境界の観測者 ―時計塔の特異点―   作:りー037

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【第四十四片】ノイズの偽装、怪物たちの朝食会

【日時】2004年 6月某日 09:15

 

【場所】時計塔・現代魔術科(ノリッジ) エルメロイ教室

 

 

昨夜の自室における、アトラス院との苛烈なハッキング戦。

 

その余波を自身の《疑似魔術基盤 Ver.6.2》の糧として吸収した茜は、今やその演算密度において、人間というハードウェアの限界を数段階踏み越えていた。

 

 

だが、現在の彼は、その強大な出力を L5《出力制御制限》の奥底に封印し、Tier 0《可変存在解像度》を85%まで引き下げた「人間らしいノイズ」を纏っている。

 

 

(――実行。微細な魔力漏出(リーク)、心拍数の不規則な揺らぎ。……平均的な三流魔術師の『未熟さ』を、周囲の観測者へダミー・データとして定常送信する)

 

 

茜は、魔道書を抱えて教室のドアを潜った。

 

 

 

彼の狙いは、この「偽装パッチ」による環境同化。だが、彼が足を踏み入れた瞬間、教室内の「空気」が、まるで劇薬を落とされたフラスコのように激しく変質した。

 

 

「……ッ!? なんだ、この鼻の奥が腐るような『嘘』の匂いは……!」

 

 

教卓近くで、スヴィン・グラシュエートが弾かれたように立ち上がった。

 

獣の瞳が黄金色に輝き、鋭い犬歯が剥き出しになる。彼の『獣の嗅覚』は、茜が意図的に垂れ流している「未熟な魔力の匂い」を捉えた。だが、それは彼にとって、かつて目撃した「夜空に回る巨大な黄金の歯車」や「世界の設定を書き換える紙屑」の記憶と真っ向から衝突する、耐え難い矛盾(ノイズ)だった。

 

 

「おい、新顔……! お前、化け物が安っぽい着ぐるみを着て、わざと下手くそな芝居をしてるような匂いがしてるぞ! 俺の鼻を馬鹿にしてるのか!?」

 

 

「……おはよう、スヴィンくん。寝不足で魔力の制御を欠いているだけだよ。それほど大きな声で論理的欠陥を指摘されると、僕のエントロピーが上がります」

 

 

茜は淡々と答え、視線を逸らした。だが、そこへもう一人の「イレギュラー」が突っ込んできた。

 

 

「わあぁっ! 竜胆さん! 今日のそれ、何!? 新しいパッチ!? 凄いよ、『弱そうなフリ』のパラメータが細かすぎて、逆に高解像度の『弱者のホログラム』みたいになってますよぉ!」

 

 

フラット・エスカルドスが、弾丸のような速度で茜の顔を覗き込んできた。

 

彼の無軌道な天才的直感(ハッキング能力)は、茜の偽装パッチの「ソースコード」を視覚的に捉えていた。

 

 

「ねえねえ、視覚隠蔽のパーセンテージに対して、人間的なアーティファクト(ノイズ)を15%混合してるでしょ!? 隙だらけに見えるのに、筋肉の弛緩のさせ方が数学的に完璧すぎて、見てるだけで脳がバグりそうだよ! カウレスくんもそう思うよね!?」

 

 

「え、えぇっ!? ……あ、おはよう竜胆くん」

 

 

巻き込まれたカウレスが、眼鏡を直しながら困惑顔で近づいてきた。

 

「……確かに、昨日の君とは、なんていうか『解像度』が違う気がする。僕が教えた遊星歯車のロジック……あの時、君はもっと、こう……精密機械みたいな冷たさがあったけど。今は、わざと錆びつかせた歯車を無理やり回してるような、変な摩擦(ノイズ)を感じるよ」

 

 

茜は、カウレスの「技術者としての指摘」をデータとして処理しながら、内心で演算を走らせた。

 

(――誤算。スヴィンの本能、フラットの解析、カウレスの技術的視点。彼らにとって、僕が纏った『人間らしさ』は、単なる『不自然な異物』として逆検知されている。隠蔽率の再定義が必要だ)

 

 

