【日時】2004年 6月某日 17:00
【場所】ロンドン中心部・エーデルフェルト家所有 高級ホテル最上階
茜が案内されたのは、ロンドン市街を見下ろす豪奢なペントハウスだった。
昨夜の地下迷宮におけるオーバークロック――《全覚醒(フルダイブ・ゾーン)》の反動により、茜の肉体には未だ微弱な熱(エラー)が滞留している。《完全躯体制御》で外見上の平静は保っているものの、脳内温度は依然として警告域の境界線を推移していた。
「……さあ、座りなさい。貴方のために、最高の空間を貸し切ってあげましたわ」
私服のドレスに着替えたルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトが、優雅な仕草でソファを勧める。
彼女のブロンドの縦ロールが、夕暮れの光を受けて黄金に輝いていた。普段の教室で見せる傲岸な態度から一転し、今の彼女の瞳には、茜の「不調」に対する純粋な気遣いが隠しきれないほどに滲み出ている。
「……いただきます」
茜の前に、透き通るような琥珀色の紅茶と、宝石のように美しい菓子が並べられた。
一口飲むと、尋常ではない純度の魔力が、物理的な熱を奪いながら回路の隅々にまで浸透していくのを感じる。
(……《構造解析》。茶葉の魔力含有量、最高級。抽出温度の誤差、ゼロ。……カロリーと魔力の変換効率が、通常の補給の400%を超えている。凄まじい最適化だ)
「……素晴らしい紅茶です、ルヴィアさん。僕の排熱プロセスが、劇的に改善されています。貴方の温度管理の論理(ロジック)は、いつも完璧だ」
茜が淡々と、しかし純粋な事実として称賛を口にする。
「と、当然ですわ! 貴方は私が目をかけた『時計』なのですから、これくらいの極上の油(ティー)を差してあげないと、私の美学に関わりますもの!」
ルヴィアは扇子で口元を隠し、ツンと顔を背けた。しかし、その耳元が林檎のように赤く染まっているのを、茜の視覚は正確に捉えていた。
「それに……今日のルヴィアさんのドレスも、非常に『数学的な対称性』が保たれていて美しい。貴方という個体の完成度を、さらに引き上げていますね」
「なっ……! す、すうがくてき……! 貴方という人は、本当に、そういうことを息をするように……ッ!」
ルヴィアは顔を真っ赤にして立ち上がり、「紅茶のおかわりを淹れさせますわ!」と足早に部屋の奥へと消えていった。
茜は不思議そうに首を傾げながら、残りの紅茶で《身体最適化》の冷却プロセスを進めた。
【日時】同日 18:00
【場所】同ホテル・地下特設サーバールーム
「肉体の冷却(ティータイム)は済みましたわね。次は、貴方のその『過剰な計算』を冷やして差し上げますわ」
ルヴィアに連れられて地下へ降りた茜は、目の前の光景に微かに目を見張った。
そこにあったのは、ホテルには到底不釣り合いな、最新鋭のスーパーコンピュータの群れ。冷房の効いた空間で、黒いサーバーラックが規則正しい駆動音を立てている。
「貴方がよく、都市のインフラや霊脈に演算を『寄生』させているのは知っていますわ。……アトラス院のような非効率な鉄の塊ですけれど、貴方の過熱した脳を休ませるための『外部のゴミ箱』くらいにはなるでしょう?」
ルヴィアが、少し得意げに腕を組む。
(……驚いた。僕のL4《環境並列演算網》の負荷を、物理的な外部ハードウェアで肩代わりさせるという発想か)
「……ルヴィアさん。貴方がこれを、僕のために用意してくれたのですか?」
「勘違いしないでくださる? エーデルフェルトの投資物件のテスト稼働に、貴方を利用してあげるだけですわ」
