境界の観測者 ―時計塔の特異点―   作:りー037

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【第三十五片】存在の欠落、墓守の共鳴

【日時】2004年 6月某日 23:10

 

【場所】時計塔・現代魔術科 学生寮前

 

「……グレイも連れて行く。霊的な変異が起きている以上、彼女の……いや、アッドの力が必要不可欠だ」

 

エルメロイⅡ世はそう言い残し、茜を伴って学生寮の静かな一角へと足早に向かった。

 

茜は、ポケットの中で冷たく、完璧な静止を保つ『黄金天球(アウルム・テレイオス)』の重みを感じながら、師の背中を追う。

 

コツ、コツと、Ⅱ世が慣れた手つきでドアを叩く。

 

「……はい、師匠」

 

扉はすぐに開いた。そこに立っていたのは、すでに灰色の外套(クローク)を纏い、いつでも戦地へ赴く準備を整えていた少女――グレイだった。彼女の感受性は、すでに時計塔の地下から這い上がってくる「死者たちの異常な悲鳴」を嗅ぎ取っているのか、その顔色はひどく青ざめている。

 

「遅くなってすみません。……地下の鳴動が、ここまで響いています。あれは……」

 

「ああ、降霊科(ユリフィス)の暴走だ。死者の霊的記録を部品にした演算機が、現実をデリートし始めている」

 

Ⅱ世が端的に告げると、グレイの視線がその隣に立つ茜へと向けられた。

 

フードの奥で、彼女の瞳がわずかに揺れる。ウェールズのあの洋館で、三百年の歴史を「ゴミ箱」に捨てるように初期化した少年の姿が、彼女の脳裏に過ったのかもしれない。

 

「……竜胆さんも、一緒なんですね」

 

「効率の問題ですよ、グレイさん」

 

茜は淡々と一礼した。

 

「僕の礼装で空間を固定し、君がその隙に物理的にデバッグ(刈り取り)を行う。……ウェールズでの再現(リプレイ)です。計算上、これが最も生還率が高い」

 

「ヒィィィハァァァ!! またこの『解体魔』と一緒かよ!!」

 

グレイの右手に握られた鳥籠の中から、耳を塞ぎたくなるような陽気で悪趣味な叫び声が響いた。

 

封印礼装『アッド』。その擬似人格は、檻の中でガチガチと激しく揺れながら、茜を忌々しげに睨みつける。

 

「おいエルメロイの! 俺様はこいつの隣にいるだけで、自分のネジが一本ずつ抜かれていくような気がするんだよ! 死んでるくせに腐りもしねえ、時間が止まった黄金の匂い……! こいつのそばにいると、俺様の自意識までバグっちまいそうだぜェ!」

 

「……相変わらず騒がしいですね、アッド。君のその『怯え』という感情ログは、演算リソースの無駄だ。……必要なら、今度こそその擬似人格のパッチを剥がして、純粋な『出力装置』として再構築(フォーマット)してあげましょうか?」

 

「――ヒィッ!? ほら見ろ! 笑顔でOSの書き換えを提案してきやがったぞ、この化け物!!」

 

アッドは文字通り「口を閉ざして」鳥籠の奥に丸まった。

 

「……竜胆、アッドをあまり虐めるな。……行くぞ。最悪の『バグ取り』になる」

 

 

 

 

 

 

【日時】同日 23:45

 

【場所】時計塔・地下深層 第零実験場前

 

螺旋階段を下りるにつれ、周囲の空気は物理的な重さを伴う冷気へと変わっていった。

 

そこはもはや、通常の「地下」ではなかった。

 

石造りの通路の壁面が、まるでデジタル画像のノイズのように、真四角に『欠落』している。削られたのではない。その部分だけ、最初からこの宇宙に存在しなかったかのように、虚無の黒が口を開けていた。

 

「……師匠、止まってください。これ以上は……」

 

グレイが震える声で警告を発した。

 

彼女の足元、わずか数センチ先。通路は唐突に途切れ、底の見えない『穴(グリッチ)』が広がっている。

 

