境界の観測者 ―時計塔の特異点―   作:りー037

34 / 57
【第三十三片】獣の牙と完全食、盤上の観察者

【日時】2004年 5月某日 10:15

 

【場所】時計塔・現代魔術科(ノリッジ) 教室前の廊下

 

 

ロード・エルメロイⅡ世との、あの息詰まる演習と執務室での対峙から一夜明けた朝。

 

時計塔の石造りの廊下は、次の講義へと向かう生徒たちのざわめきと、古紙とインクの匂いに満ちていた。

 

だが、スヴィン・グラシュエートの『獣の嗅覚』は、その日常的な匂いの奥に、決定的な「異常」を嗅ぎ取っていた。

 

(……無臭だ。……おかしい。生きて呼吸をしているのに、魔力の残滓はおろか、生命活動に伴う感情の揺らぎや、因果の摩擦(匂い)すら全くしない。……こいつの周りだけ、世界が『作り物』みたいに整いすぎている……!)

 

廊下の端、窓際を歩く竜胆茜。

 

いつも通り、風景の一部に溶け込むような薄い存在感(《可変存在解像度》による潜伏状態)。

 

しかしスヴィンは、昨日エルメロイⅡ世が茜を執務室に呼び出した後、かつてないほど憔悴しきっていた姿を見ていた。

 

「――おい。新入り」

 

スヴィンが、茜の行く手を塞ぐように立ち塞がった。

 

その金色の瞳孔は、猛禽類のように細く収縮し、口元からは微かに獣の唸り声のようなものが漏れている。

 

「……何かな、スヴィン先輩」

 

茜は足を止め、平坦な声で返した。ポケットの中には手を入れたまま。

 

「……昨日、先生の部屋で何をした? お前が部屋を出た後、先生の胃袋から血の匂いがしたぞ。……お前、一体何者だ?」

 

スヴィンの両手に、青筋が浮かぶ。魔術回路が微かに励起し、彼の筋肉が獣のそれに極めて近い構造へと瞬時に変異していく。

 

廊下を歩いていた他の生徒たちが、スヴィンの放つ異様な殺気に気づき、遠巻きに後ずさった。

 

「……僕は、実技演習のレポートを提出し、少しの世間話をしただけだ。先生の胃痛は、慢性的なものだろう」

 

 

「嘘をつけェッ!!」

 

 

スヴィンが吠えた。

 

理屈ではない。彼の本能が、「この無機物は群れ(エルメロイ教室)の生態系を根本から破壊する毒だ」と告げていた。

 

スヴィンの右腕が、音を置き去りにする速度で茜の胸ぐらへと伸びる。魔術による強化を伴った、大理石をも粉砕する獣の握力。

 

 

だが。

 

 

茜は《黄金天球》を起動しなかった。

 

彼にとって、スヴィンの物理的な突進は「未来予測(L3)」を回すまでもない、極めて単調な運動エネルギーのベクトルでしかなかった。

 

(――《完全躯体制御(オートメーション・マニピュレーター)》、起動)

 

(――《事象適応》による体術データ参照。対象の重心移動、腕の筋繊維の収縮率を解析)

 

スヴィンの指先が茜のブレザーの襟に触れる、そのコンマ0.1秒前。

 

茜は自身の身体の重心を、わずか数ミリだけ斜め下へズラした。同時に、伸びてきたスヴィンの手首の外側に、自分の左手をそっと添える。

 

力は一切入れていない。ただ、スヴィンが突進してきた『巨大な運動エネルギー』の向きを、骨格のテコと円運動を利用して、流れるように横方向へと「誘導(リダイレクト)」したのだ。

 

「――なっ!?」

 

スヴィンの身体が、自分自身の突進の勢いのまま、宙を舞った。

 

掴んだはずの茜の身体はそこにはなく、まるで分厚い空気の層に腕を滑らせたような完全な空振り。

 

スヴィンは咄嗟に空中で身を捻り、四つん這いになって石畳にドンッ! と着地したが、その顔には驚愕が張り付いていた。

 

「な……んだ、今の。……魔術じゃ、ない……?」

 

