【日時】2004年 4月某日 23:45
【場所】時計塔・現代魔術科(ノリッジ) 学生寮・竜胆茜の自室
――Phase 10:完成・初陣
完全な静寂。
自室に極厚の《情報遮断結界(ブラックボックス)》を多重展開した竜胆茜は、机の上に置かれた『完成機構・黄金天球(アウルム・テレイオス)』と向かい合っていた。
ロード・エルメロイⅡ世が法政科の猟犬を退け、政治的な防波堤となって稼いでくれた「平穏な時間」。
茜はその時間、この究極の『隔離砂箱(サンドボックス)』を組み上げるために費やした。
すべては、己の内部で不気味な熱を発し続けている、150年前の機密――『遺言(バグ)』を安全に解体(デバッグ)するため。
「……接続(リンク)」
茜が黄金天球に指先を触れる。
L4《環境並列演算網》の接続先が、ロンドンの不安定な地脈ノイズから、眼前の『完全なる小宇宙』へと切り替わる。
脳の処理能力の一部が、黄金の歯車へと物理的にオフロードされる感覚。茜の精神は、かつてないほどのクリアな冷たさを得ていた。
「これより、内部の領域に凍結状態(フリーズ)で保存されている『150年前の遺言』の解凍、および論理解体を実行する」
茜の瞳から一切の感情が消え去り、純粋な『解析者(バグハンター)』としての光が宿る。
「……解凍開始(アンパック)」
ドォォォォンッ……!!!
物理的な音は無い。だが、結界で遮断された空間の内部においてのみ、情報と因果の「爆発」が起きた。
1850年代、時計塔の現代魔術科(ノリッジ)設立以前のどす黒い呪詛。法政科が封印指定した致死の論理回路。
150年もの間、圧縮され、熟成され、怨念と化した膨大なデータ群が、茜の脳を焼き切り、精神を汚染しようと、真っ黒な『津波』となって襲いかかってきた。
(――Option 2:未来予測と絶対遮断)
呪詛の津波が茜の意識を飲み込む、その0.05秒前。
カチリ。
机の上の黄金天球が、極めて微かな音を立てた。
第三環(時間・周期演算レイヤー)が、コンマ数ミリだけ回転したのだ。
《時相先行演算(クロノ・プリディクション)》。
礼装は、茜の脳を破壊しようと迫る『呪詛の津波』を、天体の運行と同じ「観測可能な物理法則」として既に計算し終えていた。
呪いがどのルートを通り、茜のどの神経細胞(回路)に干渉するか。その未来の事象を事前に割り出し、第一環(天体レイヤー)へ演算結果をフィードバックする。
直後、第一環の回転が『物理的に固定(ロック)』された。
《固定結界展開(ステラ・バリア)》
「……」
茜は、瞬き一つしなかった。
彼の目の前、ほんの数ミリの空間で、真っ黒な呪詛の津波が見えない壁に激突し、音もなく粉砕されていたからだ。
「防いだ」のではない。黄金天球が周囲の空間座標を『呪詛が干渉できない状態』として強制的に固定したため、呪いは茜に届くという「未来(因果)」そのものを喪失し、虚空へ霧散したのだ。
「攻撃が問題にならない状態を先に作る。……実証完了だ。君たちの怨念によるカウンターは、僕には『届くという設定』が存在しない」
無機質な声と共に、茜は容赦のないハッキングを開始する。
(――Option 1:機構分割演算による緻密な解体)
「迎撃は済んだ。次は解体だ。……展開、《機構分割演算(クロック・セグメント)》」
黄金天球が、ふわりと空中に浮遊する。
重なり合っていた三つの環状フレームと、内部の無数の歯車が、互いの物理的な接続を僅かに外し、それぞれが独立したパーツとして宙で並列稼働を始めた。
茜は、結界内に充満する数億通りの致死エラー(遺言の残骸)を、自身のレイヤーを通じ、分割された黄金の歯車群へと次々に流し込んでいく。
一つの歯車が、一つの呪いの論理を噛み砕く。
一つの環が、一つの歴史の矛盾を軌道計算で解き明かす。
時計の針が独立して動きながらも全体として一つの時刻を示すように、空間に散らばった黄金の部品たちは、互いに連携しながら凄まじい速度で「150年前の機密」を並列処理していく。
(……素晴らしい。月霊髄液(トリムマウ)の流体演算なら、この情報量を受け止めきれずに波が破綻していただろう。だが、この黄金機構の『完全性』は、情報をエラーなく確実に処理し、物理的な歯車の回転として昇華している)
だが。
相手は、時計塔の歴史の暗部そのもの。
単なる情報処理で終わるほど、法政科が封印した特許の底は浅くなかった。
(――Option 3:完全形再構の暴力)
ギィィィッ……!!
