境界の観測者 ―時計塔の特異点―   作:りー037

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【第三十四片】ユリフィスの依頼、幽霊演算機

【日時】2004年 6月某日 22:15

 

【場所】時計塔・現代魔術科 ロード・エルメロイⅡ世の執務室

 

6月のロンドンには珍しく、湿り気を帯びた空気が夜の帳に淀んでいた。

 

執務室の空気は、安物の葉巻の煙と、積み上げられた古書のパピルスが放つ微かな埃の匂いで満ちている。

 

ロード・エルメロイⅡ世は、山積みのレポートから顔を上げ、深く息を吐いた。

 

「……それで。降霊科(ユリフィス)の重鎮にしてロード代理たる貴方が、わざわざこんな薄暗い執務室まで、深夜に何の御用かな。ロッコ・ベルフェバン卿」

 

執務室の来客用の長椅子に、老魔術師が静かに腰を下ろしていた。

 

ロッコ・ベルフェバン。時計塔の保守派を体現するような厳格なローブを纏いながらも、その瞳には政治的なしたたかさと、極めて現実的な判断力が宿っている。共に「ロード代理」という重責を担う者として、Ⅱ世とは決して相容れない思想を持ちつつも、奇妙な同情と評価を共有する間柄だった。

 

「相変わらず、紙の海に溺れているようだな。エルメロイⅡ世」

 

ロッコの声は、枯れ葉が擦れるような乾いた響きを持ちつつも、そこに敵意はない。彼はⅡ世の分析能力を高く評価しており、こうして直接足を運ぶほどの柔軟性も持ち合わせていた。

 

「嫌味を言いに来たわけではない。……君の、その『解体』の知恵を借りたい案件があってな」

 

「……ユリフィスが、私の知恵を? 奇妙な話だ。貴方たちの科には、優秀な降霊術師たちが腐るほどいるでしょう」

 

ロッコは苦々しく顔を顰め、懐から一葉の「霊的記録(ログ)」が刻印された羊皮紙を取り出し、デスクへ滑らせた。

 

 

「その優秀な魔術師たちが、手も足も出ない状況なのだ。……呪いでも、物理的な魔術障壁でもない。あれは、時計塔の物理法則そのものを食い破りかねない『エラー』だ」

 

Ⅱ世が羊皮紙を手に取り、僅かに魔力を通した瞬間。

 

 

彼の表情が、驚愕と、そして吐き気を催すような深い嫌悪感に染まった。

 

「……っ、これは。死者の霊的記録を……並列化して計算(演算)に用いているのか? ユリフィスの過激派が、ついにアトラス院の禁忌を霊的に再現しようとしたというのか」

 

 

「『幽霊演算機(ゴースト・プロセッサ)』。過去の天才魔術師たちの魂の残滓を繋ぎ合わせ、一つの巨大な思考基盤とする試みだ。我々主流派の目を盗み、地下の第零実験場で組み上げられていた」

 

ロッコは葉巻の煙を嫌うように、微かに手を振った。

 

「だが、試作機の一つが、演算の過程で『人類が定義できない死の概念』の計算ループに陥った。現在は地下の隔離領域を侵食し、周囲の空間そのものをデリート(消去)し続けている。……力任せの魔術で破壊しようにも、近づいた者の存在確率そのものを『演算エラー』として消し去るのだ。君の知恵で、このシステムを止める方法を導き出してほしい」

 

「存在のデリート、か。……正気の沙汰じゃない」

 

Ⅱ世は胃のあたりを強く押さえた。

 

魔術の神秘を暴走させ、周囲の因果を書き換える論理の塊。通常のアプローチでは、結界を張ろうと詠唱しようと、術式を構築する前に「術者自身がなかったこと」にされてしまう。

 

(……待てよ。因果の書き換え。結果の先行。……空間座標の絶対的な固定……)

 

Ⅱ世の脳裏に、数日前にこの部屋で「黄金の天球儀」を提示し、狂気的な最適化理論を淡々と語った少年の顔がフラッシュバックした。

 

「……ベルフェバン卿。状況は理解しました。この案件、私が引き受けましょう」

 

Ⅱ世は羊皮紙をポケットにねじ込んだ。

 