「……スヴィン先輩。廊下での戦闘行為は、消費カロリーに対して得られるリターンがゼロだ。極めて非効率だよ」

 

茜は襟元を直すこともなく、無感情に見下ろした。

 

「竜胆くん! ストップ、そこまでだ!!」

 

そこへ、血相を変えたカウレスが横から割って入った。彼は両手を広げ、威嚇姿勢を解かないスヴィンと、無表情な茜の間に立つ。

 

「これ以上騒ぎを起こしたら、Ⅱ世先生の胃が本当に穴開いちゃうよ! スヴィン、君も落ち着いて! 竜胆くんは魔術を使ってない、ただ避けただけだ!」

 

 

カウレスは必死だった。彼だけは図書室の一件で、茜の魔術(論理)の底知れなさを垣間見ている。もしここで茜が本気で「デバッグ」を始めたら、スヴィンがどうなるか分からないという恐怖があった。

 

「そうだよ、ル・シアンくん! ロウ・キックの前に、まずは話し合いだよー!!」

 

遅れてフラットが駆け寄ってくる。彼はなぜか目をキラキラと輝かせ、茜を指差した。

 

「ていうか竜胆さん、今の凄かった! なんかフワッて回って、スヴィンがドーンって! 東洋の神秘ですか!? ニンジャですか!?」

 

「……ただの力学と重心移動の最適化だ。ニンジャではない」

 

 

茜は小さくため息をついた。

 

フラットの無軌道なノイズと、カウレスの理知的な仲裁。これ以上ここで時間を消費するのは、完全に『無駄』だと計算(L3が弾き出した結論)が告げている。

 

「……スヴィン先輩。先生の体調不良は、法政科との政治的な心労が原因だ。僕に噛みついても、解決にはならない」

 

「……チッ。……だが、俺の鼻は誤魔化せないからな。お前のその『何もない匂い』……絶対にボロを出させてやる」

 

 

スヴィンは低く唸りながらも、カウレスの制止とフラットの横槍に毒気を抜かれたのか、身を翻して廊下の奥へと消えていった。

 

「ごめんね、竜胆くん。スヴィンも悪気があるわけじゃないんだけど……」

 

「気にしていない。君の仲裁は、的確で助かったよ、カウレスくん」

 

 

茜は事務的にカウレスに頷くと、再び歩き出した。

 

(……だが、スヴィンの直感は厄介だ。僕の《可変存在解像度》のノイズ偽装すら、本能で違和感として抽出してくる。……日常の隠蔽プロトコルを、少しアップデートする必要があるな)

 

 

 

 

【日時】同日 19:00

 

【場所】時計塔・学生寮 竜胆茜の自室

 

 

イギリスの、特に時計塔の学生食堂の食事は、茜にとって「最大のバグ」の一つであった。

 

『……炭水化物の過多。野菜の細胞壁の破壊によるビタミンCの流失。タンパク質の熱変性による消化吸収率の低下……』

 

昼食のサンドイッチを《構造解析》した結果、茜はその絶望的な栄養効率に頭を抱えそうになった。

 

L3の未来予測や、黄金天球の維持。これらには莫大なカロリーと栄養素が必要だ。食堂の食事では、演算リソースを保つための『燃料』として純度が低すぎる。

 

「……仕方ない。自給自足(自己デバッグ)する」

 

夜。茜は自室の小さなキッチンに、買ってきた食材(ブロック肉、香草、根菜類)を並べた。

 

彼が行うのは料理ではない。「素材の持つ熱量と栄養素を、最も効率的に肉体へ吸収させるための錬金術的変換」である。

 

「《発熱励起(サーマル・エンハンス)》、起動。対象:厚手の鉄鍋」

 

茜は指先から魔力を流し込み、鉄鍋の原子の振動数を操作して熱を発生させる。ガスコンロの不安定な炎とは違う。コンマ1度単位で完璧に制御された、メイラード反応(肉の旨味成分が形成される化学反応)の最適温度。

 

そこに肉を投下する。

 

ジューッ! という音と共に、極上の香ばしい匂いが立ち上る。

 

