず、設計図を引くための素材集めを……)

 

口の中にハッカ味のキャンディを放り込み、思考を切り替えようとした、その時だった。

 

「――り、竜胆さぁぁぁん!! 待ち伏せしてましたよ!!」

 

廊下の角から、弾丸のような勢いで飛び出してきたのはフラット・エスカルドスだった。

 

そしてその後ろから、獲物を狩る直前の獣のように極限まで姿勢を低くしたスヴィン・グラシュエートが、音もなく茜の退路を塞ぐように歩み寄ってくる。

 

(……来たか。面倒な『追及』が)

 

茜の《仮想領域(ディテクター・フィールド)》が、二人の緊張状態を正確にスキャンする。

 

「昨日の夜! 竜胆さんの部屋の周りに、すっごい綺麗な『黄金の時計』みたいな幻影が出てたじゃないですか!!」

 

フラットが目をキラキラさせながら茜の胸倉を掴まんばかりに迫る。

 

「空にっきっらーって歯車が回ってて! 星のマークがいっぱいあって! あの術式、オレでも全然構造が読み取れなくて……! なんですかあれ! 新しい大魔術ですか!?」

 

「……黙れフラット。こいつはそんなチャチな手品(幻術)をしてたわけじゃない」

 

スヴィンが、金色の瞳孔を縦に細め、茜の顔を覗き込んだ。

 

その鼻が、ヒクヒクと僅かに動く。

 

「……お前、昨日あの部屋の中で、空間の『物理法則』そのものを書き換えてただろ。俺の鼻は騙せない。魔力の匂いじゃない……世界の設定が無理やり捻じ曲げられたような、機械油みたいな冷たい匂いがした」

 

スヴィンの鋭い爪が、カチリと鳴る。

 

「幻術なら、俺の獣の勘は反応しない。だが昨日の夜、俺の直感は『あの領域に入ったら、俺の身体が俺の意思とは関係なく、あいつの決めたルールの通りに動かされる』と警告していた。……お前、一体何者だ?」

 

純粋な好奇心(フラット)と、野生の警戒心(スヴィン)。

 

エルメロイ教室が誇る双璧に完全に挟み撃ちにされ、茜は内心で小さく舌打ちをした。

 

(……直感と嗅覚のバケモノめ。魔術的な偽装は完璧でも、彼らの『観測』を甘く見すぎた)

 

だが、茜の表情には微塵の焦りもない。

 

彼は《完全躯体制御》で心拍数と発汗を完全に平常値に固定し、半眼のまま静かに口を開いた。

 

「……買い被りすぎだよ、スヴィン君。僕にそんな、世界を書き換えるような大魔術が使えるわけないじゃないか」

 

「嘘をつくな! 俺の鼻は――」

 

「君たちの言う『黄金の歯車』の幻影。それは確かに僕の部屋の周囲に展開された。……だが、それは僕の魔術じゃない。僕は、ただ『防御』していただけだ」

 

 

茜の言葉に、二人が僅かに眉をひそめる。

 

茜は脳内の L5《結果正当化(リザルト・ジャスティファイ)》のプロセスを静かに起動させた。

 

これは、あり得ない結果を「論理的な必然」として世界(あるいは相手の認識)に上書きする魔術的詐術。彼は、昨夜起きた『二つの事実』を、繋ぎ合わせてみせた。

 

「……昨日の夜23時過ぎ。時計塔の地下から、原因不明の大規模な『地脈の異常脈動(ノイズ)』が発生したはずだ。先生たちも大騒ぎしているだろう?」

 

 

スヴィンの耳がピクリと動く。確かに、昨夜のロンドン地下からの魔力異常は、彼も肌で感じ取っていた。

 

「あの地下からの強力なパルスが直撃しそうになったから、僕は咄嗟に、ライネスお嬢様の『月霊髄液』を模倣した流体防御結界を、部屋の周囲50mに展開したんだ。……水滴と魔力で構成された、分厚いレンズのような球体結界をね」

 

 

茜はキャンディをカチリと噛み砕き、極めて論理的な、しかし致命的な『誤誘導』を放つ。

 

「強烈な地脈の光(パルス)が、僕の流体結界(レンズ)を通過した。その結果、光が乱反射(プリズム)を起こし、結界の表面に張った魔術式の回路図が、偶然『歯車』のような幾何学模様となって夜空に投影されてしまった……ただの光学的なエラーだよ」

 

「……光の、乱反射……?」

 

 

スヴィンの喉の奥から、唸り声が消える。

 

「スヴィン君が感じた『ルールの書き換え』というのも当然だ。僕の結界内は、地脈の暴走から身を守るために、極限まで空間を圧縮・固定していたからね。君の勘は正しかった。あの時あの中に入っていれば、結界の圧力で君の身体は潰されていたかもしれない」

 

 

虚実に真実を混ぜる。

 

結界を張ったことも、地脈が乱れたことも、法則が固定されていたことも本当。ただ、その『因果関係(原因と結果)』の順番をすり替える。

 

「……ええーっ! なんだ、星の魔法じゃなくて、ただの結界の反射だったんですかー! がっかりです!」

 

 

フラットが、心底つまらなそうに肩を落とした。

 

「…………」

 

 

スヴィンはなおも茜を睨みつけていた。

 

獣の直感は「こいつは嘘をついている」と警鐘を鳴らしている。だが、人間の論理(理性)が、茜の完璧な説明を前に反論の糸口を見つけられずにいた。

 

「……分かったら、通してくれないか。僕は昨日の結界維持のせいで、ひどく疲れているんだ」

 

 

茜はそれ以上相手にせず、二人の間をすり抜けて歩き出した。

 

(……ギリギリだった。だが、これで誤魔化せるのも今のうちだけだ)

 

 

 

茜はポケットの中で拳を握りしめた。

 

彼のOSの異常性は、もはや「背景」に収まりきる規模を完全に超えている。法政科、魔術儀式のシステム、そして双璧。彼を観測するノイズは日に日に増大している。

 

(……急がなければ。一刻も早く、僕の『演算』を安全に引き受けるための、物理的な『ハードウェア』の設計と素材集めに入らなければ……!)

 

 

茜の足取りは、冷や汗を伴いながらも、次なる工程――【設計】への明確な焦燥に駆られていた。

 

 

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