「だが、私の解体理論を実証するために、一つ条件がある。……私の教室の生徒を一人、助手として連れて行く。現場の最前線に立たせるための『盾』としてね」

 

ロッコは少し驚いたように眉を上げたが、すぐに頷いた。

 

「君がそう判断するなら構わん。君の『教え子』の優秀さは、身をもって知っているからな。……頼んだぞ、エルメロイⅡ世」

 

老魔術師が執務室を去った後。

 

Ⅱ世は引き出しから胃薬を掴み出し、口に放り込んだ。

 

「……まさか、自分からあのバグ(竜胆茜)に頼る日が来ようとはな。……だが、論理の暴走を止めるには、より凶悪な論理をぶつけるしかない」

 

 

 

 

 

【日時】同日 22:45

 

【場所】学生寮 竜胆茜の自室前

 

茜は、自室のベッドで横になりながら、L3レイヤー内で《関係性抽象式》の最適化シミュレーションを回していた。

 

しかし、ドアの向こうから近づいてくる、ひどく重苦しい「胃薬とストレスの匂い」に気づき、静かに目を開ける。

 

(……ロード・エルメロイⅡ世。脈拍に乱れ。足取りに焦燥感。……この時間に僕の部屋を訪れる確率は、通常の学園生活においては0.02%未満のはずだが)

 

コンコン、と控えめなノック。

 

茜がドアを開けると、そこには深い隈を作った恩師が立っていた。

 

「……こんばんは、先生。僕の提出したレポートに、何か致命的なエラーでもありましたか?」

 

茜は感情のない声で尋ねた。

 

「いや、君のレポートは相変わらず不気味なほど完璧だ。……竜胆、単刀直入に言う。君のその『黄金天球』と、事象を固定する論理を貸してほしい」

 

Ⅱ世の言葉に、茜は微かに首を傾げた。

 

Ⅱ世は懐から、先ほどロッコから受け取った羊皮紙を取り出し、茜に見せた。

 

「降霊科から持ち込まれた厄介事だ。……地下実験場で『幽霊演算機』が暴走し、周囲の空間と因果をデリートしている。私はこの演算の基盤を解体する論理を組むが……現場に近づくには、私の存在が消去されるのを防ぐ『絶対の固定』が必要だ」

 

 

茜の瞳の奥で、<<構造解析>> の青白い光が瞬いた。

 

 

羊皮紙に残された魔力の残滓を読み取り、数秒で事態の深刻さをパーセンテージとして弾き出す。

 

「……霊的記録を基盤としたエラーの無限ループですか。放置すれば、ノリッジの霊脈を含む時計塔の基礎構造が、3日以内に論理崩壊を起こす確率が88%を超えますね」

 

「……見ただけでそこまで分かるのか。」

 

Ⅱ世は苦々しく頷いた。

 

茜は、ポケットの中の『黄金天球』に指先で触れた。

 

(……先生の依頼を断ることは可能だ。だが、時計塔の霊脈が崩壊すれば、僕の《環境並列演算網》のインフラが破壊され、平穏が失われる。……ここで先生に借りを返しつつ、幽霊演算機の暴走をデバッグするのが、最も合理的な選択)

 

 

「……分かりました、先生。同行します」

 

 

茜は上着を羽織り、極めて事務的な口調で告げた。

 

「僕の礼装で、先生の周囲の空間座標と存在確率を『デリート不可能な状態』として固定します。その間に、先生が中枢の論理を解体してください」

 

「恩に着る、竜胆。……だが、相手は死者の怨念を束ねた論理の化け物だ。君の礼装でも、どこまで耐えられるか……」

 

「問題ありません。相手がどれほど高度な計算を回そうと、僕の礼装(システム)が定義した『静止』を上書きすることは不可能です」

 

茜は無表情のまま、恩師と共に夜の廊下へと歩き出した。

 

時計塔の地下深く。

 

通常の魔術師では決して太刀打ちできない「因果の消失」というバグに対し、世界を書き換える少年の無音の蹂躙が、始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

 




礼装を製作が一段落したので、新たな話にいきます!
お楽しみに!

コメント評価あらためてありがとうございます!
ここからも頑張っていきます!
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