「続いて《流体制御(フルイド・コントロール)》。肉汁の流出を防止し、内部に閉じ込める。……さらに《気圧操作(バロメトリック・シフト)》で鍋の中を微細な高圧状態にし、根菜の繊維を短時間で崩壊させる」

 

 

五大元素魔術の無駄遣い、あるいは狂気の沙汰である。

 

だが茜にとっては、これが最も合理的だった。魔力は回路からいくらでも湧くが、肉体のカロリーは外部から摂取するしかないのだから。

 

完成したビーフシチューは、見た目こそ普通だが、漂う香りは暴力的なまでの「旨味の暴力」だった。

 

茜がスプーンを取り、完璧な栄養素の塊を口に運ぼうとした、その時。

 

 

――バンバンバンバンッ!!!

 

 

ドアが、壊れるほどの勢いで叩かれた。

 

「おい新入り! 開けろ! なんだこの匂いは!! 廊下の端まで、とんでもない暴力的な匂いが漂ってきてるぞ!!」

 

スヴィンの声だった。

 

獣の嗅覚を持つ彼が、この「完璧に最適化された肉の香り」に抗えるはずがなかった。午前中の敵意など完全に消え飛び、今はただ飢えた狼としてドアを叩いている。

 

 

「竜胆さーん! オレにも! オレにもその未知の錬金術の成果(ごはん)を一口!!」

 

 

フラットの声も混ざる。

 

さらには。

 

「……ちょっと、そこの野犬共、騒々しいですわよ! ……ですが、確かにこの香り……我がエーデルフェルトの専属シェフのブイヨンに匹敵する、いえ、それ以上の……ゴホン。とにかく開けなさい、竜胆茜!」

 

 

なぜか男子寮にいるはずのないルヴィアの声まで聞こえてきた。

 

 

(……エラー発生。……栄養価と香りの出力を上げすぎた結果、周囲のノイズ(空腹の魔術師たち)を過剰に惹きつけてしまった。……これも、立派な計算ミスか)

 

 

茜はため息をつきながら、L3で「ここで無視した場合にドアが破壊される確率」を計算した。結果は98%。

 

仕方なく、茜はロックを解除した。

 

雪崩れ込んでくるスヴィンとフラット、そして優雅さを装いながらも視線が鍋に釘付けのルヴィア。

 

「……おかわりは無いからね」

 

完璧な平穏(食事タイム)は、完全に騒がしいノイズによって食い破られた。茜は、自分用に確保したシチューを無表情に口に運びながら、次からは換気扇の気圧も《風》の魔術で制御しようと、静かに自己のプロトコルを修正していた。

 

 

 

 

【日時】2004年 5月某日 14:00

 

【場所】時計塔・第12部門:現代魔術科(ノリッジ) 廊下

 

 

昨夜の自室での「自炊騒動」により、スヴィンたちの乱入を許してしまった竜胆茜は、今日こそ完璧な平穏を死守すべく、午後の講義を終えると足早に学生寮へと向かっていた。

 

(……カロリー計算に基づき、今日の夕食は《物質結晶化》で細胞壁を強化した根菜のポトフとする。匂いの漏洩は結界で完全に遮断し、ノイズの接近を事前に――)

 

L3レイヤーで夕食の完璧な調理・防衛プロトコルを構築していた茜の足が、ピタリと止まった。

 

石造りの廊下の先。

 

古びた柱の影から、音もなく滑り出てきたのは、銀色に輝く流体金属のメイド――至上礼装『月霊髄液(トリムマウ)』だった。

 

「……」

 

トリムマウは無機質な水銀の顔を茜に向け、恭しくカーテシー(お辞儀)をする。

 

その手に握られていたのは、豪奢な金箔押しの封筒だった。

 

(……ライネスお嬢様の使いか。……エラー発生。昨日、エルメロイⅡ世の執務室で僕が『黄金天球』を開示した影響が、早くも義妹(こちら)に波及したらしい)

 

茜はため息を飲み込み、封筒を受け取った。

 

中には、香水の匂いが染み付いた便箋が一枚。

 

『今日の15時、私のサロンへ来たまえ。――ギアス・スクロールの条項に基づく、正式なティータイムの招待だよ』

 

