【日時】2004年 6月某日 15:00
【場所】時計塔・現代魔術科(ノリッジ) 図書室
午後の図書室には、古紙とインク、そして微かな埃の匂いが静かに沈殿していた。
ステンドグラス越しに差し込む斜光が、宙を舞う塵を金糸のように照らし出している。
竜胆茜は、最も奥まった窓際の席で、分厚い魔術書を広げていた。
彼の目的は知識の探求ではない。次に着手する――黄金天球へのOSインストールに向けた、脳内メモリのデフラグ(整理)と、時計塔の基礎術式の構造パターンの確認だ。
(……昨日のルヴィアさんの一件で、僕の情報エントロピーが不要に跳ね上がってしまった。フラット・エスカルドスの好奇心と、他の生徒たちの探るような視線。……平穏な演算環境を取り戻すには、自身の存在解像度を下げる必要がある)
茜は本に視線を落としたまま、無意識の領域で Tier 0《可変存在解像度(モザイク・シフト・マニュアル)》 のスイッチを切り替えた。
『潜伏状態 90%』へ移行。
姿を消すわけではない。ただ、世界から見た茜の「情報のピント」を意図的にぼかすのだ。
例えば、通りすがりの生徒が茜の席を見たとき、「そこに誰か座っている」という視覚情報は脳に届く。しかし、それが「竜胆茜である」という認識に至る前に、脳の処理プロトコルに微小なノイズを混入させ、「ただの背景(モブ)」として処理を打ち切らせる。
結果として、誰も彼に注意を向けず、視線は彼の輪郭を滑り落ちていく。
(……快適だ。これで誰にも話しかけられることなく、帰りの時間まで……)
コツ、コツ、と。
静寂の図書室に、控えめな足音が近づいてきた。
茜は《完全躯体制御》で呼吸をミリ単位で整え、さらに気配を薄くした。だが、その足音は迷うことなく茜の座るテーブルへと向かい、そして、向かいの席に静かに腰を下ろした。
「……あ。すみません、竜胆さん。ここ、空いていますか?」
灰色の外套(クローク)のフードを浅く被った少女、グレイだった。
彼女の右手には、布で覆われた鳥籠(アッド)が抱えられている。
茜はページを捲る手を止め、僅かに目を丸くした。
(……《構造解析》。彼女の視線のベクトルと、魔力探知の波形を照合。……なるほど、彼女は『僕を探して』ここに来たわけではないのか)
「構いませんよ、グレイさん。……ただ、少し興味があるのですが、君はなぜこの席を選んだのですか? 図書室には他にも多くの空席がありますが」
グレイは少し不思議そうに瞬きをして、周囲を見渡した。
「ええと……なんとなく、です。この辺りが一番『静か』だったから……」
彼女は言葉を濁したが、茜の《因果ログ解析》は即座にその真理を弾き出した。
グレイは、死者の気配や霊的な淀みに極めて敏感な「墓守」だ。彼女にとって、生者の放つ強烈な生命力や感情のエントロピーは、時として騒がしすぎる。
一方、現在の茜は《可変存在解像度》によって、己の存在感を極限まで薄めている。それは彼女の霊的なセンサーからすれば、まるで「墓石」や「静かな遺物」と同じ波長――つまり、この図書室で最も『生者のノイズが少ない、安らげる空間』として無意識に惹きつけられたのだ。
「……なるほど。僕のステルス波形が、君の霊的感受性における『安全地帯(セーフエリア)』と偶然一致したわけですね」
「えっ? す、ステルス……?」
「ヒィィ……。俺様はさっきから、お前のその『死んでるみたいなのに生きてる』気配で鳥肌が止まらねえんだよ……」
布の奥から、アッドのくぐもった、ひどく怯えた声が漏れる。
「……静かに。竜胆さんは、静かに本を読みたいんですから」
グレイが鳥籠を優しくポンと叩くと、アッドは「へいへい」と不満げに沈黙した。
「……」
茜は、再び本へと視線を戻した。
会話はない。しかし、茜の「不変の静寂」と、グレイの「死を悼む静謐」が、奇妙なパズルのピースのように噛み合い、テーブルの周囲にだけ絶対的な平穏の結界を作り出していた。
茜は、この非論理的だが極めて効率の良い「背景の共有」を、悪くないと感じていた。
【場所】時計塔・中央棟 連絡通路
