境界の観測者 ―時計塔の特異点―   作:りー037

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【第三十ニ片】恩師への開示 黄金の完全機構

【日時】同日 17:00

 

【場所】時計塔・現代魔術科 ロード・エルメロイⅡ世の執務室

 

窓を覆うブラインドの隙間から、夕刻の赤い光が鋭い刃のように差し込んでいる。

 

古書と安物の葉巻の匂いが染み付いた冷たい空気の中、空中を漂う埃の粒子だけが、西日を受けて緩やかに舞っていた。

 

「……単刀直入に聞く。今日の実技演習で、お前は何を使った?」

 

マホガニーの重厚なデスク越しに、ロード・エルメロイⅡ世は低く、押し殺したような声で問い詰めた。

 

組まれた両手には力がこもり、眉間には深い皺が刻まれている。

 

その瞳に宿るのは、一人の教師としての厳格な責任感と、未知の深淵を覗き込んでしまった魔術師としての、本能的な恐怖の入り交じった複雑な光だった。

 

対する竜胆茜は、来客用の長椅子に浅く腰掛けたまま、しばらく無言でⅡ世の顔を見つめ返していた。

 

表情の筋肉は一切動かず、呼吸すらも感じさせない。ただ、黒曜石のように光を吸い込む無機質な瞳が、目の前の男の『状態』を静かに読み取っている。

 

(……脈拍110。発汗量の増加。瞳孔の微細な収縮。……ロード・エルメロイⅡ世は現在、僕という存在に対して極度の警戒と、それを上回る『解明への渇望』を抱いている)

 

茜の脳内で、L3レイヤー《確定未来の選別》が静かに、そして爆発的な速度で稼働を始める。

 

この追及に対し、どう応えるのが今後の自らの『平穏』にとって最適か。

 

数秒先の、数千通りの未来の分岐が可視化され、無数のルートが計算され、棄却されていく。

 

 

『黙秘』ルート。……数日内に法政科への引き渡しのリスク増大。棄却。

 

 

『虚偽の申告』ルート。……Ⅱ世の魔術的知見を欺き切るためのリソース消費が非効率。棄却。

 

 

『敵対・逃亡』ルート。……時計塔全域を敵に回す。平穏の完全な喪失。棄却。

 

 

(……先生には、ソーホーの古書店での一件で法政科の猟犬を追い返し、僕に『デバッグのための時間』を確保してくれた恩がある。……それに、この人の『事象を論理で理解しようとする意志』は、今後の僕の観測作業において、極めて有益なバッファー(緩衝材)になる)

 

 

L3レイヤーが導き出した最適解。

 

 

それは『一部情報の開示、および恩師への感謝』だった。

 

「……先生には、お礼を言わなければならないと思っていました」

 

 

凪いだ水面のような、感情の起伏が一切ない平坦な声。

 

茜はそう言うと、右ポケットにゆっくりと手を入れ、一つの物体を取り出した。

 

 

コトリ。

 

 

静寂に包まれた執務室に、硬質な音が微かに響く。

 

茜がデスクの中央に置いたのは、掌サイズの、黄金のアーミラリー天球儀だった。

 

「な……んだ、これは」

 

エルメロイⅡ世は、息を呑み、椅子に縛り付けられたかのように硬直した。

 

ブラインド越しの赤い夕日を反射し、鈍く、しかし絶対的な威厳を持って輝く黄金の小宇宙。

 

三つの複雑な環状フレームと、内部に組み込まれた極小の遊星歯車群。それらは1ミクロンの狂いもなく、極めて静かに、完璧な角度で噛み合ったまま『静止』している。

 

魔力を放出しているわけではない。

 

だが、Ⅱ世の魔術師としての本能――長年、時計塔で無数の神秘を解体し、真理を追求してきた彼の神経が、その小さな黄金の球体から発せられる『完成された神秘』の重圧に悲鳴を上げていた。

 

それは、存在しているだけで周囲の空間の法則を「自分に都合よく定義し直している」ような、極めて不遜で冒涜的な代物。

 

 

「魔術礼装、『完成機構・黄金天球(アウルム・テレイオス)』です」

 

 

茜は、黄金から目を離せないⅡ世に向かって、淡々と告げた。

 

 

「義妹であるライネスお嬢様が所有する『月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)』を解析し、その設計思想を根本から反転させて創り上げました」

 

 

「……月霊髄液の、反転……だと?」

 

 

Ⅱ世の喉から、掠れた声が漏れる。

 

彼の恩師であり、先代のロード・エルメロイであるケイネス・エルメロイ・アーチボルトの最高傑作。それを、目の前の17歳の少年は「反転させた」と言うのだ。

 

「はい。流体による状況への即応は、非常に優れていますが、それは結果に対する『非効率な後追い』に過ぎません。……最適解とは、変化の末に得るものではない。最初から『完成された形』として、そこにあるべきなんです」

 

茜の言葉は、熱を帯びていない。狂信的な魔術師の妄言ではなく、単なる数学の公式を読み上げるような、恐ろしいほどの理性を伴っていた。

 

 

「この礼装は、天体魔術の絶対軌道、風水術の空間配置、錬金術の完全性……それらの法則を一つのOSとして統合し、周囲の事象を事前に演算して『絶対の静止(安全)』を空間に固定します。……今日の演習で、先生の不可避のトラップが消えたのも、この礼装が僕の周囲の空間に『攻撃が当たらない状態』を物理法則として固定した結果に過ぎません」

 

 

淡々と、しかし根源的な魔術のセオリーを無視した狂気的な理論。

 

Ⅱ世は葉巻を取り出すことすら忘れ、デスクの上の黄金の小宇宙に釘付けになっていた。

 

(……待機時は、静止している。動かないことが、完成の証明……。ケイネス先生の遺産を、流体の至上礼装を……この少年はたった数ヶ月で完全に解析し、凌駕し、別次元の概念兵装へと昇華させたというのか……!)