(……あの時のギアスか。『私とエルメロイ教室に不利益をもたらさないこと』。……ティータイムの拒絶が不利益に当たるとは思えないが、彼女の機嫌を損ねる方が、結果的に膨大な政治的ノイズを生む。……行くしかないか)

 

茜は封筒をポケットにしまい、トリムマウの後を追って方向を転換した。

 

彼の脳内ではすでに、ライネスが「何を聞き出そうとしているのか」、それに対する最適解のシミュレーションが数千通りも回り始めていた。

 

 

 

 

 

【日時】同日 15:00

 

【場所】ロンドン高級市街地・ライネスのプライベートサロン

 

ロード・エルメロイⅡ世の義妹、ライネス・エルメロイ・アーチゾルテ。

 

彼女は、自身のプライベートサロンの豪奢なソファに深く腰掛け、目の前に座る少年――竜胆茜を、サディスティックな好奇心に満ちた瞳で観察していた。

 

テーブルの中央には、大理石でできたチェス盤が置かれている。

 

「――来てくれたね、我が兄上の『お気に入り』の生徒殿」

 

ライネスが、蠱惑的な笑みを浮かべて紅茶のカップを置いた。

 

「今日君を呼んだのは他でもない。……数日前、君を執務室に呼んだ後、我が兄上がかつてないほどの胃痛で倒れ伏してね。胃薬を噛み砕きながら『エルメロイの流体操作を』だの『時計塔のバグが』だの、うわ言のように呟いていたんだ」

 

 

ライネスの燃えるような瞳が、茜を射抜く。

 

 

「……2月の夜、君は私の部屋でトリムマウを見つめ、『この流体術式のコードをパクらせてもらう』と言い放ったね。……どうやら君は本当に、私のメイドを参考にして、兄上の胃を破壊するほどの『劇薬(礼装)』を創り上げたらしいじゃないか」

 

ライネスは扇をピシャリと閉じ、茜に身を乗り出した。

 

 

「ギアス・スクロールの契約者として命ずるよ。……その『劇薬』の中身、私にも見せてくれないか?」

 

(……やはり、黄金天球の開示要求か)

 

茜は紅茶のカップを手にしたまま、感情の読めない声で平然と嘘をついた。

 

「……申し訳ありませんが、ライネスお嬢様。あの礼装は極めてデリケートな論理で構成されており、現在メンテナンス中です。物理的にお見せすることはできません」

 

「はは、白々しい。まぁいい。無理矢理ポケットを探って『事故』を起こされても困るからね」

 

 

ライネスが、チェスの白のポーンを一つ進めた。

 

 

「言葉や実物で語らないなら、盤上でみせてもらおうか。……手合わせをしよう、竜胆茜。君がトリムマウの思想をどう『成立』させたのか、君の頭の中の論理(ロジック)を、この盤上で解剖させてもらうよ」

 

 

(……断ることは不可能。ここで情報を完全に遮断すれば、彼女はあらゆる手段で僕の平穏を脅かしに来る。……最適解は、礼装の実物は秘匿しつつ、『概念』だけをチェスの盤上で提示し、彼女の好奇心を満たして手を引かせること)

 

 

茜は黒のポーンを進め、ゲームを開始した。

 

パチン、パチンと、大理石の駒が打たれる音がサロンに響く。

 

ライネスのチェスは、彼女の性格そのものだ。狡猾で、相手の退路を執拗に断ち切りながら、じわじわと真綿で首を絞めるような猛攻。

 

「……兄上から断片的に聞いたよ。君は流体の『即応』を否定し、最初から『完成された形』を『固定』する道を選んだそうじゃないか」

 

 

ライネスがビショップを滑らせ、茜のナイトを脅かす。

 

 

「だが、そんな『机上の空論』が実戦で通用するのかい? 相手の動きに合わせて変化するトリムマウの汎用性に、固定された機構が勝てるとでも?」

 

 

茜は表情一つ変えず、クイーンを極めて奇妙な位置――一見すると何の防御にもなっていない、盤面の端へと移動させた。

 

 

「……トリムマウは『相手が動いてから、それに合わせて形を変える』、とても素晴らしい設計思想といえるでしょう…」

 

 