そっぽを向くルヴィアの態度は刺々しいが、その声はどこか弾んでおり、茜からの評価を待っている少女のそれだった。
茜は迷いなくサーバーのメインコンソールに触れ、《環境並列演算網》の一部を物理サーバーへと接続(リンク)させた。
瞬間、茜の脳を焼いていた莫大な計算負荷が、最新鋭の電子機器へと分散され、脳の熱がスッと引いていく。
「……完璧です。最高のハードウェア環境だ。貴方は、本当に優秀な管理者(スポンサー)ですね、ルヴィアさん」
茜は振り返り、真っ直ぐに彼女を見た。
「僕の平穏は、貴方のこの不合理なまでの優しさによって維持されています。……感謝しますよ」
「……っ!!」
ルヴィアのキャパシティが、ついに限界を迎えた。
彼女は両手で顔を覆い、「うぅ……っ、だから、そういう無自覚な演算(セリフ)をやめなさいと言っているのに……!」と、その場にしゃがみ込んでしまった。
茜は、彼女がなぜ頭を抱えているのか論理的な理由を見出せず、ただ首を傾げることしかできなかった。
【日時】同日 19:30
【場所】ルヴィアのプライベート魔術工房
「……最後ですわよ。貴方の魔術回路そのものに溜まった熱を、私が直接抜き取りますわ」
ホテルの一室に設けられた、宝石魔術のための美しい工房。
ルヴィアは深呼吸をして気を取り直すと、茜を椅子に座らせ、その背後に立った。彼女の手には、極限まで魔力を帯びた「氷属性のサファイア」が握られている。
「目を閉じて、抵抗を解きなさい」
ルヴィアの柔らかく、甘い香りのする指先が、茜の額と胸元にそっと触れた。
物理的な接触距離。彼女の鼓動が、茜の《完全躯体制御》のセンサーを通して伝わってくる。
(――接続(リンク)開始。外部魔力の流入を許可)
ルヴィアの魔力が、サファイアを通じて茜の疑似魔術基盤へと流れ込んでいく。
その瞬間、ルヴィアは息を呑んだ。
彼女の魔術的審美眼は、茜の体内――《疑似魔術基盤 Ver.6.2》の、あまりにも異質で、恐ろしいほどに美しい「論理の宇宙」を直接覗き見てしまったのだ。
「……なんて、恐ろしくて……綺麗な回路(ギア)……」
ルヴィアは魅入られたように呟き、茜の額に触れる指に優しく力を込めた。彼女の純度の高い魔力が、茜の回路にこびりついていたノイズと熱を、優しく、丁寧に洗い流していく。
「……ルヴィアさんの魔力波形は、とても整っていて心地よいですね」
目を閉じたまま、茜が静かに言った。
「僕のOSと、寸分の狂いもなく同期している。……貴方が触れてくれると、僕の安定性が15%は向上します」
「…………っ」
ルヴィアは何も言い返せず、ただ顔を限界まで赤くして、茜の熱を奪うことに専念した。
彼女の指先から伝わるのは、もはや魔術の冷気ではなく、一人の少女としてのひどく熱い、人間らしい体温だった。
「……本当に、貴方という時計は……私がいないと、すぐに壊れてしまうんですから……」
誰にも聞こえないほどの小さな囁きは、茜のミュート機能を通すまでもなく、工房の静寂の中に優しく溶けていった。
【日時】同日 20:00
【場所】同ホテル・プライベートサロン
工房を出ると、ルヴィアは何も言わずに茜をサロンへと案内した。
広い窓の向こうに、ロンドンの夜景が広がっている。街の灯りが霧の中でにじみ、まるで無数の魔力光のように瞬いていた
『整備不良』の排熱(デバック)が終了したことで平穏な空気が流れていた。
「……座りなさい。いた紅茶を淹れてあげますわ」
ルヴィアがキッチンへと消えていく。
茜はソファに深く沈み込み、天井を見上げた。
脳の熱は完全に引いている。七孔からの出血も、回路の過負荷も、全て消えている。
(……静かだ)
それだけを思った。
