境界の観測者 ―時計塔の特異点―   作:りー037

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【第三十六片】非効率な変数、論理の激突

【日時】2004年 6月某日 24:02

 

【場所】時計塔・地下最深部:第零実験場・演算機中枢

 

 

「メリットがあるかないかじゃない!! ……それが、人間であるということなんだ!」

 

ロード・エルメロイⅡ世の血を吐くような絶叫が、死者たちの怨嗟が渦巻く地下空間に響き渡った。

 

それは、魔術師としては致命的なまでの『甘さ』であり、竜胆茜の構築する絶対的な効率(ロジック)から見れば、ただの「排除すべきエラー要因」でしかない。

 

 

だが。

 

 

茜は、無機質な瞳で恩師の激昂と、膝をついて泣き崩れるグレイの姿を、コンマ数秒の間に数千回にわたって観測・再計算した。

 

 

(……ロード・エルメロイⅡ世の精神状態、極めて不安定。グレイの受覚ミュートを強行した場合、Ⅱ世との間に決定的な信頼の断絶(エラー)が生じる。……今後の学園生活における『平穏』を維持するための計算式において、それは看過できないリスクだ)

 

 

茜の脳内――《確率演算(アリスマティック・プロセッサ)》が、即座に新しいアルゴリズムを構築する。

 

 

「効率」という絶対の真理に、「エルメロイⅡ世の倫理」という極めて非効率で不合理な変数(パラメータ)を代入し、再計算(リコンパイル)。

 

導き出された新しい解は、茜の通常運転からは考えられないほどに『泥臭い』ものだった。

 

「……了解しました、先生。ミュート(遮断)の提案は取り下げます」

 

 

茜は右手をポケットに入れたまま、左手をグレイへとかざした。

 

「代わりに、彼女の『結果』だけを保留します。――展開。《局所確率遅延(ローカル・プロバビリティ)》」

 

 

カァン……!

 

 

茜の指先から放たれた不可視の波紋が、グレイの肉体と精神をすっぽりと覆い隠した。

 

瞬間、グレイを苛んでいた「精神汚染による自我の崩壊」というプロセスが、まるでビデオのポーズボタンを押されたかのように、ピタリと『未確定』の領域へと宙吊りにされたのだ。

 

「あ……え……?」

 

グレイが、涙で濡れた顔を上げる。

 

 

死者たちの悲鳴は、依然として彼女の鼓膜と魂を激しく打ち据えている。苦痛はある。悲しみも、絶望も、すべてを等しく感じている。しかし、「心が壊れる」という決定的な結果だけが、世界から一時的に拒絶されていた。

 

「……グレイさん。君は今、どれほど悲鳴を聞いても、心が壊れることはありません。結果を先送りにしたからです」

 

茜は淡々と、しかし決定的な命令として告げた。

 

 

「だから、泣きながらでもいい。その箱の封印を解いて、前の物理防壁(水槽のガラス)を叩き割ってください。……それが、先生の望んだ『人間としてのやり方』です」

 

「……っ!」

 

グレイの瞳に、強い光が宿った。

 

痛みに耐えかねて震える足に力を込め、彼女はゆっくりと立ち上がる。その右手には、封印礼装『アッド』が固く握りしめられていた。

 

「ハッ! 最高に胸糞悪い理屈だが、上等じゃねえか!! 行くぜグレイ!!」

 

「……はいっ!! 『擬似神核(ぎじしんかく)――展開』!!」

 

グレイの魔力が爆発的に膨れ上がり、右手の鳥籠が禍々しい死神の大鎌(グリム・リーパー)へと変貌を遂げる。

 

彼女は涙を流しながらも、一切の迷いなく、巨大な演算機の水槽へと地を蹴った。

 

 

それと同時に。

 

茜は《黄金天球》の歯車を回し、L2レイヤーのもう一つの術式を、部屋全体へと広域展開した。

 

「《因果遅延起動(ディレイ・カウザリティ)》――出力最大。対象:幽霊演算機の『存在消去』プロセス」

 

 

バチィッ!!

 

 

部屋の壁や空気を侵食し、三人の存在確率を「ゼロ」へと書き換えようとしていた演算機の論理が、茜の放った因果の遅延と激突し、火花を散らして『停止』した。

 

 

消去が防がれたわけではない。消去されるタイミングが、強引に『未来』へとズラされたのだ。

 

「……先生。演算機の消去プロセスが確定するまで、強制的に『300秒』の猶予を作りました」

 

茜は、額に微かな汗を滲ませながら――L2の広域展開と《局所確率遅延》の二重維持という、凄まじい演算負荷に耐えながら――恩師を振り返った。

 

「5分です。その間に、先生の『人間的で非効率な解体魔術』で、あの水槽の中枢を止めてください。……僕からの、最大の歩み寄り(譲歩)です」

 

「……竜胆」

 

 

Ⅱ世は目を見張り、そして、深く、力強く頷いた。

 

 

「……十分すぎる。5分で、この悲劇(システム)を終わらせる!!」

 

恩師と弟子が、それぞれに駆け出す。

 

グレイの大鎌が、水槽を守る分厚い魔力防壁と物理ガラスを、悲鳴を上げながら叩き割る。

 

「ハアアアアッ!!」

 

ガシャァァァン!! という轟音と共に、水槽が破裂し、死者のログを繋ぎ止めていた霊水が津波のように溢れ出した。

 

 

