【日時】2004年 6月某日 18:00
【場所】時計塔・現代魔術科(ノリッジ) ロード・エルメロイⅡ世の執務室
講義を終えた放課後。
竜胆茜は、ロード・エルメロイⅡ世の執務室に呼び出されていた。
部屋を満たすのは、安物の葉巻の煙と、積み上げられた古書のパピルスが放つ微かな埃の匂い。そして、デスクの向こう側で頭を抱える恩師が放つ、濃厚な疲労とストレス(エントロピー)だ。
「……座れ、竜胆。お前に急遽、補習を行う」
Ⅱ世は噛み砕いた胃薬を苦い紅茶で流し込みながら、鋭い視線を茜に向けた。
茜は無言のまま、背もたれに触れない完璧な姿勢で長椅子に腰を下ろす。彼の呼吸は、室内の空気の循環リズムと完全に同化しており、ほとんど音を立てていなかった。
「補習、ですか。本日の講義内容である『時計塔の基礎結界論』において、僕の提出したレポートに論理的欠陥(バグ)はなかったはずですが」
「レポートの話ではない。……お前の『存在』についての補習だ」
Ⅱ世は重い溜息を吐いた。
「先ほど、廊下で法政科の化野菱理に会った。……奴は、お前が通り過ぎた後の空間に『不自然な空白』を感じ取っていたぞ。記録上そこにいるはずの生徒が、風景の一部として完全に処理されていることの『違和感』をな」
茜の瞳の奥で、無数の演算光が瞬いた。
(……なるほど。化野菱理の直感は、僕の Tier 0 <<可変存在解像度>> が作り出す『認識のブレ』を、一つの独立した異常(エラー)として捉え始めたということか)
「お前は、周囲の認識から自分を消すために、己の存在を『完璧な背景』へと最適化しているのだろう。だがな、竜胆。時計塔という魔窟において、埃一つ落ちていない完璧に綺麗な歯車は、逆に目立つんだ」
Ⅱ世はデスクに身を乗り出し、言葉に力を込めた。
「人間には、摩擦がある。匂いがあり、感情の揺れがあり、魔力の微細な漏れ(ノイズ)がある。……お前の隠蔽は『論理的』には完璧だが、『人間的』ではない。法政科の猟犬の鼻を欺きたいのなら、お前はあえて『不完全』を装う必要がある」
恩師の言葉を、茜は純粋なデータとして咀嚼した。
隠し切れないから目立つのではない。隠れすぎているから、その「隠蔽の枠組み」そのものが観測されてしまう。ならば、解決策(パッチ)は極めてシンプルだ。
「……理解しました、先生。僕のステルス論理における『過剰な最適化』が原因ですね」
茜は淡々と頷いた。
「次回から、存在解像度の隠蔽率を90%から85%に引き下げます。余剰の5%を用いて、意図的な『摩擦(ノイズ)』を付与する。……微小な魔力漏出、不規則な心拍数、それに伴う体温の揺らぎ。これらをカモフラージュとして常に垂れ流し、『どこにでもいる平凡な三流魔術師』というダミー・データを世界に観測させます」
「……お前は本当に、人間の欠陥すらもただのパラメータとして扱うのだな」
Ⅱ世は呆れたように天を仰いだが、すぐに真顔に戻った。
「……まあいい。その『パッチ』とやらを、今すぐ当てろ。化野が動いたということは、既にどこぞの好事家や、封印指定局の末端あたりが君の噂を嗅ぎつけて動いている可能性がある。……帰り道、背後には気をつけろよ」
「善処します。的確なデバッグ・アドバイスに感謝します、先生」
茜は一礼し、静かに執務室を後にした。
【日時】同日 19:30
【場所】時計塔周辺・学生寮への帰路
ロンドンの夜は早い。
石畳の路地には深い霧が立ち込め、ガス灯のオレンジ色の光が、ぼんやりと濡れた路面を不均一に照らし出していた。
茜は、歩きながら自身の <<疑似魔術基盤 Ver.6.2>> の設定を書き換えていた。
(――実行。Tier 0 <<可変存在解像度>>、出力を85%へ低下。……同時に <<完全躯体制御>> の精度を意図的に緩める。心拍数を歩行に合わせて微細に変動させ、魔力回路の表面から0.02%の魔力粒子を意図的に漏出させる)
それは、彼にとって「わざと息を乱して歩く」ような、極めて非効率で気持ちの悪い作業だった。しかし、この『ノイズ』こそが、彼を人間たらしめる偽装の外套となる。
コツ、コツ、と。
茜の足音が、適度な摩擦を持って夜の路地に響くようになった。
だが、その「人間らしい隙」を作った直後。