しばらくして、ルヴィアが二つのカップを手に戻ってきた。今度は使用人に任せず、自分の手で淹れたものだ。
「…どうぞ」
「ありがとうございます」
しばらく、二人は他愛のない話をした。
ルヴィアが時計塔に来た理由。エーデルフェルト家の魔術の歴史。フラットがまたトリムマウに余計な映画を見せたこと。フラットが中庭で謎の修行をしていたこと。フラットが…寮の窓ガラスに突貫してぶち破ったこと。フラットが…………
茜はそれらを聞きながら、時折短く相槌を打った。
会話に演算は要らなかった。最適解を探す必要もなかった。ただ、言葉が流れていくのを受け取るだけで、それで十分だった。
(……これが、平穏か)
気づけば、茜の意識は少しずつ、過去へと滑っていた。
きっかけは、ルヴィアが何気なく言った一言だった。
「貴方は、いつから魔術を学んだのですか?」
茜はカップを両手で包んだまま、少し間を置いた。
「……覚えていないですけど、昔からですかね」
彼は咄嗟に嘘を口にした。
最初に見えたのは、古い畳の部屋だった。
年季の入った木の机。積み上げられた魔道書。窓の外には、どこかの地方都市の夜景。東洋の、小さな、静かな場所。
幼い茜がそこにいた。
本を読んでいる。眠くなっても、読み続けている。何かを理解しようとしている。ただ、それだけのために。
(……あの頃は、まだ何も体系化されていなかった)
魔術回路の存在には気づいていた。だが使い方がわからなかった。ただ、世界のあらゆるものが「構造として見えてしまう」という感覚だけが、幼い茜の日常だった。
木の年輪が、成長の記録として見えた。人の動作が、筋肉と骨格の連動として見えた。会話が、言語構造と感情の演算として見えた。
それが普通だと思っていた。
次に浮かんだのは、最初に魔術を「使った」瞬間だった。
意図してではなかった。ただ、目の前の何かを「解析したい」という衝動が溢れた瞬間、回路が自然に動いた。
(……起源「解析」を初めて自覚した日)
その日から、茜の世界は変わった。
見えていたものが、より深く見えるようになった。構造の裏側にある因果が、流れとして見えるようになった。
だが同時に、世界が煩くなった。
情報が多すぎた。あらゆるものが構造として流れ込んでくる。《完全記録》が体系化される前は、その情報を制御する術がなかった。
(……あの頃は、眠れなかった)
子供の頃、茜は魔術師の家系に産まれたが、『とある』理由で魔術の教育は殆ど受けずに育った。
本来なら先祖から受け継がれ続ける魔術刻印すら彼は継承していない。
茜は致命的な「欠落」を抱えていた。
遠くで、誰かが自分の名前を呼んでいる。
ルヴィアの声だ、と気づくまでに、少しだけ時間がかかった。
ぼんやりと、茜の意識が戻ってくる。
窓の外。ロンドンの夜景。霧の中でにじむ灯り。
気づけば、紅茶はすっかり冷めていた。
「竜胆茜! 私の話を聞いていますの!?」
ルヴィアが扇子をバシッと閉じ、茜の目の前に突きつけた。
「……聞いていますよ」
「どこまで聞いていましたの」
「……フラットが中庭で修行していたところまでです」
「それは十分前の話ですわ!!」
ルヴィアは立ち上がり、縦ロールを揺らしながら仁王立ちした。
「まったく……! 最高級の茶葉で、最高級の空間で、この私が直々にもてなして差し上げているというのに、ぼんやりするなど……! 貴方という時計は、油を差してもらっている最中に止まるんですの!?」
「……申し訳ありません。続きをどうぞ」
「謝罪ではなく反省をなさい!」
茜は姿勢を正し、カップを持ち直した。
ルヴィアの声が、また部屋に響き始める。
これが、竜胆茜にとっての平穏だった。