その隙間を縫うように、Ⅱ世が水槽の中枢基盤へと肉薄する。

 

 

「五大元素の配列、属性の反転、死霊魔術の基盤解体……!」

 

Ⅱ世の口から、流麗かつ精密な解体呪文が紡がれ、水槽のコアに向けて魔力(デバッガ)が打ち込まれる。

 

通常であれば、これで霊的な結合は崩壊し、演算機はただのゴミの山と化すはずだった。

 

 

だが。

 

 

(――Error. 術式解体、無効)

 

 

「な……っ!?」

 

Ⅱ世が驚愕に目を見開く。

 

彼が打ち込んだ解体の術式は、コアに触れた瞬間に「理解不能な論理の壁」に阻まれ、霧散してしまったのだ。

 

「……先生、下がってください」

 

後方で空間を維持していた茜の声が、一段と低く、冷たくなった。

 

茜の《構造解析》と《因果ログ解析》が、水槽のコアの深奥部にある『真のOS』を完全に読み解いていた。

 

 

「……やはり。この演算機の根幹は、ユリフィスの降霊魔術などではない」

 

茜の視界に映っていたのは、霊的な怨念などではない。

 

極めて無機質で、冷徹で、そして圧倒的に洗練された「数学的論理の塊」。

 

 

それは、世界そのものの終焉を計算するために作られた、アトラス院の錬金術師たちが用いる『分割思考』のソースコードだった。

 

 

 

 

「……死者の魂は、ただの動力源(バッテリー)に過ぎない。この演算機の正体は、何者かが仕掛けた『論理爆弾(ロジック・ボム)』です。……強力なブルートフォース攻撃(総当たりハッキング)だ」

 

 

 

 

「アトラスの……論理爆弾だと!? なぜそんなものが、時計塔の地下に……!」

 

Ⅱ世が戦慄する。アトラス院の演算兵器は、魔術世界における「魔術の神秘」とは根本的に異なる、純粋な論理の暴力だ。それを魔術で解体することは極めて困難。

 

 

水槽のコアが、茜の管理者権限を奪おうと、三人の存在消去とは別次元の、猛烈な「概念的ハッキング」を仕掛けてきた。茜の《自動修復機構(セーフティ・リセット)》が悲鳴を上げる。

 

「……先生の『人間的な解体』では、このマザーボードは止められない。……ここからは、僕の領域(コード)です」

 

 

茜は、ポケットから『黄金天球』を取り出し、掌の上で完全に展開させた。

 

三つの環が、猛烈な速度で逆回転を始める。

 

茜の瞳から、完全に感情の色が抜け落ち、深淵のような黒に染まった。

 

「――《全覚醒(フルダイブ・ゾーン)》、移行」

 

脳の処理能力が200%へと跳ね上がる。

 

さらに、L4《環境並列演算網》を全開にし、ノリッジの霊脈という霊脈から莫大な演算リソースを強制的に借り受ける。

 

 

それを、手元の『黄金天球』で極限まで圧縮・最適化し、茜は自身の脳髄を、アトラスの論理爆弾に対する「最強のハッキングツール」へと作り変えた。

 

 

「――逆探知(トレース)。侵入経路解析。……防壁突破。L3《確定未来の選別》を用いて、相手の暗号化キーを未来から『観測済み』として逆算(クラッキング)する」

 

 

視覚的な派手な魔術戦ではない。

 

それは、現実の空間と概念の領域で繰り広げられる、数億回という論理のぶつけ合い。コンマ0.001秒の間に、アトラスのコードが防壁を張り、茜がそれを解体し、アトラスがルートを偽装し、茜がそれを《確率分布の整形》で無理やり本道へと引き摺り戻す。

 

 

「……遅い」

 

 

茜の呟きと共に、《関係性抽象式》による概念的な『削除コマンド』が、アトラスの論理爆弾の中枢に直撃した。

 

 

(――Fatal Error. 演算基盤、論理崩壊ヲ確認――)

 

バキィィィィィンッ!!!!

 

 

論理の死。

 

それが物理的な衝撃波となって広間を駆け抜け、水槽のコアが内側から完全に粉砕された。

 

アトラスの論理爆弾は完全にデリートされ、動力源として縛られていた数千の死者たちの魂が、呪縛から解き放たれ、光の粒子となって広間の天井へと立ち昇っていく。

 

「あ……」

 

グレイが、鎌を下ろし、その光の昇華を涙ぐみながら見つめていた。

 

彼女にかかっていた《局所確率遅延》が解除され、精神的な疲労がどっと押し寄せるが、その心は決して壊れてはいなかった。

 

 

「……」

 

 

茜は、熱を帯びて静止した『黄金天球』をポケットにしまい、小さく息を吐いた。

 

《因果遅延起動》も解除され、部屋には元の「時計塔の地下の空気」が戻ってくる。

 

 

「……デバッグ完了です。先生」

 

 

茜は、乱れた呼吸を《完全躯体制御》で瞬時に整えながら、振り返った。

 

「これで、時計塔の霊脈も、先生の胃の平和も守られました。……帰って、レポートの続きを書いてもいいですか?」

 

 

Ⅱ世は、舞い散る光の粒子の中で、自らの教え子の底知れなさと、ほんの僅かに見せた「非効率な歩み寄り」に対し、深く、長く息を吐き出した。

 

「……ああ。帰ろう、竜胆。……お前のレポートの採点には、私の胃薬がもう三瓶は必要になりそうだからな」

 

 

 

 

 

 

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