境界の観測者 ―時計塔の特異点―   作:りー037

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【第四十ニ片】因果の残り香、純粋論理の奇襲  

【日時】2004年 6月某日 20:15

 

【場所】時計塔・学生寮 竜胆茜の自室

 

重厚なオーク材のドアが、カチャリという冷たい金属音を立てて閉ざされた。

 

外界との物理的な隔絶。それをトリガーとして、竜胆茜は歩行用に偽装していた <<完全躯体制御>> の意図的なロックを解除した。

 

「……偽装(パッチ)、解除。生体リズム、最適化プロセスへ移行」

 

彼が小さく呟くと同時に、わざと乱していた心拍数が、最も効率的で静かな一定のリズムへと急速に収束していく。呼吸は限りなく浅くなり、意図的に漏出させていた魔力の粒子が、再び彼の内側――強靭な回路の奥底へと完璧に格納された。

 

「不完全な人間」を演じるという、極めて非効率でエントロピーの高い作業からの解放。

 

静寂に包まれた室内には、古い石造りの建物特有のひんやりとした空気が漂っている。茜は上着をハンガーに掛けながら、密かにバックグラウンドで走らせていた <<因果ログ解析>> のプロトコルを、自身の主視覚へと展開した。

 

 

先ほどの霧深い路地裏。

 

雇われ魔術師が自らの魔術で転倒した、あの一瞬の接触。

 

茜は彼をただ無力化しただけではない。彼の記憶領域の表面に極小のアクセスパスを繋ぎ、彼を動かしていた「因果の糸」――すなわち、雇い主の魔術的痕跡(ログ)を完全にコピーして持ち帰っていたのだ。

 

「……解析完了。魔力波形の逆探知および、組織的属性の照合結果」

 

茜の瞳の奥で、無数の情報が青白い文字列となって滝のように流れ、やがて一つの明確な結論へと収束していく。

 

(……抽出した魔力波形は、法政科の洗練されたものでも、封印指定局の冷徹な猟犬たちのものでもない。これは……降霊科(ユリフィス)の波長だ。しかも、地下で『幽霊演算機』を暴走させていた過激派の淀んだ呪詛とは異なる、より時計塔の政治中枢に近い、穏健派の波長)

 

 

茜の脳内(プロセッサ)で、散らばっていた論理のピースがカチリと音を立てて組み上がる。

 

降霊科の地下施設が、アトラスの論理爆弾によって崩壊の危機に瀕した事件。

 

 

その『解体』に直接関わったのは、ロード・エルメロイⅡ世と、彼の推薦で同行した茜、そしてグレイの三人だけだ。法政科の化野菱理が「空白」を嗅ぎつけたように、本家本元である降霊科が何のアクションも起こさないはずがない。

 

 

(……なるほど、動機が理解できた。降霊科の主流派からすれば、過激派が持て余した破滅的なシステムを、外部の人間……それも『エルメロイの生徒』が無傷で完全に解体・消去してみせたという事実は、極めて不気味なバグに映るはずだ。彼らは僕を始末したいわけではない。ただ、得体の知れない僕の『実力(ハードウェアのスペック)』を計測し、時計塔の政治的パワーバランスにおける脅威度を査定したかっただけか)

 

 

結果として、茜の対応は完璧だった。

 

 

彼は「運良く路地裏の魔術師の自滅をやり過ごしただけの、ただの運の良いモブ学生」というダミー・データを残すことに成功したのだ。観測者は彼を「ただのノイズ」と判定し、脅威度は最低ランクに見積もられる。当面は降霊科からの政治的な探りも止むだろう。

 

 

「……非効率な政治的探り合いだ。先生の胃が慢性的なダメージを受けるのも、論理的に頷けます」

 

茜は小さく息を吐き、部屋のドアを開けた。

 

自身の平穏を守るための偽装パッチは機能した。外部からの物理的な探りも退けた。

 

これで、今日という一日の『デバッグ』は完了し、睡眠によるシステム冷却へと移行する

 

平穏な夜が始まる。

 

 

 

 

 

 

 

はずだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

自室に戻った茜は、自身の机の上に「それ」を発見した。

 

 

時計塔の事務局を通した形跡のない、真っ黒な封筒。

 

宛名はない。ただ、封蝋の代わりに、奇妙な幾何学模様――アトラス院の紋章が刻印されていた。

 

(……《構造解析》。物理的な罠、呪詛の類はなし。純粋な『手紙』だ)

 

茜はペーパーナイフで封を切り、中に入っていた硬質なカードを引き出した。

 

そこに書かれていたのは、暗号めいた数行の文章だった。

 

 

 

 

 

『――時計塔の地下における、我々の廃棄コード(玩具)の完全消去を確認した』

 

『君が何者かは知らない。時計塔の魔術師にしては、あまりにも出力と論理が洗練されすぎている。我々のコードを正面からクラッキングしたその『未知の演算機能』に、深い敬意と興味を表する』

 

『もし、時計塔という古臭い箱庭での演算に退屈しているのなら、いつでも我々にコンタクトを取るといい。我々は、世界を正しく計算するための、新しいプロセッサを常に歓迎している』

 

