境界の観測者 ―時計塔の特異点―   作:りー037

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【第三片】模倣の刃、あるいは水銀への憧憬

【日時】2004年 2月某日 11:30

 

【場所】時計塔・地下第13修練場(廃棄エリア)

 

ライネスとトリムマウの気配が完全に消えたことを確認した後、竜胆茜が向かったのは、学生食堂でも自室でもなかった。彼は、全体基礎科の校舎からさらに地下深くへと続く、薄暗い階段を下りていった。

 

そこは、かつてゴーレムの運用試験や、大規模な破壊魔術の実技演習に使われていた場所だ。今は廃棄され、蜘蛛の巣と埃、そして過去の魔術師たちが遺していった焦げ跡や、砕け散ったゴーレムのパーツが散乱する、静寂だけが支配する空間。

 

壁の松明型魔術灯はすでに油が切れ、茜自身の魔力視(マナ・サイト)によってのみ、辛うじて周囲の「構造」が視認できる程度の暗闇。

 

 

 

 

カチッ、と。

 

茜は口の中のキャンディを転がし、修練場の中央に立った。

 

彼の脳内では、先ほど《完全記録》に保存された『月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)』の全構造図(ソースコード)が、漆黒の背景に金色の回路図となって、鮮明に、かつ猛烈な勢いで回転し続けている。

 

(……なんて、なんて美しい神秘なんだろう。僕の起源が、あれのすべてを知りたがっている。……いや、知ってしまった。だからこそ、試さずにはいられない)

 

 

茜の半眼の奥で、微かな赤い光が明滅する。

 

彼にとって、自分という存在は「空っぽの器」だ。だが、その器には、一度見た構造を完璧に読み解き、自身の肉体へと反映させる起源『解析(アナライズ)』という、唯一にして異様な機能が実装されている。

 

彼が惹かれたのは、ライネスへの恐怖や、エルメロイ派への関心ではない。ただ純粋に、アーチボルト家が誇る至高の魔術礼装、その完成された物理法則のハッキングという「神秘」に対する、解析者としての純粋な賞賛と好奇心だった。

 

 

「……始めようか。僕の、小賢しい計算合わせを」

 

 

茜はポケットから両手を出し、静かに息を吐いた。

 

彼の体内、質・量ともに規格外の魔術回路が、呼吸と共に静かに、しかし世界を圧し潰すほどの密度で脈動し始める。

 

 

(魔術理論に則り、無から水銀は出せない。……ここにあるものを使う)

 

 

茜のL4《環境並列演算網(レイライン・ボットネット)》が、即座に修練場全体の物質構成を解析(スキャン)する。

 

空気中の湿気(水元素)。地面に散乱する、錆びたゴーレムの廃棄パーツや、建材に使われている金属塵(土元素)。

 

 

「起動せよ。五大元素魔術《元素転換(エレメント・トランス)》、および《身体最適化(オプティマイズ・ボディ)》」

 

 

茜は右手を前に突き出した。

 

彼の回路から、通常の魔術師であれば即座に自壊するほどの、膨大な魔力が放出される。

 

放出された魔力は、突き出した茜の手のひらの周囲で、空気中の「水(水分)」と地面の「土(金属塵)」を、強引に、かつ精密に、原子レベルで結合・遷移させていく。

 

 

(……本来、水銀を魔術を用いて生成するには錬金術の高度な設備と時間が必要だ。だが、僕の《元素転換》は、膨大な魔力出力を燃料に、物質の状態遷移を『結果』から逆算して成立させる。……これは魔術じゃない。ただの物理現象へのゴリ押しだ)

 

 

茜は内心で自嘲しながらも、その演算精度は1ミリのブレも許さない。

 

抽出された水分と金属塵が、茜の魔力によって励起され、一箇所に集まっていく。

 

やがて、茜の手の前で、周囲の魔術灯の光を鈍く反射する、銀色の流体の球体――『疑似・月霊髄液』が形成された。

 

それは、トリムマウと同じ、水銀に極めて似た物理特性を持つ、魔力励起された流体金属だ。

 

 

「接続(アクセス)。《流体制御(フルイド・コントロール)》」

 

 

茜は、形成された疑似・流体金属と、自身の右腕の神経系を、魔力の糸で接続した。

 

トリムマウが「疑似人格」によって自立稼働していたのに対し、茜はそれを自身の脳内演算(アリスマティック・プロセッサ)で肩代わりする。

 

(圧力、表面張力、温度、全てアーチボルトのコード通りに設定。……まずは、『刃』)

 

 

茜の思考と同期し、銀色の流体金属の球体が、瞬時に液状に崩れた。

 

そこから、1ミリの誤差もなく、至高の芸術品のような極薄の刃が射出される。

 

トリムマウがライネスの首筋に突きつけたのと、まったく同じ形状、まったく同じ圧力の刃。

 

 

「……次は、『棘』」

 

茜が指を弾くと、刃は霧散するように崩れ、次の瞬間には、無数の鋭利な棘が、全方位に向かって、爆発的な速度で伸長した。

 

空気抵抗を計算し、最速の形状へ自己変形する流体金属。その表面は、光を吸い込むほどに滑らかで、かつ、触れるものすべてを切り裂く殺気を孕んでいる。

 

「……すごい。本当に、すごい神秘だ。これがあれば、どんな敵も、どんな装甲も……」

 

 

茜は、形成された棘を半眼で見つめながら、その完成度に深く息を呑んだ。

 

だが、次の瞬間、彼の胸中に湧き上がったのは、喜びではなく、底なしの失望だった。

 

(……違う。これは、アーチボルトの魔術じゃない。僕のやってることは、ただの劣化模倣(コピー)だ。歴史も、神秘も、そこにある誇りも何もない。ただ、僕という『バグ』が、膨大な魔力と計算力で、本物の表面だけをなぞっているに過ぎない……)

 

 

 

茜は、棘を元の銀色の球体へと戻した。

 

彼が望むのは、世界を驚かせるような偉業でも、最強の力でもない。ただ隅っこで静かに生きることだ。

 

だというのに、彼の起源は、世界を驚かせるような神秘を読み解き、それを無機質な計算式へと落とし込んで、自身の内に取り込んでしまう。

 

 

(……僕は、ただの器だ。空っぽで、何もない。だから、誰かの形を模倣するしかない)

 

 

キャンディを噛み砕く。甘い味が、酷使した脳の疲労を和らげてくれた。

 

「……さあ、撤収しよう。こんな小細工を試している暇があったら、もっと『背景』としての精度を上げるべきだ」

 

 

茜は魔力を断った。

 

手の前の疑似・流体金属は、一瞬にして元の水分と金属塵へと還り、地下の湿気と埃の中へと霧散していった。

 

 

痕跡は、一切残らない。

 

彼がここに来たという事実さえ、《干渉痕消去》によって、この修練場の歴史の彼方へと、静かに消し去られた。

 

 

 

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