「……空間情報のデリート。物理法則の強制書き換えか」

 

Ⅱ世が胃のあたりを強く押さえた。通常の魔術師であれば、この虚無に触れた瞬間に存在そのものが「なかったこと」にされるだろう。

 

「……問題ありません。僕の隣にいてください」

 

茜は無表情のまま、一歩前に出た。

 

右手をポケットに入れ、黄金天球の第一環を『ロック』する。

 

(――起動。《ステラ・バリア(固定結界展開)》)

 

カチリ、と小さな音が響いた瞬間。

 

茜の足元から、黄金の光を伴う幾何学的な紋様が波紋のように広がった。

 

それは周囲の「欠落した空間」を修復するのではない。

 

『この座標には、石の床が存在する』という定義を、黄金の歯車が噛み合うことで無理やり現実に固定(ロック)したのだ。

 

「……歩いてください。安全です」

 

茜は、虚無が広がっていたはずの空中へ、何事もなかったかのように足を踏み出した。

 

何もないはずの空間に、茜の靴音が「カツン」と硬質に響く。

 

透明だが、絶対に壊れない『存在の床』。

 

「……相変わらず、無茶苦茶な論理だ。世界を騙すのではなく、世界に自分の正解を叩きつけて固定しているのか……」

 

Ⅱ世は戦慄しながらも、茜が作り出した黄金の道を進んだ。

 

「ヒィィ……。俺様の感覚だと、ここは『存在しねえ場所』なのに、なんで踏めるんだよ……。気持ち悪ィ、最高に気持ち悪ィぜ!」

 

 

 

 

 

 

【日時】同日 24:00

 

【場所】 時計塔地下・第零実験場:魂の水槽(アクアリウム)

 

隔離扉の残骸を潜り抜けた先、そこはもはや時計塔という建造物の内側ですらなかった。

 

漆黒の闇に包まれた巨大な円筒状の広間。その中央に、周囲の空間を歪ませるほどの質量を持って鎮座しているのは、直径5メートルを超える巨大な円柱形の「水槽」だった。

 

中を満たしているのは水ではない。降霊科が何世紀にもわたって収集し、非人道的な処理を施して情報の最小単位にまで還元した――数百人分もの「死者の霊的記録(ログ)」の奔流だ。

 

「……あ……あああああ……っ!!」

 

 

一歩踏み出した瞬間。

 

 

グレイが、まるで頭を割られたかのような悲鳴を上げ、その場に膝から崩れ落ちた。

 

細い両手で耳を強く塞ぎ、身体を丸めて震わせる。外套(クローク)のフードが脱げ、露わになった彼女の顔は、苦痛によって無惨に歪んでいた。

 

「グレイ! しっかりしろ!!」

 

エルメロイⅡ世が咄嗟に彼女の肩を抱き寄せる。だが、彼の手もまた、目に見えるほど激しく震えていた。

 

彼の魔術師としての卓越した視力は、水槽の中で起きている「地獄」を克明に映し出していた。

 

水槽の中を走る無数の光の線。それは、数百の魂が無理やり結び合わされ、一つの巨大な「神経網(ニューラル・ネットワーク)」として再構築された光景だ。

 

それらは個としての名前も、記憶も、尊厳も奪われ、ただ周囲の現実を消去するための演算回路(プロセッサ)として、永遠に等しい苦痛の火花を散らし続けている。

 

「……師匠……ひどい、です。みんな……強制的に、計算させられてる……。自分が誰だったのか、どうして死んだのかさえ……忘れさせられて……。ただ、『消えろ』っていう……冷たい答えを出すためだけに……っ!!」

 

 

グレイの霊的な感受性は、この演算機の「基板」にされた魂たちの断末魔を、ダイレクトに、そして同時並行的に受信してしまっていた。彼女の目からは、止まることのない涙が溢れ、石畳を濡らしていく。

 

 

効率の天秤

 

 

「……なるほど。これが『幽霊演算機(ゴースト・プロセッサ)』の全容ですか」

 