 

 

 

 

「……アトラス院」

 

茜は、そのカードを無表情に見つめた。

 

彼らは茜の正体(竜胆茜という個人)までは特定できていない。しかし、地下で幽霊演算機を破壊した「正体不明の異常な演算能力者」の存在を感知し、純粋な技術的興味からコンタクトを図ってきたのだ。

 

 

「非効率の極みだな。……わざわざ自分たちの痕跡を残してまで、未知のハードウェアをスカウトしようとするとは」

 

 

現在、彼に時計塔を出る理由はない。ここにはエルメロイⅡ世という優秀なバッファーがおり、安定した霊脈がある。

 

 

 

手紙を読み終わり安心したのも束の間、手紙から黒いノイズのような物が走った。

 

 

この黒い手紙は、竜胆茜というバグが時計塔の枠を超え、より巨大な世界の演算者たちの目に留まり始めたという、決定的なエラー・ログだった。

 

彼の視線がデスクに置かれた「アトラス院からの黒い手紙」の封蝋――奇妙な幾何学紋章へと無意識にピントを合わせた、まさにその瞬間。

 

 

 

 

 

 

(――警告(Warning)。外部からの非認可アクセスを検知)

 

 

(侵入経路:視覚情報からの概念的リンク)

 

 

(対象:<<疑似魔術基盤 Ver.6.2>> 根幹OS)

 

 

 

「……なにっ?」

 

茜の無機質な表情が、わずかに、だが確かに歪んだ。

 

手紙が発光したわけではない。燃え上がったわけでもない。ただ、その幾何学模様が網膜に焼き付いた瞬間、茜の脳髄という物理デバイスに対して、極めて暴力的な『論理の楔』が打ち込まれたのだ。

 

 

手紙に刻まれた「アトラス院の紋章」そのものが、茜の網膜という物理デバイスを通じて脳内に侵入した瞬間、極めて高度な『論理的端末(ターミナル)』として自動展開し始めたのだ。

 

 

(……物理的な魔術の罠ではない。呪詛でもない。これは純粋な『概念の接続要請(Ping)』だ。手紙という物理媒体の幾何学模様を解析した瞬間に、僕の脳のOS構造をハッキングするための論理パスが強制的に形成された。……これが、アトラスの錬金術師の『挨拶』か)

 

 

それは魔術の呪詛ではない。アトラス院の錬金術師が編み出した、純粋な数学的悪意――『思考剥製(タキシダーミー・ロジック)』。

 

 

標的の脳内に強制的に「分割思考」の仮想ルームを構築し、内部から対象の論理構造(OS)を解体・標本化する自律型の概念ウイルスだ。

 

 

「……物理的な防壁を、文字通り『素通り』するわけか。視覚という入力装置(インターフェース)をハッキングの経路に使うとは」

 

 

茜の視界が、バグったモニターのように明滅を始める。無数の数字と幾何学模様がノイズとして走り始める。自室の風景がワイヤーフレームのポリゴンモデルに分解され、自身の疑似魔術基盤のコードが、外敵によって強引に書き換えられていくのが「視えた」。

 

 

それは、彼に肉体的な苦痛を与えるものではない。ただ、「君の論理構造(ハードウェア)をすべて見せろ」という、純粋な知的好奇心に満ちた、極めて暴力的な論理空間での奇襲。

 

先ほどの時計塔の魔術師たちの政治的な探りなど児戯に等しい。

 

これは、世界そのものを計算で解き明かそうとする狂気の学府(アトラス)からの、正面からのクラッキングだ。彼らは「竜胆茜」という個人を狙ったのではなく、「この手紙の構造を解析できるほどの未知の演算装置」を探知し、自動的に喰らいつく論理のトラップを仕掛けていたのだ。

 

 

「……迎撃開始」

 

 

茜は即座に椅子に深く沈み込み、外界への全感覚を遮断した。

 

呼吸を完全に停止させる。<<完全躯体制御>> をフル稼働させ、肉体の全生命維持機能を最低限に絞り、余剰エネルギーをすべて『演算リソース』へと回す。

 

 

「L1 <<自動修復機構(セーフティ・リセット)>>、強制切断」

 

脳が再起動するわずかな空白すら、アトラスのコードには致命的な隙となる。安全装置は捨てた。

 

「L4 <<環境並列演算網>> への接続、完全遮断(スタンドアローン)」

 

 

ここで霊脈に繋がったまま戦えば、アトラスの論理爆弾は茜を中継地点(ルーター)として、時計塔の霊脈全体へとウイルスを拡散させてしまう可能性がある。

 

 

 

 

彼は、己の脳髄という密室の中だけで、この怪物と対峙することを選んだ

 

 

 

「……これより、僕の脳内領域(ローカル)だけで、アトラスの論理を解体(デリート)する」

 

 

深夜の静寂に包まれた学生寮の一室。

 

物理的な動きは何一つない。だが、その頭蓋の内側では、竜胆茜という孤独なプロセッサと、アトラス院の錬金術師が放った純粋論理の怪物が、一切の音を伴わない苛烈な『ハッキング戦』の火蓋を、今まさに切っていた。

 

 

 

 

 

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