講義を終えたロード・エルメロイⅡ世は、重い資料を抱えて足早に廊下を歩いていた。
夕刻の時計塔は、家路を急ぐ魔術師たちの喧騒に包まれている。談笑する生徒、足早に歩く講師、あちこちで生まれる魔術的な火花のような議論。その雑多な情報の奔流の中に、「それ」はいた。
魔道書を胸に抱え、前から歩いて来る一人の少年。竜胆茜だ。
彼は何ら不自然な動きをしていない。周囲の生徒と同じ速度で歩き、肩がぶつかりそうになれば自然に避け、視線は前方の出口へと向けられている。
だが、Ⅱ世の目には、彼の周囲だけが「凪いでいる」ように見えた。
人々は彼を避けるが、誰も彼を見ない。視線が彼の輪郭に触れた瞬間、まるで鏡に反射するように外れていく。それは Tier 0《可変存在解像度》による、世界への徹底的な同化。
「――お疲れ様ですわ、ロード・エルメロイⅡ世。相変わらず、その眉間の皺は時計塔の歴史を物語っているようですこと」
不意に、横の影から滑り出すように声をかけられた。
Ⅱ世は反射的に足を止め、忌々しげにその主を睨んだ。和服の上に白衣を羽織り、扇子を手に薄く笑う女性。法政科の「蛇」、化野菱理である。
「……化野菱理か。法政科の人間が、現代魔術科の校舎をうろついて何の用だ。ここには貴様が喜ぶような醜聞(スキャンダル)など落ちていないぞ」
「あら、ご挨拶ですわね。私はただ、先日ユリフィスの地下で起きた『演算機の暴走』……その後の、あまりに整いすぎた現場の処理に、深い敬意を表しに来ただけですの」
化野は蛇のような瞳を細め、Ⅱ世の隣を悠然と通り過ぎようとする生徒たちに視線を流した。
そして、その視線が、わずか先から歩いて来た茜が、通りすぎた
茜は止まらない。振り返りもしない。
Ⅱ世と化野の横を通り過ぎる際も、彼はただの「背景の一部」として、完璧な透明度を保って歩き続けていた。
だが、化野菱理の扇子が、茜の通り過ぎた後の「空間」を、愛おしそうに指し示した。
「……ねえ、ロード。貴方は今、何が通り過ぎたか、正確に描写できますの?」
「……何だと?」
「私の視界には、確かに一人の生徒が映りました。……ですが、私の脳は、彼を『石壁』や『空気』と同じカテゴリーに分類しろと命じてくる。……記録上も、私の網膜にも、確かにそこに、彼という存在が刻まれているはずなのに、ですわ」
化野は一歩、茜の歩き去った跡へと踏み出した。
そこは、本来なら数秒前まで人間がいたはずの、温かな体温や魔力の残滓が漂う場所だ。
「……まるで、風景画の中に描かれた、実体のない『空白』。あるいは、あらかじめそこが『無』であることを前提に描かれた、不自然極まる完成度……。彼が歩くたび、世界の解像度がそこだけ僅かに揺らぎ、無理やり『日常』へと補完されている。……ええ、まるで世界が彼を隠蔽するために、必死に嘘(バグ取り)をついているようですわ」
Ⅱ世の背中に、じっとりと冷たい汗が伝った。
化野の言葉は、茜の術式体系――L5《結果正当化》や Tier 0の本質を、理論ではなく「直感」という名のメスで正確に抉り取っていた。
「……あのような『摩擦のない歯車』を、現代魔術科の歯車の一つとして回し続けるのは、少々無理がありませんこと?」
「……彼は、ただの大人しい生徒だ。貴様の邪推に付き合っている暇はない」
「ふふ、左様ですわね。証拠などどこにもありません。彼は完璧に『日常』ですから」
化野は扇子をパチンと閉じ、Ⅱ世に顔を寄せた。その双眸には、獲物を追い詰める悦楽が宿っている。
「ですがロード。あまりに綺麗な『空白』は、真っ黒なインクよりも目立つものですわ。……あの少年が、時計塔という巨大な時計の針を逆回転させ始めた時。……その責任を、貴方は取れますの?」
蛇のような執行人は、艶然たる微笑を残して、人混みの中へと消えていった。
Ⅱ世は、既に角を曲がって姿の見えない茜の方向を見つめ、震える手でタバコを取り出した。
「……空白、か。言い得て妙だな、ミス化野」
茜が作り出した「完璧すぎる平穏」が、逆に鋭敏な猟犬を惹きつける餌となっている。
その皮肉な論理構造に、Ⅱ世は吐き気を催すほどの胃の痛みを感じながら、紫煙を深く吸い込んだ。