激しい悲鳴が響き渡る中、竜胆茜だけが、その地獄をまるで「出来の悪い回路図」でも見るような無機質な瞳で見つめていた。

 

彼の瞳の奥では、<<構造解析>> がフル稼働し、水槽内の魔力フローを冷徹にデータ化していく。

 

茜にとって、そこに浮かんでいるのは「悲鳴を上げる人間」ではない。

 

入出力の整合性が取れていない、極めて非効率な論理回路に過ぎない。

 

「……グレイさん。君の現在のバイタルと精神波形を解析しました。このままだと、演算機から逆流する精神汚染により、君の自我領域は3分以内に修復不可能なレベルで損壊(クラッシュ)します」

 

茜は、膝をつくグレイを淡々と見下ろした。

 

彼の声には、嘲笑も、同情も、そして怒りすらない。ただ、事実を事実として述べるだけの、絶対的な平坦さ。

 

「……提案(プロポーザル)です。君の現在の『悲痛』は、演算効率を著しく下げる。致命的なエラー要因(ノイズ)だ。許可をくれれば、君の受覚神経の特定周波数を、僕の《関係性抽象式》で一時的に遮断(ミュート)します」

 

茜は右手をポケットに入れたまま、もう片方の手を、差し伸べるというよりは「修理」を申し出るようにグレイへ向ける。

 

「……悲鳴も、痛みも、共感も。すべてを一時的に数式として相殺し、感覚の外部へパージします。……そうすれば、君は何も感じることなく、ただ『標的を刈る』ためだけの効率的な機械として動けるようになる。……どうしますか?」

 

 

人間という名のバグ

 

 

「……ふざけるなッ!! 竜胆、貴様ァ!!」

 

エルメロイⅡ世の怒声が、実験室の冷たい空気を切り裂いた。

 

グレイを抱きかかえたまま、Ⅱ世がこれまでにないほどの激昂を露わにし、茜を睨みつける。その瞳は、教師としての厳しさと、一人の人間としての激しい憤りに燃えていた。

 

「彼女は……グレイは、その痛みを感じてしまうからこそ、死者を看取り、導くことができる墓守なんだ! その感覚を『効率』のために奪うことは、彼女の魂を……この醜悪な演算機の部品にするのと何ら変わりはない!!」

 

 

「…………。」

 

 

茜は、初めて不思議そうに首を傾げた。

 

その仕草は、どこまでも純粋で、それゆえに狂気的だった。

 

「……理解できません、先生。現在の彼女は機能不全に陥っている。このノイズを除去し、生存率を最大化することが、この場における最優先事項のはずです。……今現在、感情という、制御不能で不安定な変数(パラメータ)を維持しておくメリットが、僕の計算には1ミリも見当たりません」

 

 

茜にとって、その論理は完璧かつ正統だった。

 

 

論理的に考えれば、グレイの感覚を麻痺させることは、この危機的状況を突破するための最短距離だ。今現在、一歩間違えば自分達もあの演算機の仲間入りをしてしまう、そんな状況なのだから。

 

 

だが、Ⅱ世はデスクを叩くような勢いで、茜に言葉を叩きつけた。

 

 

「メリットがあるかないかじゃない!! ……それが、人間であるということなんだ! 悲鳴を聞いて胸を痛め、立ち上がれなくなるほどの重荷を背負いながら、それでも一歩を踏み出す……。その不合理な『バグ』こそが、我々が守るべき神秘の本質だろ!!」

 

 

茜は無言で、その恩師の激昂を観測し続けた。

 

茜の <<疑似魔術基盤 Ver.6.2>> と、エルメロイⅡ世が守り抜こうとする 「魔術師としての誇り」。

 

 

論理と倫理が、崩壊しゆく地下室で激しく火花を散らす。

 

その間も、幽霊演算機の咆哮は止まらない。

 

魂の水槽(アクアリウム) の輝きが増すごとに、周囲の壁が、空気が、そして三人の『存在』が、因果の穴へと引きずり込まれ、じわじわと消去され始めていた。

 

 

 

 

 

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