 

Ⅱ世の背筋を、冷たい汗が伝い落ちる。

 

魔術の神秘を「システム」として解体し、世界のバグを修正するツールとして再構築する。それは時計塔のどの派閥にも属さない、魔術師という定義すら逸脱した『管理者』の視座だ。

 

「ですが、安心してください。これは他者を攻撃するための戦闘兵器ではありません」

 

茜は、真っ直ぐにⅡ世の目を見た。

 

 

その無機質な瞳の奥に、初めて、微かな温度――『人間らしさ(敬意)』と呼べるものが宿った。

 

「目的はあくまで、僕自身の平穏……脳の安全を守るための、隔離砂箱(外部CPU)です」

 

「……隔離砂箱、だと?」

 

「……先生が、古書店の『事故』の際に法政科の役人を追い返してくれたおかげで、僕は誰にも邪魔されない時間を確保し、この礼装を無事に完成させることができました。……そして」

 

茜は、瞬き一つせずに、時計塔を揺るがす事実を口にした。

 

「僕の脳内に保存されていた『150年前の遺言(致命的なバグ)』を、この礼装を演算の中継地点として使うことで、ロンドンの霊脈にも、誰にも被害を出すことなく、完全に解体(デバッグ)できました」

 

「――ッ!!」

 

 

ガタンッ!!

 

 

Ⅱ世が弾かれたように立ち上がった。勢い余って、背後の重厚な革張りの椅子が床に倒れ込み、鈍い音を立てる。

 

彼の顔から血の気が失せ、唇がわなないていた。

 

「お前……! 貴様、自分が何をやったか分かっているのか!? あの特大の爆弾を、自室で、たった一人で処理したというのか!? 一歩、いや計算がコンマ一秒でも間違えば、お前の脳どころか、時計塔の半分の霊脈が吹っ飛ぶような致死の代物だったんだぞ!!」

 

激昂し、デスクに身を乗り出して叫ぶロード。

 

しかし茜は、その剣幕を前にしても涼しい顔のままだった。

 

「はい。だからこそ、計算を絶対に間違えないための絶対的な防波堤(黄金天球)が必要だったんです。……結果として、バグは消去され、残った歴史の真実は、僕の脳内の最深部ディレクトリに安全にロックされました。……時計塔の秩序は、保たれたままです」

 

 

『時計塔の秩序は保たれた』

 

 

一介の生徒が口にするには、あまりにも傲慢で、俯瞰的すぎるセリフ。

 

茜は、コトリとデスクから黄金天球を回収し、再びポケットに静かにしまい込んだ。

 

 

「先生の政治的な庇護がなければ、僕は法政科の猟犬に追われながら、無理な解体を強いられて脳を焼き切っていたかもしれない。……感謝しています、ロード・エルメロイⅡ世」

 

 

茜は立ち上がると、深く、静かに一礼した。

 

「貴方は、僕の平穏を守ってくれた、最高の教師です」

 

それは、茜という規格外の存在が発した、掛け値なしの純粋な賛辞だった。

 

一礼を終えた茜は、踵を返し、足音一つ立てずに執務室のドアへ向かう。

 

真鍮のドアノブが回され、扉が開く。

 

「……失礼します」

 

カチャリ。

 

扉が閉まる音が、夕闇に沈みかけた静寂の部屋に、ひどく冷たく響いた。

 

「…………」

 

残されたエルメロイⅡ世は、倒れた椅子を直す気力すら湧かず、デスクに両手をついて項垂れた。

 

肩で荒い息をしながら、誰もいなくなった扉を見つめる。

 

教え子からの、心からの感謝の言葉。

 

「最高の教師」。本来であれば、教育者としてこれほど誇らしく、涙が出るほど嬉しい言葉はないはずだ。

 

だが、彼の胃袋は、今まで経験したことがないほど激しい痛みで、雑巾のように捩れ上がっていた。

 

「……感謝されている。……私が庇ったおかげで、無事に済んだ、と」

 

Ⅱ世の口から、乾いた、自嘲とも絶望ともつかない笑みが漏れる。

 

「……だが、その恩返しの結果が……時計塔の根幹を揺るがしかねない、あんな規格外の概念兵装の誕生だというのか……!」

 

震える手でデスクの引き出しを開け、胃薬の小瓶を取り出す。

 

栓を抜き、水も飲まずに数錠を手のひらに出し、口に放り込んでガリガリと噛み砕く。

 

苦い粉末が口内に広がるが、胃の激痛は一向に収まる気配がない。

 

竜胆茜という特異点。

 

彼はもう、ただの優秀な生徒でも、少し変わった魔術使いでもない。

 

時計塔という千年の歴史を持つ巨大なシステムの中に完全に巣食い、誰にも気づかれないまま、静かに、そして確実に、世界を自分好みに「最適化」し続ける、恐るべき管理者(バグ)。

 

ロード・エルメロイⅡ世は、西日が完全に落ちて暗闇に沈みゆく執務室の中で、自身が抱え込んでしまった圧倒的な『異常』の重さに、ただ独り震えることしかできなかった。

 

 

 

 

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