突如、空中で回転していた第一環のフレームに、微細なヒビが入った。
『遺言』の最深部に隠されていた、極度に圧縮された矛盾論理(パラドックス・コード)。それが黄金天球の演算キャパシティを一瞬だけ上回り、物理的な「器」を破壊しにかかったのだ。
黄金のフレームに亀裂が走り、内部の極小の歯車が二つ、三つと砕け散る。
「……想定内だ。《完固定構(アウルム・パーフェクト)》」
茜が冷たく呟いた瞬間。
壊れた黄金の歯車は「元の形に修復」されることはなかった。
代わりに、砕けた破片そのものが新たな曲線を描き、別の歯車と融合し、今まで存在しなかった『二重構造の遊星歯車』へと瞬時に再構成されたのだ。
ヒビの入ったフレームは、その亀裂を「新たな可動関節」として定義し直し、より複雑な軌道を描くための多角形フレームへと姿を変えた。
壊れる端から、その破壊(呪い)を処理するために最も適した**「別の完全形」**へと変貌を遂げる。
「破壊は敗北じゃない。それは『次の完成』を選択するためのトリガーだ」
怨念が黄金を砕く。
黄金は砕かれた形を「完全」と再定義し、怨念をすり潰す。
もはやそれはデバッグという名の、暴力的なまでの最適化の連続だった。
150年前の魔術師の執念が、絶対的な不変(完全)を誇る黄金機構の前に、論理の海で一方的に蹂躙されていく。
(……残り12パーセント。……8パーセント。……3パーセント)
茜の瞳の奥で、膨大な文字列がサラサラと砂のように崩れ落ち、無害なデータテキストへと変換されていく。
(……完了(フィニッシュ))
カァン……ッ。
深夜の自室に、黄金の部品が再び一つの「天球儀」へと組み合わさる、澄んだ音が響いた。
空中に浮遊していた黄金天球が、ゆっくりと茜の掌へと降り立つ。
三つの環、遊星歯車、中心球。
そのすべてが、最も完璧な角度で噛み合い、ピタリと静止した。
「……お疲れ様。見事な演算だった」
茜は熱を帯びた天球儀をそっと撫で、深く、長く息を吐き出した。
彼を悩ませ続けていた脳内の『爆弾』は、ついに完全に解体されたのだ。
「さて。……君たちが150年もの間、何を隠し続けていたのか。見せてもらおうか」
茜は、自身のレイヤーに安全なテキストデータとして格納された『遺言の全貌』にアクセスした。
そこに記されていたのは。
霊墓アルビオンの未踏ルートに関する地脈の管理者権限(Admin Key)。
そして、時計塔の当時のロードたちが、法政科の執行部と結託して行った、血生臭い「神秘の簒奪」の正確な因果ログの記録だった。
(……なるほど。これを法政科の役人の前で読み上げれば、確実に時計塔は内戦状態(パニック)になる。……先生が脅しに使ったレベルじゃない。これは、時計塔というシステムそのものを物理的に破壊しかねない『核ボタン』だ)
茜は、その膨大なデータを眺めながら、感情の全くない声で呟いた。
「……不要なノイズだ。こんなもの、誰かに公表するメリットが一つもない」
茜は、あっさりとその情報を自身の最深層の暗号化フォルダに放り込み、厳重なロックをかけた。
誰かに正義を説く気もない。時計塔の歴史を暴く気もない。
ただ、もし今後、法政科や他のロードたちが「竜胆茜の平穏」を理不尽に脅かすようなことがあれば。その時、この『最高の交渉手札(保険)』を切って、相手の論理を根本からへし折るために使う。
そのためだけの、最強のバックアップデータ。
「これで、僕の平穏は物理的にも、政治的にも強固に守られた」
茜は、静かに静止する黄金天球をポケットにしまい込んだ。
時計塔を揺るがす特大の爆弾の処理は、誰の目にも触れることなく、一人の少年の「日常のタスク」として、あまりにもあっけなく、無音の内に完了した。
この手札を切るタイミングは今後直ぐに訪れることを彼はまだ知らない。
矛盾の激突 結果と結果の殴り合い
終末のデバッグ 完成された黄金
竜胆茜
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世界(法則)を書き換える特異点同士の邂逅はいまだなされない。
窓の外では、ロンドンの夜明けが静かに近づいていた。