だが、その思考を断ち切るように、教室の最前列から「女王の宣告」が響いた。

 

 

 

「――そこまでになさい、貴方たち。私の『所有物(時計)』を勝手に分解(解析)しようとするのは、不作法というものですわ」

 

 

ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトが、優雅に扇子を閉じ、茜へと歩み寄った。

 

彼女のサファイアの瞳は、先日のデート(メンテナンス)で直接触れた茜の「回路の深淵」を記憶している。その彼女にとって、今の茜の表面を覆う「安っぽい外套」は、彼女の審美眼に対する明白な侮辱だった。

 

 

「……おはようございます、ルヴィアさん。昨日アドバイスいただいた通り、少し人間らしい『揺らぎ』を取り入れてみたのですが」

 

「黙りなさい。貴方は、私の宝石の輝きを調律した男ですわよ。それを、どこの路地裏に落ちているような三流のジャンク品に成り済まそうなど……私の美学が許しませんわ!」

 

 

ルヴィアは、茜の胸元に指先を突き立てた。

 

触れた箇所から、彼女の高純度な魔力が茜の回路へと「逆流探知」を仕掛ける。

 

 

「……っ、やはり! 貴方のその美しい数式の流れに、昨日までなかった『冷酷な毒』が混ざり込んでいますわ! しかも、それを隠すためにこんな野蛮な外套(パッチ)を着るなんて……。貴方、昨夜一体どこの馬の骨に、その貴重なハードウェアを汚されましたの!?」

 

「……どこの馬の骨、ですか。論理的には、アトラスという名の巨大な演算機群ですが」

 

 

茜が淡々と(しかしルヴィアを激怒させるのに十分な正直さで)答えると、教室中の空気が凍りついた。

 

 

 

アトラス。その名が出た瞬間、後ろで控えていたグレイが、僅かに肩を揺らした。

 

「……竜胆さん。アトラス、って……あの、地下の事件の時の……?」

 

 

グレイは、不安げな瞳で茜を見つめていた。

 

 

彼女は、茜が「平穏」という目的のために、どれほど窮屈で、苦痛に満ちた偽装(人間らしさ)を自分に強いているかを、彼女自身の「顔を隠すフード」という重みを通じて理解していた。

 

「……竜胆さん。貴方、とても……苦しそうです。その、重そうなコート(ノイズ)の下で、貴方の心が悲鳴を上げているのが……私には視えます」

 

「悲鳴? いいえ、これは単なる排熱効率の低下による、一時的な……」

 

 

茜の言葉は、グレイの悲しげな視線によって遮られた。

 

怪物たちに囲まれたこの教室において、唯一、グレイだけが「理論の正当性」ではなく「生身の苦痛」として彼の偽装を看破していた。

 

 

(――解析不能。ルヴィアさんの嫉妬、スヴィンの本能、フラットの解析、カウレスの懸念、そしてグレイさんの共感。……僕が纏った『人間(外套)』は、この教室という特異点においては、もはや一瞬で発火する導火線でしかないのか)

 

 

 

茜は、ノートを机に置き、溜息をついた。

 

もはや偽装パッチは意味をなさない。彼は、外套の出力を最小限に抑え、本来の「静かなるバグ」としての瞳を彼らに向けた。

 

 

「……分かりました。この偽装は、少なくとも君たちの前では非効率であると断定(デバッグ)します。……ただし、ルヴィアさん。僕を弄ったのは馬の骨ではなく、アトラスの錬金術師です。そして彼らは――」

 

 

茜が言葉を続けようとした、その時。

 

 

 

 

 

カラン、と。

 

 

教室の窓の外。テラス席のあるカフェテリアの方向に、茜の L4 <<環境並列演算網>> が、「自分と全く同じ波長の Ping(接続要請)」を検知した。

 

 

(――捕捉。外部演算領域において、僕の権限を模倣した『偽の管理者』がログインを試みています。……距離、200メートル。カフェ・テラスの定位置)

 

 

茜の視線が、窓の外へと固定される。

 

そこには、昨夜の手紙が告げた通り、「直接の観測者」が、茜自身の演算波長を完璧に模倣して、旧友のように座って彼を待っていた。

 

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