背後の霧の中から、茜の足音とは違う、ひどく粘り気のある足音が一つ、重なった。
(……捕捉。後方15メートル。魔力反応あり。……対象、時計塔の者ではない。フリーランスの魔術師、あるいは雇われの猟犬か)
茜の <<構造解析(ストラクチャー・アナライズ)>> が、背後の気配を即座にデータ化する。
相手はいきなり襲いかかってくる様子はない。一定の距離を保ちながら、微弱な探知魔術の波を幾重にも重ねて、茜の背中へ放射している。
(……探知波の周波数が特殊だ。殺意ではなく『観測』に特化している。僕の魔力量、回路の編成、あるいは歩行時の身体スペックの測定。……なるほど、化野菱理の調査に便乗したのか、あるいは別の組織が実力を計るために放った観測用(テスト)の駒か)
相手はプロだ。実戦に慣れた裏社会の魔術師特有の、泥臭くも隙のない歩法。
このまま尾行を続けさせれば、いずれ何らかの仕掛けで茜から「魔術的反応(データ)」を引き出そうとするだろう。
「――そこまでだ、学生サン。少し、お前の『中身』を調べさせてもらおうか」
背後の男が、低い声と共に動いた。
彼が狙ったのは直接的な殺傷ではない。
地面の影が不自然に伸び、茜の足首を絡め取るための「影固定」の術式が、音もなく路地を這い寄ってくる。典型的な拘束術式だが、その内側には対象の魔力を強制的に引き出し、記録するための『計量術式』が緻密に編み込まれていた。
(――対応方針を決定。彼をここで殺害、あるいは派手に魔術で迎撃すれば、僕の回路の出力データが相手の雇い主に送信される。『竜胆茜はただのモブである』という先ほどの偽装パッチとも矛盾する)
茜の脳内では、すでに <<確率演算>> と <<確定未来の選別>> が、数百の対応パターンをコンマ一秒で精査し終えていた。
(……最善手は、情報漏洩(データ・リーク)の完全遮断。この遭遇(イベント)そのものを『彼自身の初歩的なミス』として処理する)
茜は、振り返ることさえしなかった。歩みも止めない。
ただ、ポケットに入れた右手で極小の魔力を練り上げ、自身の足元まで迫っていた『影』の先端へと、無造作にコードを流し込んだ。
「……起動。<<関係性抽象式(リレーション・アブストラクト)>>」
茜が干渉したのは、影固定の魔術そのものではない。影を這わせている「石畳の表面の水分(流動)」と「土(固定)」の位相だ。
対象の魔術が茜に触れる、そのわずか数ミリ手前。
「な、に……!?」
背後の魔術師が驚愕の声を上げた。
彼が放ったはずの拘束の影が突如として「凍結」し、術式のコントロールが急激に乱れた。いや、違う。魔術師自身が、濡れた石畳の上で極端に足を滑らせたのだ。
「ぐ、あッ!?」
魔術師は体勢を崩し、自身の影に足をとられるような無様な形で、石畳の上に激しく転倒した。後頭部を打ちつけ、呻き声を上げる。
そのわずかな意識の混濁の隙を突き、茜は歩きながら <<因果接続補完(カウザル・ブリッジ)>> と <<干渉痕消去>> を同時にバックグラウンドで走らせた。
『彼が僕を観測し、拘束術式を放った』という原因を論理的に削除(デリート)。
『彼が夜霧の中で足元の石につまずき、自身の魔術を暴発させて自滅した』という因果を、事後的に世界へ上書き(セーブ)する。
転倒し、意識が朦朧とする魔術師の網膜と記憶野から、茜の姿が急速に「ただ通り過ぎただけの、見知らぬ通行人A」へとダウングレードしていく。彼が手にしていた観測用の礼装(レコード)にも、ただのノイズしか記録されていない。
「あ……れ? 俺は、ここで……何を……。誰かを、追って……?」
魔術師が痛む頭を押さえながら顔を上げたとき。
路地の先には濃い霧が立ち込めるだけで、追跡目標であったはずの少年の姿も、彼が放っていたはずの微弱な魔力の匂いも、完全に消え去っていた。
「……デバッグ完了。観測データの漏洩(リーク)はゼロ」
一つ隣の通りへ抜けた茜は、キャンディの包み紙を指で弾きながら、何事もなかったかのように学生寮への歩みを進めた。
世界に「完璧な空白」としての異常性を隠すためのノイズを纏いつつ、迫り来る観測者の視線を物理的かつ論理的に刈り取る。竜胆茜の真のステルスは、ここからが本番だった。