境界の観測者 ―時計塔の特異点―   作:りー037

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【第三十八片】墓守の会釈、淑女の強襲

【日時】2004年 6月某日 16:30

 

【場所】時計塔・現代魔術科(ノリッジ) 中庭

 

茜は、中庭の隅にある古びたベンチに腰を下ろしていた。

 

視界の端では、<<疑似魔術基盤 Ver.6.2>> がバックグラウンドでシステムチェックを走らせている。

 

(――脳内温度、平熱比+0.4度。下降傾向を確認。……演算リソースの占有率、平常時へ復帰完了まであと240分)

 

口に含んだキャンディが、熱を持った口腔内で急速に溶けていく。

 

茜はただ無機質な瞳で、夕日に染まり始めた時計塔の石造りの校舎を見つめていた。彼にとって、昨夜の戦いは「生活インフラの防衛」という事務的なタスクに過ぎない。だが、そのタスクの結果として救われた「ノイズ」が、今、静かに彼へと近づいてきていた。

 

「……あの、竜胆さん」

 

聞き慣れた、しかしどこか震えるような声。

 

茜が視線を向けると、そこには灰色の外套(クローク)身を包んだグレイが立っていた。彼女の右手には、いつも通りアッドを閉じ込めた鳥籠が握られているが、その中の「主」は驚くほどに沈黙している。

 

「……グレイさん。まだ、精神汚染の影響が残っているんですか? 歩行の際の重心が左に0.2ミリほどずれています」

 

「あ……いえ、大丈夫です。少し、昨日の光景が頭から離れなくて……」

 

グレイは、おずおずと茜の隣に座った。彼女の手元で、アッドが鳥籠の奥に引きこもり、ガタガタと震えているのが数式として視える。

 

「ヒィィ……見ないでくれ、こっちを解析の目で見るんじゃねえ……。昨夜のあんな化け物じみたハッキングを見せつけられて、誰がまともに喋れるってんだよ……」

 

 

アッドの蚊の鳴くような悪態に、茜は「そうか」と短く答えるのみだった。

 

グレイはしばらくの間、膝の上で指を絡ませていたが、意を決したように茜の無機質な瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

 

 

「……ありがとうございました、竜胆さん。昨日、貴方が……私の心を守ってくれたこと」

 

「僕はただ、君が機能不全に陥るというエラーを先延ばしにし、先生の要望(変数)を処理しただけです。感謝されるような論理的根拠はありません」

 

「……それでも、です。貴方は、私の『悲鳴』を無駄なものとして切り捨てず、私が自分の足で立ち上がるのを待ってくれた。……それがどれほど、私にとっての救いになったか」

 

グレイは、少しだけ、本当に少しだけ、綻ぶような微笑みを浮かべた。

 

それは魔術的な効果を持たない、ただの少女の感情の発露だ。だが、茜の <<構造解析>> が弾き出した彼女の精神波形は、驚くほどに澄み渡っており、昨夜の汚染による損傷はほとんど見受けられなかった。

 

「……不合理な結論ですが、君が正常に機能しているのなら、それが最適解だったのでしょう」

 

茜が淡々と答え、再び視線を夕空に戻そうとした、その時だった。

 

 

 

「――あら、随分としおらしい空気ですわね、貴方たち」

 

 

 

中庭に、凛とした、そして圧倒的な「重圧」を伴った声が響き渡った。

 

グレイがビクリと肩を揺らして立ち上がる。

 

茜が視線を向けると、そこには夕日を背に、金色の縦ロールを傲然と揺らす淑女――ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトが、二人のメイドを引き連れて立っていた。

 

彼女の宝石のような瞳が、茜の顔を――正確には、彼の毛穴から漏れ出す「過負荷の熱」を、見逃さずに射抜く。

 

「……ルヴィアさん」

 

 

茜の口から、その名がこぼれる。

 

ルヴィアは優雅な仕草で扇子を広げ、茜の鼻先に突きつけた。

 

「グレイさんとの睦まじい語らいを邪魔するつもりはありませんけれど。……貴方、昨夜からずっと、自身のゼンマイを焼き切るような不作法な音を立てていますわよ。エーデルフェルトに連なる者が、そのような『整備不良』の顔をして歩き回るなど、私の美学が許しませんわ」

 

「……?………連なる?……ただの、演算の排熱です。実用上の問題はありません」

 

 

「黙りなさい。それを決めるのは、貴方の『所有権』を一時的にでも主張する、この私ですわ」

 

ルヴィアは扇子をパチンと閉じ、茜の胸元を指し示した。

 

その瞳には、彼への冷徹な観察眼と、それ以上に深い「執着」が混ざり合っている。

 

 

「明日の放課後、予定を開けておきなさい、竜胆茜。貴方のその焦げ臭い回路を、我が一族が管理する最高級の『冷却(クーリング)』施設で再調整(メンテナンス)して差し上げますわ。……これは依頼ではなく、決定事項です。異論は認めませんことよ」

 

 

茜の脳内――《確率演算》が瞬時に動く。

 

 

(……拒絶した場合、ルヴィアさんによる物理的な強制執行(プロレス技)が行われる確率は82%。……同行した場合、魔力回復効率は平常時の3.4倍まで跳ね上がる。……結論。同行するのが最も合理的だ)

 

「……分かりました、ルヴィアさん。その『メンテナンス』、お受けします」

 

「うふふ、よろしい。聞き分けの良いお方は嫌いではありませんわ」

 

ルヴィアは満足げに微笑み、グレイの方をチラリと一瞥した。

 

「グレイさん、貴方もこの男を甘やかしすぎですわよ。……たまには、こうして強引に歯車を油に浸してやらないと、すぐに壊れてしまいますもの」

 

「は、はい……すみません……」

 

圧倒的なルヴィアのオーラに、グレイはただただ頭を下げることしかできなかった。

 

夕闇が降りてくる中、茜はルヴィアから渡された「招待状(メンテナンスの予定表)」を無機質な手つきで受け取った。

 

それは、彼にとっては未知の「デート」という名の、淑女による徹底的な管理と解析の時間になることを、彼の <<確定未来の選別>> はすでに予見していた。

 

 

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