境界の観測者 ―時計塔の特異点―   作:りー037

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【第三十七片】事後処理の夜、そして日常のノイズ

【日時】2004年 6月某日 24:30

 

【場所】時計塔・地下深層からの帰路

 

バキィィィィィンッ!!!!

 

物理的な衝撃波となって広間を駆け抜けた論理の死。

 

アトラスのソースコードを用いた「論理爆弾(ロジック・ボム)」は、茜の《全覚醒》によるオーバークロック・ハッキングによって完全に粉砕された。

 

縛られていた数千の死者たちの魂が、呪縛から解き放たれ、光の粒子となって広間の天井へと立ち昇っていく。

 

「あ……」

 

グレイが、大鎌を下ろし、その光の昇華を涙ぐみながら見つめていた。

 

彼女にかかっていた《局所確率遅延》が解除され、精神的な疲労がどっと押し寄せるが、その心は決して壊れてはいなかった。

 

「……デバッグ完了です。先生」

 

 

 

茜は、乱れた呼吸を《完全躯体制御》で瞬時に整えながら、振り返った。

 

 

「これで、時計塔の霊脈も、先生の胃の平和も守られました。……帰って、レポートの続きを書いてもいいですか?」

 

「……ああ。帰ろう、竜胆。……お前のレポートの採点には、私の胃薬がもう三瓶は必要になりそうだからな」

 

 

茜は、熱を帯びて静止した『黄金天球』をポケットにしまい、小さく息を吐いた。

 

「ああ。……よくやってくれた、竜胆。グレイもだ」

 

 

 

……

 

 

暗く冷たい螺旋階段を、三人はゆっくりと上っていた。

 

行きとは違い、空間の欠落(グリッチ)はすでに修復され、時計塔の強固な結界が息を吹き返しつつある。

 

グレイは限界を迎え、アッドの鳥籠を抱きかかえたまま、Ⅱ世の背中に負んぶされて静かな寝息を立てていた。

 

「……竜胆。さっきの『論理爆弾』の話だが」

 

Ⅱ世が、眠る弟子を起こさないよう、靴音に混じるほどの低い声で問いかけた。

 

「……降霊科(ユリフィス)の過激派どもが、自前で組み上げたシステムを制御しきれずに暴走させた『事故』ではなかった、ということか?」

 

「ええ。違います」

 

 

茜は、乱れのない足取りで階段を上りながら、淡々と即答した。

 

「彼らは、自分たちの降霊魔術の理論だけであの『幽霊演算機』を構築したと思い込んでいたようですが……中枢のOSには、最初から致命的な自壊(エラー)を誘発する、他組織(アトラス)のコードが巧妙に紛れ込んでいました。……純粋に、あの地下領域で因果の崩壊を引き起こし、最終的に時計塔の基礎霊脈そのものを物理的にショートさせるための『時限爆弾』です」

 

Ⅱ世は、重いため息と共に胃のあたりをさすった。

 

「降霊科の秘密実験に、アトラス院の錬金術師が提供したソースコードが組み込まれていた、と……。連中、どこぞの闇ルートで『毒入りの聖杯』を買わされたというわけか。……時計塔の内部にそこまでの技術を流通させる裏切り者がいるか、あるいは外部からの深刻な干渉があるということか。……頭が痛い」

 

「先生の胃と頭痛のタネは尽きませんね」

 

茜は、どこか他人事のように無機質な声で言った。

 

「……僕はただ、時計塔の基盤が崩壊して、僕の生活インフラ(L4の外部演算網)が巻き添えになるのを防ぐためにデバッグしただけです。これが誰の仕掛けた罠だろうと興味はありませんし、その先の政治的な処理は、大人の仕事ですよ」

 

「……違いない。お前という特大のバグを隠蔽するだけでも手一杯なのに、これ以上余計な火種まで抱え込まされてたまるか」

 

Ⅱ世は自嘲気味に鼻を鳴らし、背中の弟子の重みを確かめるように少しだけ姿勢を直した。

 

「お前は帰って、ゆっくり休め。あの異常な魔術の連続行使だ、回路が悲鳴を上げているだろう。……例のレポートの提出は、明後日まで待ってやる」

 

「ありがとうございます、先生」

 

茜は一礼し、自室へと続く学生寮の廊下へと静かに消えていった。

 

 

その背中を、Ⅱ世は複雑な目で見送る。彼がどれほど無機質で倫理を欠いた存在であろうと、今夜、時計塔の土台を静かに救い、そして弟子の心を壊さずに済ませてくれたのは、間違いなくあの「冷徹なバグ」のおかげだったのだから。

 

 

 

 

 

【日時】翌日 10:30

 

【場所】時計塔・現代魔術科(ノリッジ) 教室

 

昨夜の《全覚醒(フルダイブ・ゾーン)》とL4の過剰駆動は、茜の肉体に明確な「エラー」を残していた。

 

