【日時】2004年 2月某日 10:00
【場所】英国・ロンドン 時計塔本部 全体基礎科と鉱石科を繋ぐ連絡回廊
石造りの冷たい廊下には、数百年にわたって蓄積された魔力と埃の匂いが染み付いていた。
高く切り取られたゴシック様式の窓から、ロンドンの希薄な冬の陽光が斜めに差し込み、宙を舞う塵を金糸のように照らし出している。
竜胆茜は、少し大きめの黒いTシャツの上にカーディガンを羽織り、足音を立てずにその回廊を歩いていた。
前夜、L5整合性管理層を用いて組み直した《確率偽装(プロバビリティ・マスキング)》と《干渉痕消去(インターフェアレンス・クリア)》のアルゴリズムは、淀みなく稼働している。
(……これでいい。僕程度の出力が、時計塔のシステムにノイズを発生させていたこと自体が烏滸がましい話だ)
口に咥えた棒付きキャンディを転がしながら、茜は半眼のままぼんやりと思考を巡らせていた。
彼にとって、自分が行っている事象操作や因果の計算は、ただの「小賢しいバグ技」に過ぎない。血のにじむような研鑽と歴史を誇る「本物の魔術師」たちから見れば、自分など無価値な背景の一つだ。そう本気で思っているからこそ、彼の立ち振る舞いには一切の気負いがない。
だが、彼が角を曲がろうとしたその瞬間だった。
「――待ち伏せの甲斐があったというものだね。見事なまでに『何もない』じゃないか、君」
鼓膜を打ったのは、鈴を転がすような、それでいて極上の毒を孕んだ少女の声。
茜の足が止まる。
廊下の中央。窓から差し込む光を背にして立っていたのは、豪奢なドレスに身を包んだ金髪の少女だった。年の頃は14、5歳といったところか。しかし、その華奢な体躯から放たれる支配者のような威圧感は、明らかに年齢にそぐわない。
ロード・エルメロイⅡ世の義妹であり、エルメロイ派の実質的な支配者。ライネス・エルメロイ・アーチゾルテ。
そして、彼女の背後には――。
ズズン……ッ。
石畳を軋ませるような、異様な質感を伴う足音。
それは、銀色の輝きを放つ「液体」で構成されたメイドだった。
アーチボルト家が誇る至高の魔術礼装、月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)。それが疑似人格を与えられ、メイドの姿をとった自立型魔術礼装『トリムマウ』。
(……エルメロイの姫君か。面倒なことになったな)
茜はポケットに両手を突っ込んだまま、特に身構えることもなく、半眼で彼女を見返した。そこに怯えや、凡人を装うような小芝居はない。ただ、「厄介ごとに巻き込まれた一般生徒」としての、静かな気怠さがあるだけだ。
「……何か、僕にご用でしょうか」
フラットな声で尋ねる茜に対し、ライネスは優雅な笑みを崩さず、手にした扇でビシッと彼を指し示した。
「とぼけても無駄だよ。私の兄上をひどく悩ませる謎の生徒。竜胆茜。……なるほど、確かに私の眼で見ても、君の魔力は底辺そのもの。チリ一つすら感じさせない、完璧な『凡人』だ」
そう言うと、ライネスの双眸が、燃えるような朱色に染まり上がった。
魔力流動を可視化する、彼女特有の魔眼。
茜のTier 0《可変存在解像度》が、彼女の視線(スキャン)を感知し、瞬時にノイズを発生させて情報を攪乱する。ライネスの眼には、茜はただの澱んだ魔力の塊にしか見えていないはずだ。
「だがね、綺麗すぎるんだよ。君のその『底辺っぷり』は、まるで丁寧に計算し尽くされたかのように無駄がない。それが逆に、ひどく鼻につく」
(……鋭いな。さすがは名門の系譜だ。僕の偽装を、直感だけで見抜こうとしてくる)
茜は内心で静かに感嘆していた。己の能力の異常性を微塵も疑わず、ただ「相手が優れているから自分の粗が見つかった」と結論づけている。
「トリムマウ。少し彼を脅かしてやれ。ボロを出させてやる」
「――御意」
機械的な音声と共に、トリムマウの右腕が液状に崩れ、瞬時に極薄の鋭利な刃となって茜の首筋へと射出された。
音速に迫る水銀の刃。
その瞬間、茜の体感時間は《思考加速》により数百倍に引き伸ばされた。
周囲の景色が泥のように粘り気を持ち、トリムマウから伸びる水銀の刃が、1ミリずつジリジリと空間を切り裂きながら迫ってくる。
茜の脳内――L4《環境並列演算網》が、ロンドン中の霊脈ノイズを借り受け、目の前の至高の魔術礼装を「解体」し始めた。