パチン、と茜が駒を置く。

 

 

『ですが、それは後手です』

 

 

パチン、とライネスが駒を動かす

 

 

「僕の論理は違います。……『相手が動く前に、相手の動きが完全に無意味になる状態を、あらかじめそこに置いておく』んです」

 

 

その直後。

 

 

ライネスが「決め手」として動かそうとしたルークの先には、先ほど茜が「無意味な位置」に動かしたはずのクイーンの射線が、完全にクロスしていた。

 

ライネスがどう足掻いても、次の一手で自らの首を絞める形が、数手前からすでに「完成」していたのだ。

 

 

「……ッ!」

 

ライネスの眉が、不快げに顰められる。

 

(……おかしい。私の攻めが、すべて『見えない壁』に激突している……? いや、違う。私が攻めようとした座標には、必ずこいつの駒が『最初から置いてある』んだ……!)

 

 

茜の脳内では、《確定未来の選別(L3)》がフル回転していた。

 

ライネスが次にどこへ駒を動かすか、数千通りの分岐がすでに茜の脳内で「観測済みのログ」として処理され、その情報を元に、茜は『絶対防御の布陣(ステラ・バリア)』をチェス盤の上に構築し続けていた。

 

 

「……君。……一体、何を視ているんだ?」

 

 

三十手を超えたあたりで、ライネスの口調から余裕が消えた。

 

彼女は今、トリムマウの流体が及ばない「事象の先行固定」というバグの恐ろしさを、盤上で直接味わっていた。

 

「盤面を視ていますよ。……素晴らしい攻めです。防戦一方で、手も足も出ません」

 

茜は平然と、しかし駒を動かす手は1ミリの狂いもなく最適解を打ち続ける。

 

そして、五十手目。

 

「……王手(チェック)。ですが、これ以上は互いに動かせませんね。千日手(ステイルメイト)……引き分けです」

 

茜が黒のキングを動かし、盤面は完全に膠着した。

 

ライネスの白の駒は圧倒的に多いが、どう動かしてもキングを取れず、ルールの制約上、ゲームは引き分けで終了する。

 

「…………」

 

ライネスは、その完璧に構築された「引き分けの盤面」を、戦慄の入り交じった瞳で見つめた。

 

偶然の引き分けではない。

 

最初からこの結末に持っていくために、竜胆茜は全ての駒をコントロールし、ライネスの思考すらも計算に組み込み、**『敗北が存在しない完成形』**を盤上に固定したのだ。

 

これが、トリムマウを反転させた礼装の正体。

 

戦うのではなく、結果を先に定義するシステム。

 

「……恐ろしい男だね、君は」

 

ライネスは、パタンと扇子を閉じた。彼女の額には、微かな冷や汗が滲んでいた。

 

「義兄上が胃を痛める理由が、完全に理解できたよ。君には……魔術師としての『欲』がない。ただ、世界を自分の手の上で弄り回して、最後に一番安全な場所に自分を置くことしか考えていない」

 

「過分な評価です。ライネスお嬢様」

 

茜は立ち上がり、静かに一礼した。

 

「……少しは、僕の頭の中(ロジック)を、お見せできたでしょうか?」

 

「ああ。胸焼けがするほど十分に見せてもらったよ。……今日はもう帰りたまえ。これ以上君と盤を挟むと、私の胃までおかしくなりそうだ」

 

「お手柔らかにお願いします。これである程度の義理は果たしました。……ギアスによる束縛はこれにて破棄(デバック)いたします。」

 

 

茜はサロンを後にした。

 

 

(……ギアスを盾に情報を要求されたが、チェスによる『概念の提示』だけで満足させられた。物理的な礼装の情報は守り抜いた。……最適解だ)

 

 

 

 

残されたライネスは、静止したままのチェス盤と、背後のトリムマウを交互に見つめ、小さく息を吐いた。

 

「……トリムマウ。あれは、私たちが飼いならせるようなバグじゃない。……兄上が庇うなら手は出さないが、決して目を離してはいけないよ」

 

時計塔の日常という名のノイズの中で、茜の特異性は、確実にその輪郭を際立たせ始めていた。

 

 

 

 

 

 










  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。