(……脳内温度、平熱プラス1.2度。演算処理速度、通常時の84%まで低下。……冷却が追いついていない。これが、生身のハードウェアの限界か)

 

茜は一番後ろの窓際の席に座り、《完全躯体制御》をフル稼働させていた。

 

発汗を抑え、心拍数を一定に保ち、瞬きの回数まで精密にコントロールする。外見上は、いつもの「完璧に無表情な竜胆茜」がそこにいる。

 

だが、どれほど表面を取り繕っても、僅かな「演算の乱れ(ノイズ)」は生じる。

 

 

「……竜胆くん。はい、これ」

 

 

不意に、隣からカウレス・フォルヴェッジが声をかけてきた。

 

彼の掌の上には、少し不格好に包装された手作りのクッキーが数枚乗っていた。

 

「……これは? カウレスくん」

 

「いや、なんか……今日の竜胆くん、すごく『無理してる』感じがして。魔術の調子が悪いのかなって。……糖分、脳に良いでしょ? 僕の家系の秘伝……ってわけじゃないけど、夜食によく作るんだ」

 

茜の瞳の奥で、微弱な光が瞬く。

 

(……《構造解析》。小麦粉、バター、多めの砂糖。……カロリー変換効率は良好。現在の脳のエネルギー欠乏状態において、極めて有用な補給物資だ。……しかし、なぜ彼が僕の不調に気づいた?)

 

「ありがとう。貰っておくよ」

 

茜はクッキーを一つ口に放り込んだ。素朴な甘さが、オーバーヒート気味の脳に染み渡っていく。

 

「美味しい」

 

「あ、美味しい? よかった」

 

カウレスが安堵の笑みを浮かべる。

 

「――あら。随分と安上がりな糖分補給ですわね、竜胆茜」

 

そこへ、優雅な足音と共にルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトが歩み寄ってきた。

 

彼女は縦ロールの金髪を揺らし、茜の顔を――正確には、茜の周囲を取り巻く『魔力の残滓』を、鋭い宝石のような瞳で観察した。

 

「……カウレスの言う通り、貴方、今日はひどく『乱れて』いますわよ。まるで、一晩で数百年分の歯車を無理やり回し続けた時計のような……ひどく焦げ臭い、演算の匂いがしますわ」

 

ルヴィアの魔術的審美眼は、茜の《完全躯体制御》の奥にある、酷使された魔術回路の悲鳴を正確に嗅ぎ取っていた。

 

「……少し、夜更かしをして複雑な数式を解いていただけです、ルヴィアさん」

 

茜は感情を交えずに答えた。

 

「貴方のような人間が、ただの数式ごときでそこまで摩耗するとは思えませんけれど。……まあいいわ」

 

ルヴィアは、背後に控えていた専属のメイドから、美しいティーカップを受け取った。

 

中には、琥珀色に輝く最高級の紅茶が注がれている。

 

「我がエーデルフェルトの秘蔵の茶葉です。魔力回復と脳の冷却に、これ以上のものはありませんわ。……貴方という『価値ある時計』が、こんなところでゼンマイを焼き切って壊れてしまっては、私の美学に反しますからね」

 

「……」

 

茜は、押し付けられたティーカップの温度を手の中で確かめた。

 

(……最高品質の茶葉と、完璧な温度管理。魔力回復の効率はカウレスのクッキーの比ではない。……二人とも、僕に何の利益があってこんなノイズ(介入)を?)

 

「……いただきます。二人とも、最適な補給をありがとう」

 

茜が紅茶を口にすると、ルヴィアは「当然ですわ」と胸を張り、カウレスは苦笑した。

 

彼らは知らない。目の前の少年がアトラスのバグをたった一人で防いだバグであることを。

 

ただのクラスメイトとして、不調な友人に少しばかりのノイズ(優しさ)を押し付けただけ。

 

茜は、その不合理な温かさを自身の最適化プロセスに組み込みながら、静かに午前の講義をやり過ごした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【日時】同日 ■■:■■

 

【場所】 不明

 

暗がりの工房から、一人の錬金術師が眉を潜める。ユリフィスの内部に仕掛けられた論理爆弾(ロジック・ボム)が解体されたことを、彼は遠隔で感じ取った。

 

 

「…………あれを、解体したのか?……それもこんなにも早く、正確に??くふ、くははははぁ」

 

誰もいない室内で男の高尚が響き渡る。心底愉快そうに、深淵を見つめる。

 

「……面白いな、これほどの演算をこなすほどの魔術師か。まだ化野くんや、あの老害(トラブルメーカー)から提供された情報のプログラミングの最中なのだが…………」

 

時計塔の中枢、そのコネクションを利用して仕掛けた術式が綺麗に解体(デバック)されたことに興味が募る。

 

 

「……少し見てみようか。」

 

 

暗闇から収束の光が動き出す

 

 

 

 

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