(……なんて、なんて美しい構造(コード)なんだ)
迫り来る死の刃を前にして、茜の胸中に湧き上がったのは、恐怖ではなく純粋な賞賛だった。
《構造解析(ストラクチャー・アナライズ)》が、トリムマウの内部で複雑に絡み合うアーチボルト家の魔術回路の編み目を読み解いていく。
流体力学と錬金術の極致。疑似人格を維持するための情報処理のプロトコル。
(これこそが本物の魔術だ。僕の《流体制御》と《物質結晶化》を組み合わせただけの粗悪な状態遷移とは、根本的に歴史と美しさが違う……)
極限の思考加速の中で、茜はトリムマウの機構を完全にコピーしつつ、その完成度に酔いしれていた。
同時に、彼の演算機構は、水銀の刃が自身の頸動脈の皮膚に触れる1ミリ手前で完全に停止する軌道であることを、0.0001秒の段階で弾き出していた。
殺意のない、純粋な「脅し」。
ゆえに、茜は何も設定しない。
本来ならば自動起動するはずの防御機構《定義緩衝膜(アンチ・コンセプト・キャッシュ)》や《自己因果の最適化(セルフ・バイパス)》すらも起動させる必要はない。ただ立っていれば、結果的に無傷で終わるのだから。
――現実時間への回帰。
ピタッ、と。
茜の首筋からわずか1ミリの距離で、水銀の刃が停止した。
「…………」
茜は、微塵も動かなかった。
悲鳴を上げるわけでも、腰を抜かすわけでもない。ポケットに手を入れたまま、冷たい水銀の刃を半眼で見下ろし、口の中のキャンディを転がして「カチッ」と音を鳴らしただけだ。
「……これで、気が済みましたか」
極めて平坦な、感情の抜け落ちた声。
そのあまりにも「無反応」な態度に、ライネスは魔眼を光らせたまま、じっと沈黙した。
水銀の刃を突きつけられても、彼の体内からは一切の魔術的な反撃の兆候がなかった。だが同時に、恐怖による生体反応、心拍数の上昇や冷や汗、すらも完全に欠落している。
(……なんだ、こいつは。怯えるどころか、反応すらしない? 魔術の素養がないだけの愚鈍か? いや、違う。刃が迫る瞬間、こいつの眼は確かにトリムマウの『構造』を視ていた……!)
ライネスの背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。
「……チッ。本当につまらないね」
ライネスは扇を閉じ、小さく舌打ちをした。
「トリムマウ、戻れ」
「――御意」
水銀の刃が再びメイドの腕へと戻り、元の滑らかな球体関節を形成する。
茜は刃が引かれても安堵する様子もなく、ただ淡々とライネスを見返していた。
「……私の勘違いだったようだね。フラットの言葉を真に受けた私が馬鹿だった。いくらなんでも、これほどまでに中身のない人間が時計塔の深淵に関わっているわけがない」
ライネスは茜から視線を外し、興味を失ったように踵を返した。
だが、歩き出す直前。彼女は背中越しに、ふと呟いた。
「……だが、不思議だね。君の首に刃を当てた瞬間、なぜか『私の首が刎ねられていたような』、そんな悪寒が走ったよ。私の眼は騙せても、私の直感は君をひどく気味悪がっている」
コツ、コツ、と。
振り返ることなく、ライネスとトリムマウの足音は回廊の奥へと消えていった。
「…………」
二人の気配が完全に消えたことを確認し、茜は小さく息を吐いた。
「……気味悪い、か。それも当然だ。僕みたいな人間が、君たちのような本物の視界に入っていいはずがない」
服の埃を軽く払いながら、茜は自嘲する。
彼の脳内には今、アーチボルト家の至高の魔術礼装『月霊髄液』の全構造(ソースコード)が、一字一句違わずに《完全記録》によって保存されていた。
やろうと思えば、周囲の水分と建材の鉱物を抽出し、即席で『疑似・月霊髄液』を構築し、先ほどのライネスの首をコンマ数秒で撥ね飛ばすことは可能だった。彼女の直感は、茜のL3レイヤーが自動算出した無数の「最適化された未来(ルート)」の死の可能性を、無意識に嗅ぎ取っていたに過ぎない。
「……でも、すごいものを見せてもらった。あれに比べたら、僕のやってることなんてただの計算合わせだ」
キャンディの棒を軽く噛み砕き、茜は再び歩き出す。
自分はただの観測者だ。世界を眺めるだけの背景だ。
そう思い込んでいる青年の足跡に、時計塔の深淵が静かに口を開き始めていた。